第五章 1
初めは、生きていくのに夢中だった。
アレクサンダー王子の言った山小屋は、確かにあった。
それはロレーナの領地から外の彼の持ち物である領土のなかで、山深いなかにあり、樹々が生い茂っている人の気配のない場所であった。
山小屋のなかには壁はなく、暖炉と、台所と、テーブルと戸棚、箪笥に、奥に大きなベッドがあるのみで、風呂はそこから外に行くとあるようだった。
アルヴァロッドは足を怪我していたので、その治療をするのには手間がかかった。
なにしろ、医師の手などない、山奥である。
アレクサはアルバを連れて山に分け入り、薬草を探しに出た。アルヴァロッドはそのなかから自分の知るものを選り分けて、アレクサに指示して台所ですり潰させた。
そうして、傷を治していったのである。
小屋の外には貯蔵庫のようなものもあって、そこには肉の塩漬けなどがあり、アルヴァロッドが狩りに出かけられない以上はそれを食べていくしか他に方法がなかった。その他にも小屋のなかには『食べられるキノコと山菜の見分け方』という本があって、アレクサはそれを頼りに山に出かけていっては、山の幸を山のように採ってきて調理した。
そんなことに夢中で、ベッドを共にしているということにも特別、違和感を抱いていなかった。
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アルヴァロッドが立ち歩けるようになると、彼はまず木を伐りだして衝立を作った。
「これでは着替えもままならない。お前も気が休まらないだろう」
それは確かにそうだった。壁がいっさいないこの小屋のなかでは、それとなく浴室に出ていってそこで着替えているアレクサなのである。
アルヴァロッドは朝起きると、まず薪を切る。アレクサはその間に家のなかを掃除して、朝食を作る。
「旦那様、朝ごはんができました」
「ああ、今行く」
そうして、二人で朝食を過ごす。アルバは自分で山に出ていって、自分で獲物を取ってくる。
片づけが終わったら、今度は山菜とキノコを採りに二人で出かけていく。あまり一か所で採りすぎるとすぐなくなってしまうので、あちこちを歩いて探さなくてはならなかった。
そうして昼頃までそれを続けて、昼食は貯蔵庫の食料を食べることにしている。それがすべてなくなる前に、備蓄をしなくてはならないと話し合っているところだ。
アレクサは小屋に残って片づけをし、山菜とキノコの選別をして、アルヴァロッドはそのまま狩りに出かけるというわけだ。
彼が怪我人でなくなった以上、困った事態になったことが一つあった。
寝床の共有である。
足の治療に夢中になっていた頃は、熱が出たりそれを看病したりして、アレクサも側でうたた寝をしたり添い寝をするに留まった。
しかし、そうでなくなった以上は、大きなベッドが一つしかないのでは、寝る場所は一つであろう。
これは気まずいな。
アルヴァロッドはそのばかでかいベッドの前に立ってどうすればいいか、しばし考えていた。
「アレクサ」
「はい」
寝ようとする彼女に、アルヴァロッドはこほん、と咳払いした。
「お前、なにも思うところはないのか」
「え?」
きょときょとと瞬きをする瞳に、わかってないな、と思い、腰かけているベッドを黙って指差した。
「あ……」
それでようやく気がついたのか、アレクサの顔が見る見る赤くなった。
「私、床で寝ます」
「今さら何を」
「でも」
「女のお前にそんなことをさせるわけにはいかぬ」
「旦那様こそ、病み上がりのお身体でそんなことをしてはいけません」
言い合いながらも、前にもこんなことがあったな、いつだったか、と考えていた。
言い合いは、途中で終わった。
怪我が完全に治っていない彼が大きく前に出ようとしてその足が疼き、思わず蹴躓いてしまったからである。
「あっ……」
これには、アレクサも慌てた。彼女は急いでアルヴァロッドを支えようとして手を伸ばし、その体重が支えきれなくて倒れそうになった。アルヴァロッドは、それを防ごうとしてそのままベッドに倒れ込んだ。
「――」
そうして気がつけばアレクサが下に、アルヴァロッドが上になる形で、ベッドの上で折り重なってしまったのである。
これは、かなり気まずい。
「だ、旦那様……」
アレクサは、紳士な彼のことだからすぐにアルヴァロッドがどくものだとばかり思っていた。
しかし違った。
彼はそのまま、じっとアレクサを見つめているのである。
これも、気まずい。
「……だんなさま?」
「アレクサ」
アルヴァロッドは熱っぽい瞳でアレクサを見下ろした。
元より想いを寄せ合う健康な男女が、一つ屋根の下で寝床を共にしていてなにか起きないという方がおかしいのである。
アレクサも、その目の熱さに気がついた。
視線と視線が絡み合い、顔と顔が近づいた。
唇が、徐々に近づいてくる。
そして、それがまさに触れあうといったと時に――
「おーい、来たよー。いるー?」
小屋の外で、間延びした声が聞こえてきた。
二人はそれで我に返り、ぱっと身体を離した。
アルヴァロッドは扉の方へ歩いて行き、その迷惑な訪問者のために扉を開けた。
それは、彼が思っていた通りの人物であった。
「やあ久しぶり。お邪魔だった?」
「ええ。かなり」
むすっとして、アルヴァロッドは王子を迎え入れた。
「お前は相変わらずだなあ」
王子はからからと笑って小屋のなかに入ると、台所に立って香茶の支度を始めているアレクサに、
「アレクサちゃーん、ここの住み心地はどうー? アルヴァと仲良くできてるー?」
