第一章【宮村鈴音】第四節

 時間の止まった鵙ヶ丘もずがおかの町を、ナヴィエルとあたしは並んで歩いていた。

 夕暮れのオレンジが、まるでフィルム越しにかけられたように滲んでいて、世界そのものが眠りに落ちる寸前のようだった。


 風はやわらかく、どこか懐かしい匂いがした。たぶん、夕飯の支度の匂いとか、木の実の甘さを含んだ秋の風の記憶とか、そういうものが混じり合っているんだと思う。


 人の気配はまるでないのに、町は不思議とぬくもりを帯びていた。

 道端に停められた自転車、つけっぱなしのテレビの音がわずかに漏れ出す民家、玄関先に脱ぎ捨てられた小さな運動靴――すべてが止まっているのに、消えていない。


 まるで、水彩画の中に閉じ込められたような世界だった。にじんだ輪郭が、どこか優しくて、そして少し寂しい。


 「まずは、君の部屋から始めようか」


 ナヴィエルが静かにそう言ったとき、あたしは小さく頷いた。

 口に出さずとも、彼はわかっているらしい。あたしがどこに行きたいのか、何から向き合わなきゃいけないのかを。


 ここは、あたしの“死にたい理由”を探すための旅。

 そのスタート地点に選んだのは、自分の部屋――誰にも知られずに泣いた、あの小さな箱庭だった。


 住宅街の奥、古びた一軒家の二階。

 懐かしい階段を一歩ずつ上がっていくたびに、胸の奥がざわついていく。

 手すりの色あせた木、少し軋む床、すべてが“知っている”感覚だ。でもそれが、やけに遠く感じる。


 扉の前で立ち止まると、ナヴィエルが一歩、後ろに下がってくれた。

 気づかいがありがたくて、でも同時に、少し怖くもなった。

 扉の向こうには、ずっと蓋をしてきた“あの時間”が眠っている。


 ――カチリ。


 ドアノブを回して、ゆっくりと開く。

 その瞬間、記憶の埃が舞い上がるような感覚に襲われた。


 ベッドの上には、丸まったままの毛布。

 机の上には、何ページも書きかけのまま止まったノートと、芯の折れた鉛筆。

 窓際には、水を絶たれた植木鉢がぽつんと置かれている。


 全部、あのときのままだった。

 この部屋の空気は、あの頃の涙を吸いこんだまま、まだそこにいる。


 「……何も変わってないんだね」


 呟くと、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 この部屋には、たくさんの“泣き声”が染み込んでいる。

 だけどそのどれもが、誰にも届かないままだった。


 「ここには、何があったの?」


 ナヴィエルの声は柔らかく、そっと触れるような響きだった。

 あたしは視線を落としながら、ぽつぽつと語りはじめる。


 「……毎日、ここで泣いてた。誰にも気づかれないように、声を殺して。家の中では、“ちゃんとした宮村鈴音”を演じなきゃいけなかったから」


 暴力も怒鳴り声もない、静かな家庭。でもその静けさが、あたしを壊した。

 温度のない空気の中で、息をひそめるように生きていた。


「成績とか態度とか、“ちゃんとしてる”ことだけが求められてた。あたしが笑ってようと泣いてようと、誰も見てなかった。だから……いつの間にか、自分でも“自分”が分からなくなってた」


 形ばかり整った“幸せ”に、あたしの気持ちはすっぽりと抜け落ちていた。

 誰にも迷惑をかけないように、ただ、いい子でいようとした。

 でもそのうち、本当のあたしがどこかへ行ってしまった気がした。


 ナヴィエルは何も言わず、ただそこにいてくれた。

否定もしない、慰めもしない。

 でも、その沈黙がどこかやさしくて、あたしの言葉は自然と続いていく。


 「“大丈夫”って言葉しか、口にできなかった。ほんとは全然、大丈夫なんかじゃなかったのに」


 ふいに――


 ふわり、と視界の隅に“色”が現れる。

 灰色に近いけれど、かすかに青みがかった、まるで冷たい涙のような色。


 ナヴィエルの手元に、淡く光る筆のようなものが現れ、それで何もない空間に一筆を走らせた。空気が震えるような音がして、色彩がぽつりと浮かぶ。


 パレットに、一色。


 それは“家庭における孤独”の色だった。


 「これは君の記憶が生んだ色。死神の色は、死にたい理由の欠片を、目に見える形にしていくんだ」


 その色は冷たいのに、なぜか見ていられた。

 ずっと心の奥で見ないふりをしてきたものが、形を持った瞬間――ほんの少し、救われた気がした。


 あたしはその色を、怖いとは思わなかった。

 むしろ、ずっと目を背けていたものを見せられた気がして、ほんのすこしだけ、深呼吸ができた。


 「次は……どこに行こうか?」


 ナヴィエルの問いに、あたしは少し考えて、口を開いた。


 「公園……かな。小さいころ、よく行ってた場所があるんだ。ブランコに乗って、ずっと空を見てた。誰にも何も言われない場所だった。あたしが、あたしでいられた場所だった」


 「よし、行ってみよう。君の心に残っている景色を、見つけに行こう」


 教室に戻ることもなく、二人でまた歩き出す。

 時間が止まったこの町で、あたしの中にある“理由”を一つずつ集めるように――。


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