第四章 3
2
不穏な気配はひたひたと、静かに、しかし着実にやってきた。
アレクサがその夢を見たのは、八番目の月、藤紫のことであった。
漁師が漁に出る。船を出す。網を張る。しかし、魚がいっこうに獲れない。一匹も獲れないのだ。小魚一匹、蟹一匹とて、網にかからないのである。
網がだめなら釣りはどうだろうと、釣り糸を垂れる。しかし、それも無駄であった。
魚は獲れず、不漁が続く。
そんな毎日で、民が飢えていく。
悪夢であった。
「……」
アレクサが目を覚ました時、またか、と思った。
まただ。また、悪い夢。どうして悪い夢ばかり見るんだろう。これじゃ、悪循環だ。どうして? どうしてなの?
朝になって、彼女はアルヴァロッドの部屋に行った。
「それは、大変なことだ。今度ばかりは、神官長に伝えなければならないぞ」
「はい」
神殿に行ってそれを伝えると、神官長は青くなって立ち上がった。
「そのご託宣は、私の身には余ります。国王陛下にお目通りを願います」
そこで神官長とアレクサとアルヴァロッドで、国王に緊急の謁見を願い出た。
海の巫女というのは時に国王とも対等に話すことのできる立場であるから、喫緊の知らせと聞いて願いはすぐに聞き入れられた。
「どうしたね。緊急の知らせとは」
国王は眉を上げて驚いて、アレクサと面会をした。彼女は夢の話をした。
「ふむ……」
国王は腕を組んで、しばらくの間考え事をしていた。
「不漁、とは。どれくらいの間かね」
「期間はわかりませんが、魚が獲れないのは確かです」
「ふむ。期間がわからないのは困りものだが、幸いにしてこの国にはこういう時のための備蓄の食料がある。少しの間なら、持ちこたえられるだろう。問題は、民の反応だ」
「……」
「託宣が当たった時、彼らはどう反応するかな」
「それは、覚悟をしています。私は大丈夫です」
「彼女は私が守ります」
「神殿に避難していただくことも考えています」
「それは君たちで判断しなさい。危ないと思ったら、いつでも王宮を頼ること。アレクサンダーがぶらぶらしているだろうから、いくらでも使いなさい」
「ありがとうございます」
間もなく、海の巫女のご神託が下ったと発表され、民はその内容に大いにざわついた。
魚が獲れないだと? 不漁だってさ。不漁? どういうことだ。まさか。そんなことはないよ。ロレーナで魚が獲れなかったことなんて、長い間で一度もない。いくらなんでも、俺は信じないねそんなこと。海の巫女のご神託は、絶対じゃない。外れるってことだって、有り得るんだ。不漁だなんて、ないよ。
一週間、二週間……魚は獲れ続けた。民はほっとして、託宣は外れたのだと言い合った。
やっぱり、あの海の巫女は当てにならないな。別のにした方がいいんじゃないのかという声がちらほらと出始めたある日、ぴたりと魚が獲れなくなった。
どれだけ漁に出ようとも、釣り糸を垂れようとも、一匹も魚がかからなくなった。
国民は混乱に陥り、公爵邸に押し寄せた。
どういうことだ、ご神託は本当だったのか、巫女を出せ、説明をさせろ、と民衆が詰めかけたのである。ウリエンス一人ではどうしようもなくなり、話を聞きつけて神殿から神官長がやってきた。
「みなさん、落ち着いてください。巫女様は国王陛下と謁見なされて、すでにお話をされています。備蓄の食料がありますゆえ、心配はないという国王陛下のお言葉を、どうか信じてください。巫女様は、みなさまのそういった不安の常に一歩先を行くためにご神託をされていることを忘れないでください」
静かな声で説得されてしまえば、そういうものなのかと納得する者もちらほらと出てきて、その日はそれで収まった。
しかし、アレクサはそうはいかなかった。
外の騒ぎを聞きつけて、彼女は部屋に引きこもっていた。
「アレクサ、アレクサ」
アルヴァロッドが心配して、部屋にやってきた。
「アレクサ、入るぞ」
もう暗いというのに灯かりも点けずに、彼女はベッドに突っ伏して泣いていた。
「アレクサ……」
「旦那様……」
その、打ちのめされた様子に、アルヴァロッドは言葉を失った。アレクサは身体を起こして、歩み寄ってきた彼に泣きながら訴えた。
「私……私」
涙が、青い瞳からぽろぽろと流れた。
「もう……もうやめてしまいたい……こんなこと、やめてしまいたい……海の巫女なんか、いっそやめてしまいたい。ひとの不幸しか託宣できないなんて、そんなの嫌です。もう嫌です……!」
自分の胸にすがって泣くアレクサを、アルヴァロッドは抱きしめてやるしかない。
「なあアレクサ」
そのやわらかい髪をなでながら、彼は静かに言った。
「やめたいのなら、やめてもいいんだ」
ぴたり、アレクサの泣き声が止んだ。
「やめるか」
彼女は顔を上げた。
「で、でも、そんなことしたら」
その時、扉がノックされて、ローレンが遠慮がちに入ってきた。
「旦那様。本家の大旦那様がお呼びです」
「またか」
「今度は、旦那様だけでよろしいそうです」
アルヴァロッドはアレクサと顔を見合わせた。
本邸に行くと、父はにやにやとして彼を待っていた。
「よもや忘れたわけではあるまいな」
「なにをです」
「前回私が言ったことをだ」
「忘れました」
父の顔が怒りに歪んだ。彼は拳を握って、机の上に叩きつけた。
「今度不吉な託宣をしたら、お前たちの結婚はないと思えと、そう言ったはずだ。アルヴァロッド、あの女との結婚は諦めろ」
「残念ながら、その選択はありません。帰ります」
アルヴァロッドはくるりと
