第一章【宮村鈴音】第三節

 翌日も、そしてその次の日も、ナヴィエルは現れた。


 教室の隅では、誰かが笑っていた。廊下の向こうからは、部活帰りの足音や、楽しげな声がこだましている。

 けれど、そんな音がまるで自分とは別の世界のことのように聞こえた。


 放課後の教室には、夕暮れが差し込み、黒板に長い影を落としている。

 その中にナヴィエルが現れる。まるで、その空間だけが止まったような感覚。


 「…じゃあ、今日は何を話そうか」


 ナヴィエルはいつものように椅子を引き、あたしの隣に腰を下ろす。

 カタン、と椅子が床をこする音が、もう聞き慣れたものに思えた。

 ほんの数日前まで、こんな存在は“異質”でしかなかったのに。

 今では、その仕草さえ、まるで教室に馴染んでいるようにすら思える。


 「別に、話すことなんて…」


 そう言いかけて、言葉が喉の奥で詰まる。

 話すことが“ない”わけじゃない。

 本当は、話したいことがたくさんある。

 でも、それを口にした瞬間、自分の輪郭がぼやけて、崩れてしまいそうで――怖かった。


 ナヴィエルは無理に促すことはしない。

 ただ静かに、そこに“いてくれる”。


 その沈黙の中で、あたしの口が、勝手に動いた。


 「……子どものころ、絵を描くのが好きだった」


 ぽつりと、ほんの小さな声だった。


 「いつからだろ。誰にも褒められなくなって、関心も持たれなくなって…気づいたら、筆を握らなくなってた。“意味がない”って思うようになってたんだ」


 ナヴィエルは相槌も打たず、ただ耳を傾けていた。

 否定も肯定もしない、その姿勢が、なぜか心地よかった。


 「意味がないことを続けるのって、すごく…怖い」


 「そう。でも、意味がないからこそ、それは“君の色”になるんだよ」


 「……色、か」


 あたしの中のパレットは、もう何も塗れないと思っていた。

 あの日、ナヴィエルの言葉によって垂らされた“死の色”以外は、何も残っていないと思っていた。


 「君が死にたい理由の中には、“色を失くした痛み”もあるのかもしれないね」


 「そんなの…理由になるの?」


 「なるさ。理由は大小じゃない。たったひとつのきっかけが、心のすべてを塗りつぶすこともある。そして、どんなに小さな出来事でも、心の色を失くすことだってある」


 言われたことが正しいのかどうか、あたしにはわからない。けれど、その言葉が胸にすっと入り込んできた。


 「……探してみようかな」


 自分でも驚くほど自然に、その言葉が口をついた。


 ナヴィエルが、あたしの方を見た。


 「君が死にたい理由を、かい?」


 あたしは鞄の中から、小さなスケッチブックを取り出した。

 何年も開くことのなかった、折りたたみの表紙を撫でる。

 最初に絵を描いたのは、小学校の図工の時間だった。

 あの頃は、下手でも笑ってくれる人がいた。

 でも今は、ただの紙の束にしか見えない。


 「うん。生きたいからじゃない。どうして“死にたいのか”、その理由をちゃんと探してみたいの」


 ナヴィエルは、ゆっくりと頷いた。


 「じゃあ、今から探しに行こう。君の為に、君の中のパレットに、色を取り戻すための場所へ」


 死神のくせに、まるであたしを“生かそう”としてるような言い方だった。

 でも、不思議と違和感はなかった。


 あたしはスケッチブックと鉛筆を手に、教室の扉を開けて駆け出した。

 その瞬間、まるで世界の時間が止まったような気がした。


 「さあ、一緒に行こう。君が行きたいところへ」


 「うん、まずは…あたしの部屋かな」


 ナヴィエルの顔は見なかったけど、たぶんあの人は、笑っていたと思う。


 階段を降りて、踊り場の鏡にふと目をやる。

 そこに映った自分の顔を見て、驚いた。


 なんで、こんなに“ワクワクした顔”をしているの?


 あたしとナヴィエルは、止まった時間の中、夕暮れの鵙ヶ丘の町を歩き始めた。


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