第四章 2

六番目の月、萌黄になった。雨季である。

 アレクサはローレンと共に、夕食の材料の買い出しにでかけた。

 左手には、アルヴァロッドから贈られた青い宝石の指輪が光っている。

 本当はしまっておこうとしたのだが、彼が指にしておけ、というので、こうして指に嵌めているというわけだ。失くすのが恐いですと言ったら、いつもしていれば失くしようがないと反論された。

 来月は奉納の舞があるので、その練習をしなければならないな、と思っていた時のことである。

 雨に降られて、慌てて帰宅した。

「まあまあ、急に降ってきましたねえ」

 夕飯までにはまた時間があるので、それまで休むことにした。横になると、なんだかとろとろと眠気がした。それでつい眠ってしまって、アレクサは少しの間昼寝をした。

 その間、また夢を見た。

 海のむこうがもくもくと立ち上がってきたかと思うと、死んだ魚が溢れてきて海を埋め尽くす夢である。

 アレクサは飛び起きた。

 そして、今見たものを頭のなかで反芻した。死んだ魚。埋め尽くされた海。もくもくと立ち上がる波間。

「……」

 ずきずきと頭痛がした。

 その時玄関で馬の嘶きがして、アルヴァロッドが帰宅したことが知れた。アレクサは出迎えに出て、そのまま彼の部屋についていった。そして夢の話をした。

「……死んだ魚か」

「どうして、こんな悪い夢ばかり見るのでしょうか」

 アレクサはうつむいて、悲しげな顔になった。

「悪いことばかりが起きます」

「アレクサ」

 アルヴァロッドは彼女の肩に手を置いて、慰めるように言った。

「そうではない。悪いことを前もって知らせてくれるのだ。これはいいことなのだ」

「……そうでしょうか」

「そうだ。悪いことが起こるとわかっていれば、対処の仕方がわかる。これは吉兆だ」

「……」

 アレクサはうかない顔をしていたが、とにかく知らせは神殿にもたらされた。

「魚が死ぬ……? しかも大量に」

「これは由々しきことです」

「早速浜で待機を」

 神殿は急に慌ただしくなり、漁師たちに知らせがいくなど、忙しくなっていった。

 それを見て、アレクサは心のどこかでほっとしていた。

 旦那様のおっしゃるとおりだった。これは、いいことだったのかもしれない。でも……

 二日後、大量の魚の死体が浜に打ち上げられた。

 市民たちは口々に言った。不吉だ。死んだ魚が打ち上げられるなんて。もうすぐ夏なのに、どういうことだ。あの海の巫女は、不吉なことしかご宣託しない。本当に選ばれた巫女なのか。他の巫女の方がいいんじゃないのか。もっとまともなのがいるんじゃないのか。

 アレクサンダー王子の、彼らは自分の不安を誰かにぶつけたいだけ、という言葉が蘇る。

 聞こえない、なにも聞こえない。私は自分の務めを果たしただけ。それだけ。

 夏の奉納の練習の時期がやってきて、そんなことに耳を貸している暇はなくなってきた。

 毎日毎日、過酷な練習が続いた。

「それでも、身体がなんとなく覚えているので最初よりはだいぶ楽です。振り付けも初めてではありませんし」

「そうして毎年少しずつ身体に馴染んでいって、自分のものになっていくんだ」

 旦那様のお母さまもそうだったのかな、とちらりと思う。そういえばお母さまのお話、聞いたことないな。指輪をいただいた時だけ。

 なにかあったんだろうか。話したくない? 

 もしそうだとしたら、無理矢理に聞いて彼の傷口を広げることはしたくない。アルヴァロッドが話してくれるのを待とう、そう思った。

 七番目の月、白群がやってきて、奉納の日になった。

 一年前は大変だったな、毒を盛られて……とアルヴァロッドが先年のことを思い出しながらアレクサの舞を見守るうちに舞は終わって、今年の夏の奉納は無事に終了した。

「旦那様、ご本家の大旦那様が、近いうちにお顔を見せるようにとご連絡が」

 夕食の席で、ローレンが言いにくそうに言ってきた。ウリエンスが思わず食べる手を止め、アルヴァロッドは何事もなかったかのようにさらりと、

「捨ておけ。行く気はない」

 と返した。食事が再開され、一瞬のその異様な空気にアレクサは疑問に思った。

 そういえば、私婚約者なのに旦那様のお父様にご挨拶ってしたことないわ。した方がいいんじゃないのかしら。ご無礼じゃないのかしら。無作法に、ならないのかしら。

 しかし、アレクサがなにか言おうとする前に、彼女の心を読み取ったかのようにアルヴァロッドが言った。

「アレクサ」

「は、はい」

「余計な心配はしなくてもよい。お前を父に会わせるつもりはない」

「あ、え、で、でも」

「よいのだ」

 アルヴァロッドが珍しくこちらを向いてにこりと笑ったので、アレクサはその笑顔に気圧されてしまい、返事をするのも忘れて、それでその話は終わりになった。

「まあ旦那様は大旦那様のこととなると頑固でございますからねえ」

 片づけをしながら、ローレンが仕方なさそうにため息まじりで言った。

「なにか、あったのでしょうか」

「それは私の口からは申し上げられませんよ。機会が来たら、旦那様の口から聞けるでしょう。そう遠くない将来、必ず聞けますから」

 アレクサは入浴しながら、会ったことのないアルヴァロッドの父親という人物のことを考えいた。自分にも父はいたが、まったく頼りにならないひとであった。だから、父というものの想像がつかない。