「待てアルヴァロッド。私に逆らえばどうなるか、わかっているのか」
「爵位でもなんでも、差し上げますよ。あなたから受け継いだものなど、この身体だけで充分だ。私はこの家を出ていきます」
「なっなにっ」
「家は従兄弟にでも継がせればいいでしょう。せいぜい頑張りなさることだ」
アルヴァロッドはそう言って、本邸を辞した。
「ウリエンス、別邸に急いで帰ってくれ」
「はっ」
彼は帰宅すると、アレクサの部屋に走った。
「アレクサ」
「旦那様?」
「アレクサ、逃げよう」
「え?」
「父と決別してきた。お前と結婚できないのなら、爵位などいらないと言ってな」
「旦那様……」
「父は間もなく追ってくるだろう。私と逃げよう」
「は、はい」
アレクサは母の形見の櫛と、着替えを一、二枚だけ持ってすぐに支度した。そしてアルバを連れて、アルヴァロッドと共に玄関に向かった。
「公爵様、馬を用意しておきました。お使いください」
ウリエンスが厩から馬を持ってきた。
「私が国境まで、先導いたします」
「すまないウリエンス」
馬で走り始めると、そのうち後ろから大勢の騎士たちが追ってきた。アルヴァロッドは背中越しにそれを見て、舌打ちした。
「もう追ってきたか。思っていたよりも早いな」
矢が放たれて、馬の尻に二、三本当たった。それでも馬は走り続けた。
矢が、アルヴァロッドの足に刺さった。彼は低く呻いて、顔を顰めた。
途中なんとか追っ手を撒くことができて、馬が泡を吹いて座り込んでしまったので歩くことにした。
「もうこの馬はだめだ。頑張ってくれたが……」
「置いていきましょう」
「それより旦那様、足は大丈夫ですか」
「大事ない。引きずる程度だ」
だが置いていった馬がみつかれば、じきにこちらの居場所もむこうに知られるだろう。
しばらく歩いているうちに、後方に灯かりが見えた。
「いたぞ、あそこだ」
「いかん、見つかった」
「走って」
矢が次々に放たれて、大勢がこちらに駆け寄ってくる物音が聞こえてきた。
ウリエンスが、強く歯噛みして立ち止まった。彼は抜刀した。
「ウリエンス?」
「行ってください。ここは私が引き止める」
「だめだウリエンス。そんなことをしたらお前が」
「私はアルヴァロッド公爵様にお仕えしているのであって、大旦那様にお仕えしているわけではありません。どのような処罰も、受ける覚悟です」
「ウリエンス」
アルヴァロッドはそこに跪く騎士にむかって言った。
「逃亡先が落ち着いたら、きっと文を書く。いつか、会いに来てくれ」
「それはなりません。私が接触したら、あなた様の居場所が大旦那様に知られてしまうでしょう。それだけはなりません」
彼はきっぱりと言った。
「今生の、お別れでございます」
ウリエンスは一人、追っ手に飛びかかっていった。
「ウリ……」
「旦那様、だめです」
アレクサはアルヴァロッドを止めた。彼はアレクサを見た。
「行きましょう」
アルヴァロッドはウリエンスが消えていった方向をしばしの間見つめていたが、やがて前を見直して、足を引きずって歩きだした。
しばらく行くと、闇のむこうから物音がした。アルヴァロッドは思わず身構えて、
「誰だ」
と誰何した。
「やあ、いたね。やっと追いついたよ」
その声の持ち主は闇のなかから出てきて、にこにこと笑いながら言った。
「まったくお前たちったら、存外足が早いんだもの。追いつくのにこんなに時間がかかっちゃったよ」
「王子……」
彼だった。
「やあ」
彼はさっぱりとした顔でアルヴァロッドに話しかけた。
「ずいぶん思い切ったね」
「なにしにきたんです。からかいにですか」
「忠告に来たのさ。ここから国境に逃げても、先回りされてるってね。だから、いいこと教えてあげる。ロレーナの外の僕の持ってる領地にのはずれに、もうひとが住んでいない寂れた小屋があるんだよ。ちょうど人間が二人と、虎が住むのにいい大きささ。山のなかにあって、狩りをすれば獲物もある。山菜が採れるし、キノコなんかもあるよ。そこの場所は誰にも知られていなくて、もう忘れられて久しいんだ。僕ですら覚えていないくらい」
「王子……」
「お前たちは今からそこに行って、公爵でも海の巫女でもなく、二人の男女として暮らしていくがいいよ。身の回りのものは、少しずつ運ばせる。あとは任せておいて」
さ、行って。王子は言うと、アルヴァロッドの背中を押した。
虎が背を屈めて、アレクサの顔を見上げた。アレクサはその背中に乗った。
アルヴァロッドは自分もアルバの背中に乗ると、一言それを見守る王子にむかって言った。
「アレク、ありがとう」
王子もにやりとして言う、
「ようやくその名で呼んだね、アルヴァ」
彼が片手を上げて挨拶をすると、虎がタッと走り出した。
闇のむこうでは、まだ騎士が追っ手と戦っている。
王子はそれを覚めた瞳で見て、さてこれをどうしてくれようかな、と考えていた。
「アレクサ、これでいいのか」
「いい、とは?」
「海と離れてしまう。お前は海が好きだろう」
虎の背の上で揺られながら、アレクサはちょっとの間考えていた。
「好きです。好きだけど、離れがたいほど好きだというわけではありません。海は遠くにあって心に思うもの。そう決めたんです。私、大丈夫です」
「そうか」
虎は金色の毛皮からかすかな光を放ちながら、暗闇のなかを一心に走っている。
二人の姿は、国境には現われなかった。
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