と声を張り上げた。
「なにしにきたんです」
アルヴァロッドは興味深げに小屋のなかを見回す王子に向かって用件を尋ねた。逃亡中の身分である以上は、目立つことはなによりも避けなければならない。
「ん、身の回りの物をね、持ってきたんだよ。あと、二人の顔を見たくなったから」
二人がロレーナから逃亡したあの日から、二か月が経っている。
服などの生活用具はちまちまと王子が送っていたくれたが、まさか本人が持って来なくてもいいものだろう。アルヴァロッドはそこに、なにか意味を汲み取った。
「……なにか、あったんですね」
「相変わらず、そういうとこも鋭いね。当たりだよ。ロレーナは今、ちょっとした騒ぎに見舞われてる」
「騒ぎ……?」
「海が荒れ放題で、手がつけられないんだ」
「海が……」
横で黙って聞いていたアレクサが、小さく呟く。
「風が吹き荒れて、波が猛って、船も出せない。やってくる交易の船は軒並み沈没するから商売もできない。そんなだから、漁もできない。魚も、いない」
「魚が?」
「一匹も獲れないんだって。姿が見えないんだそうだ。神官長はほとほと困って、アレクサちゃんの妹のなんとかって子を次の海の巫女に迎え入れたんだけど、まるでだめでさ。
海は益々荒れるし、漁には行けないし、イードバーカの家には石が投げられてるって」
「リリアナが……」
「これは、やはり前の海の巫女様でないとだめなんじゃないかってみんなで言い合ってるんだけど、なにせ姿が見えなくなっちゃったんだから仕方がないよね。駆け落ちしちゃったんだもの」
「王子」
アルヴァロッドが眉を寄せて、一言余計なアレクサンダーをたしなめるように言葉を荒げた。
「おっと、言い過ぎた。じゃ、僕はこれで帰るよ。お忍びで来たから、あんまり姿を見せないと召し使いたちが怪しむんだ。じゃね」
「あ、王子」
「なに」
「ウリエンスは、どうしています」
「ああ、彼?」
王子は入り口の戸口までやってくると、振り返り様言った。
「今や公爵家はお前の父親が実権を握ってる。そんなのに逆らったから、蟄居を命じられて一人閉じこもってるよ。僕の騎士になってくれたら守ってあげられるって言ったんだけどねえ。お仕えするのはお前一人だとかなんだとか言って、首を縦に振らないんだよ。真面目だね、彼」
「あの、殿下」
「なあにアレクサちゃん」
「ローレンさんは、どうしていますか」
「彼女なら、王城で元気で働いてるよ。なんでもこなすから重宝されてるみたい。お前、召し使いに恵まれてるんだな」
王子はそう言うと、それじゃあごゆっくりーと言い置いて、さっさと消えていってしまった。
「海が……」
アレクサは今聞いた話を自分のなかで処理すればいいのかを、考えているようである。
どうしよう。無責任に逃げてきたばっかりに、こんなことになってしまった。私は、逃げるべきではなかった。
アルヴァロッドはそれを見て、今はそっとしておこうと思い、小屋を出ていった。
それからというものの、アレクサは暇さえあればロレーナの方角をぼーっと見ていることが多くなった。
アルヴァロッドが話しかけようとして顔を上げると、肘をついてその方向を茫然と見やっているのである。
その、横顔。
寂寥のような恋慕のような、切なくも物悲しい表情に、見ているアルヴァロッドがやりきれなくなったほどだ。
――戻りたがっている。
彼は直感した。
アレクサは、海の側にいたいのだ。ああは言ったが、彼女と海を離してはならない。それは離してはならないものなのだ。夜空に星があるように、互いにあって当たり前のものなのだ。
「アレクサ」
ある日、彼はその悲しげな顔を見ているうちにとうとう我慢ができなくなって、たまりかねたようにこう言った。
「帰ろう」
「え……?」
「帰ろう、ロレーナへ。海の側へ」
「旦那様……」
「お前と海を切り離すべきではなかった。あの日、私は反対するべきだった」
「……でも……」
「ロレーナは今、お前を必要としている。帰ろう」
それでも、アレクサはまだ迷っている。
アルヴァロッドは彼女の手を取った。
「お前は私が守る」
自分の手を握る、その大きな手。
骨ばっていて、ごつごつとしていて、温かい。
その体温に初めてほっとしたアレクサは、思わずうなづいていた。
「……はい」
アルヴァロッドは王子に文を出した。
短い滞在であったが、やはり帰郷したいと考えているため隠密裏に馬車の手配を願いたい、こちらは虎を連れているので目立つゆえ、と
返書は、すぐにきた。
それは、とても短いものだった。
『いいよーちょっと待っててねー』
五日ほどして、迎えの者がそっとやってきた。
「麓に馬車を待たせてあります。身の回りのものは、わたくしが後からお持ちいたしますゆえお身軽にお越しください」
と言われ、アルバを連れてそのまま乗った。
アレクサは両手を握り締めて、窓から外を変わりゆく外の風景を眺めていた。
一度は捨てたロレーナが、私を受け入れてくれるだろうか。
海は、私に怒りを抱いていないだろうか。
不安だけが胸に溜まっていく。
その横顔を見て、アルヴァロッドはそっとその膝の上に手を置いた。
それに気づいて、アレクサは彼の方に目をやった。
アルヴァロッドは、なにも言わなかった。ただ、彼女の握り締めた両手の上にその手を乗せただけであった。
アレクサには、それだけで充分だった。
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