第五章 2
来るときにはあっという間に感じられたというのに、ロレーナに行くまでには三日もかかった。
馬車は、夜陰に乗じて王宮の裏口に付けられた。
「こちらへ」
従者が王宮をなかへと案内すると、そこはアルヴァロッドも知っている道である。
これは、王子の私室へ通ずる通路だ。彼はそう悟った。
「やあ、戻ってきたね」
アレクサンダーは晴れやかな笑顔で二人を迎えた。
「待ってたよ」
彼は小さなテーブルの上に用意した杯に酒を満たすと、それぞれを二人に渡した。
そして自分も杯を持ち上げると、
「じゃ、まずは乾杯しよう。君たちの帰郷に」
とくいっと酒を飲み干した。
「王子、状況を教えてください」
「神官長には、すでに知らせてある。アレクサちゃんが戻ってくるってね。君は重い病気で療養中ってことになっているから、その辺のことは安心しててよ。問題は、お前のお父上だよ」
王子は真剣な顔で言った。
「爵位を継いでしまっている以上は、公爵はまだお前だ。でも、お父上は未だに強い影響力を持っている。それをどうするかだよね」
「……」
そんなものは、捨てたつもりだった。誰かにくれてやれと、捨て台詞を吐いてきた。
父は、それについてなにもしなかったというのか。
「父子で、よく話し合った方がいいんじゃない」
王子はこう言うが、話し合って解決するのならとっくにそうしているだろう。
幼い頃に見た、母を悲しませ暴力を振るう父の姿が瞼から焼きついて離れない。話し合いで、分かり合える相手ではない。
思わず面を伏せるアルヴァロッドを、アレクサが気遣わしげに見る。
「旦那様……」
「父のことは、私がなんとかする。私の身内だ。私の責任だ」
「じゃあそこはお前に任せるとして、あとはアレクサちゃんだね。国民はアレクサちゃんの帰りを今か今かと一日千秋の思いで待っているよ。そろそろ、帰ってあげてよ」
「私で、いいんでしょうか」
およそ、人々に支持された覚えなど数えるくらいしかない。
「今の間に合わせのいんちき巫女よかずっといいよ。なにしろ、なーんにもできないんだから」
「……」
迷うアレクサに、横からアルヴァロッドがそっと言った。
「アレクサ」
彼女は顔を上げた。
「行こう。私がついている」
それを聞いて、なぜかほっとした。そうだ。私は一人じゃない。
アレクサはこくん、とうなづいた。
「よーしよしよし。じゃあお祝いしよう。お祝いするには、人がいるよね」
王子は手を叩いて、人を呼んだ。
「会わせたいひとがいるんだよ」
呼ばれてやってきた者の顔を見て、アレクサはあっと声を上げた。
「ローレンさん」
果たしてそれは、なつかしいローレンであった。
「アレクサ様」
ローレンも歩み寄ってきて、アレクサの手を取った。
「お懐かしい、お元気でいらっしゃいましたか」
「よかった。無事でいたんですね」
「ローレン。ここで働いていたのか」
アルヴァロッドにとっても、ローレンは彼の別邸で働いていた使用人である。いや、それ以上の存在といっていい。気になっていなかったはずがない。
「さあ、感動の再会をお祝いといこう。それからローレン、二人を部屋に案内してあげて」
「はい殿下」
アルヴァロッドはさりげなく、ローレンに、
「部屋は別々で頼む」
と囁いておいた。かしこまりました、彼女は取り澄ました顔でうなづいた。
「それでは、おやすみなさいませ」
アレクサの隣の部屋に案内されて、アルヴァロッドは扉を閉めようとしている彼女に追いついて言った。
「アレクサ」
「旦那様……?」
「言っておきたいことがある」
「なんでしょう」
「お前が海の巫女としての務めを果たし、民衆に認められた時には」
「はい」
「私はお前を私の妻に迎えようと思う」
「――」
暗闇に、アレクサの顔がわずかに赤くなったようだ。しかし、それも闇のなかではよくわからない。夜の挨拶をして、アルヴァロッドは自分の部屋に戻っていった。
翌朝一番に、アレクサはアルヴァロッドと共に神殿に赴いた。
神官長は既に知らせを受けていて、アレクサの到着を今か今かと待っていた。
