第一章【宮村鈴音】第五節


 ナヴィエルとあたしは、また歩きはじめた。


 町の風景は相変わらず、止まったままだった。

 それでも、さっきよりほんの少しだけ、色が増えたような気がする。さっき生まれた“あの色”が、まだ空気の奥に残っている気がして、足取りもどこか軽くなった。


 目指すのは、あたしが小さい頃によく行っていた公園。

 家と学校にあいだにあって、放課後のほんの僅かな時間だけ、あたしが自由でいられる場所だった。


 「……あの頃のあたしは、まだ“死にたい”ってなんて思っていなかったと思う。でも“ここにいたくない”って気持ちは、たぶん芽生えていたんだ」


 ぽつり呟くと、ナヴィエルは短く頷いた。

 彼はあたしの歩幅に合わせて歩いてくれている。

 昔の帰り道の記憶がよみがえる。ランドセルの重さや、砂鉄の匂い、誰とも話さずに家に帰る静けさ。

 どれもが、色が薄くなっているが残っている気がした。


 やがて、公園が見えてきた。


 すべり台や、鉄棒はうっすらと錆びつき、落ち葉がブランコの周りを埋めていた。

 でも、そこにはちゃんと“記憶”が息づいていた。


 「ここだよ、あたしが、あたしに戻れる場所」


 ブランコに近づいて、そっと手を添えると、チェーンがかすかに音を立てた。

 まだこの世界の“時間”は止まっているはずなのに、その音だけは確かに響いた気がした。


 「ここで、空を見てた。誰にも怒られないし、何も演じなくてよかった。ただ、風が吹いて、雲が流れて、それだけでよかった」


 あたしはそっと腰を下ろし、足を地面につけたまま、ゆらゆらと揺れてみた。

 ナヴィエルは少し離れたベンチに腰をかけ、静かに見守っている。


 「でもね、気付いちゃったの。“自分がいない”って感覚は、どこに行っても消えないんだって…」


 どれだけ空を見上げても、学校で笑っても、家で“いい子”を続けても、あたしの心は、どこにも無かった。

 誰も目にも映らず、誰の声にも届かず、ただ透明なまま。


 「……そのうち、自分の存在が夢みたいに思えてきた。あたしは本当に生きているのかなって。いつ消えてもいいような気がしてた」


 言葉にしてみると、それは思ったよりもあっさりしていて、だけど、深く冷たかった。

 あの頃の気持ちは、まるで薄氷はくひょうのように、ひとつ触れれば砕けてしまいそうだった。


 「“死にたい”って、最初は思わなかった。ただ、“いなくなりたい”って……」


 その時だった。


 また視界の隅に、“色”が現れる。

 今度は、薄い水色──でも、灰のような鈍さを孕んでいて、透明感の奥に痛みを含んでいた。


 「……これは、“存在の希薄さ”の色」


 ナヴィエルが筆を取り、空に一筆を加えると、空気が静かに震えた。宙に浮かんだその色は、どこか頼りなく揺れていて、でもずっとあたしの中にあったものだった。


 「その色、綺麗だと思った…変だけど」


 「変じゃないよ」

 ナヴィエルは、微笑んだ。


 「君の気持ちは、誰にも理解されないのかもしれない。でも確かに“あった”ものだった。だからそれはこうして“色”として残る。消えずに、そこにある」


 “消えずに”──その言葉に、少しだけ心が揺れた。

 あたしがいくら泣いても、誰にも気づかれなくても、ここにある“色”は、ちゃんと残っている。


 「……じゃあ、次は学校に行きたい」


 「うん」


 「教室の隅、誰にも声をかけられなかった席。たぶん、あそこにも“理由”がある」


 再び立ち上がる。

 あたしとナヴィエルは、公園をあとにして、また歩きはじめた。


 止まった時間の中で、あたしは一つずつ、自分を取り戻していく。

 涙のあとが色になるなら、全部みていきたいと思った。


 “死にたい理由”を探すためなのに、色があたしのパレットの中に落とされる度に“生きていた”と感じてしまう。

 それと同時に次の色がパレットに加わった瞬間、きっとあたしは満たされる気がしていた。


 鵙ヶ丘もずがおか中学校が見えた。かつて逃げた場所なのに、今はただ、確かに“いた”場所として見えた。

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