「お着きだ」
「おお……」
「お連れしろ」
控えの間にやってきたアレクサは、神官長と数か月ぶりに再会した。
「神官長さま」
「アレクサ様。ご無事で」
「ごめんなさい。飛び出したりして」
「いいえ、いいえ。あなた様がそこまで悩んでいらっしゃるのを、見抜けなかった私の落ち度でございます。すべて、私のせいなのです」
神官長は二人を奥へ連れて行きながらロレーナの現在を話し始めた。
「ロレーナは今、荒れています」
「――」
「何隻もの船が沈みました。それと共に、荷も。海が荒れ放題に荒れているからです。海神が、お怒りなのです。正しい奉納が行われていないのです。正規の海の巫女によるものではない奉納は、海神の怒りを買います。そのため、魚も獲れません。こんなことは、初めてです」
「ああ、私のせいで……」
「ですが、アレクサ様がこうしてお帰りになってくださったのなら一安心です。もうじき、夏の奉納の時期が来ます。その日に民にアレクサ様の帰郷を知らせましょう。きっとみな、喜ぶと思います」
「喜ぶ……?」
そんなこと、あるだろうか。
私はここを飛び出したのだ。逃げ出したのだ。
それを大手を振って迎え入れてくれるなんてこと、あるだろうか。そんなことは、ちょっと考えにくい。
不安が胸をよぎる。
王城に帰る前、アレクサは浜辺に寄った。
ザ……
胸いっぱいに、潮風を吸い込む。
ああ、海だ。
私、帰ってきた。
海に。
しかしようやく帰ってきた故郷の海は黒く荒れていて、波は白く高く、うねっている。
怒っているのだ。
奉納の日まで、十日。
あの複雑な舞を、十日の稽古でこなせるだろうか。いや、やらねばならない。
翌日から、アレクサは神殿に通い始めた。必死だった。無我夢中になって、朝から晩まで練習した。
当初は振り付けなども忘れてしまっていたが、やがて身体が思い出して、するすると足や手が動き出してからは、早かった。
儀式の当日、人々はてっきり、代理の巫女リリアナがやってくるものだとばかり思って、顔を見合わせてその登場を待った。そして囁き合った、
これ以上海神のお怒りを買うようなことをして、神官長はなにを考えていなさるんだ。 まったくだ。だったらまだ前の巫女のほうがよかった。不吉な託宣はしていたが、ここまではひどくなかったからな。それに、彼女の時はこんなに海は荒れなかったぞ。
ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ。
それを広間で聞いていたアルヴァロッドは、人心はここまで乱れているのかと驚いていた。たかだか数か月の留守で、これまでとは。
そこで扇をぱちん、と開く音がして、儀式の開始が知らされた。
巫女がしずしずと入ってくるのを見て、人々は声にならない驚きの声を上げた。
それは、まさしくアレクサであったからである。
海の巫女は奉納の舞の衣装を纏い、長剣と扇を持って静かに、静かに舞を舞った。
厳かに、そして段々と猛々しく。
長剣が空を舞い、扇が宙にひらめく。
そして、同時に巫女も。
ちりん、ちりん、鈴が鳴る。
ぱちん、ぱちん、扇が開き、また閉じる。
ひらひら、ひらひら、剣が舞っては、また空をゆく。
そして、奉納はしめやかに終えられた。
巫女が舞を終えて控えの間に行ってしまうと、人々はほう、とため息をついた。
そして言い合った。
あれは、病気療養中だった先の海の巫女だ。戻られたのか。ようやくのおでましだ。なんでも、臥せっていたとか。ほら、あそこに婚約者の、公爵様もお見えだ。ずっとお側にいらっしゃったらしいぞ。と、いうことは、やはりあれは先の巫女ということなのか。
と、広間がざわついていると、聖なる餅を持った神官たちと共に、巫女が戻ってきた。
人々は歓喜の声を上げて、その順番に並ぼうと列を作り始めた。
そして彼らが神殿の外に出た時――
海は、静かに凪いでいたのである。
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