 その夜、アレクサはまた夢を見た。

 不吉な夢だった。

 どろどろどろという音と共に、海が赤くなっていく。そしてそこにいた魚が水面に浮いて、魚が呼吸できなくて死んでしまうのだ。

 恐怖のあまり叫びながら飛び起きると、まだ夜中である。

 眠っていたアルバがアレクサが起きたのに心配して、起きてきた。そして足元にすり寄ってくる。アレクサは虎の頭をなでながら、窓辺に歩み寄って庭を見た。

 夜中だというのに、蝉がどこかで鳴いている。

 その声を聞きながら、アレクサは今見たもののことを考えていた。

 赤い海。

 呼吸できない魚。

 恐怖で、ずるずるとそこに座り込んだ。

 言えない。言いたくない。言ったら、また真実になる。恐ろしい真実に。私はそれが怖い。

 アレクサはその晩眠らずに考えた。そして日が昇ると、アルヴァロッドの寝室を訪れた。

「どうした。早いな」

「旦那様……」

 尋常ではない彼女の顔色に、アルヴァロッドはすぐに気がついた。

「なにかあったのか」

「私……」

 アレクサはゆうべ見た夢のことを彼に話した。

「それは大変なことだぞ。すぐに神殿に……」

「だめです」

 アレクサはアルヴァロッドを止めた。

「それはだめです」

「なぜだ」

「そんなことをしたら、悪い夢が事実になってしまいます。言ったらいけない。だめなんです」

「アレクサ」

 自分を押し留める手をやさしくどけて、アルヴァロッドは彼女に言った。

「神託を伝えたから真実になるわけではない。神託は事実になるのだ。すでにそれは、事実なのだ」

「だめです。とにかくだめです。言ってはいけない。言ったら、悪いことになる。言ってはだめです。お願いです旦那様。秘密にしておいてください。言わないで」

「アレクサ……」

「お願いです」

 これだけ真剣に見つめられて必死に願われてしまえば、嫌とは言えなくなってしまう。 正しいことではないと承知のことながら、アルヴァロッドは口を噤んでいることを了承してしまった。

 三日後、海の一部が赤く染まった。そこにいた魚が浮かんできて、えらがぱくぱくと動いていた。呼吸ができなくて、死んでしまったようだと漁師たちは言った。

 国中が騒然となった。

 どういうことだ。なぜ海の巫女はこれを予知できなかった。ご神託はなかったのか。なにか、悪いことがこれから起こるのか。これは凶兆なのか。

「アレクサ様、神殿にお越しください」

 神官がやってきて、アレクサを迎えにやってきた。

「私も行こう」

 アルヴァロッドが立ち上がった。

「今回のことは、私にも責任がある」

 二人は神殿に赴いて、長いこと帰ってこなかった。

 一人で留守番しているローレンは、やきもきして二人の帰りを待った。

 夜分遅くに、アルヴァロッドとアレクサは帰宅してきた。特にアレクサの顔は疲れ果てていて、食事もできないといった有り様だった。

「風呂にだけは入りなさい。疲れが取れるから」

「はい……」

 彼女は疲労困憊した声でそうこたえると、ふらふらと部屋に入っていき、次の日も遅くまで出て来なかった。

 悪いことはそれだけで終わらなかった。

 本家から騎士がやってきて、アルヴァロッドを訪ねてきたのである。

「旦那様、大旦那様がお呼びでございます。婚約者様と共にすぐさまお屋敷へ参られるようにと、ご厳命でございます」

 恭しく頭を下げられて、アルヴァロッドはむ、と唸った。来るか来るかと思っていたが、最悪の時機にやってきたな。

「……相わかった」

 唸るようにこたえ、騎士をそこに待たせ、ローレンを呼んだ。

「アレクサはどうしている」

「さきほど起きてこられて、お食事をすごされています」

「食べたらここに来るように伝えてくれ」

「はい」

 ローレンが案じ顔で出ていって、アルヴァロッドはこれからどうするかと考えていた。

「旦那様、お呼びですか」

「起き抜けのところを悪いが、支度してくれ」

「え?」

「本家に行かなければならなくなった」

「――」

「父の呼び出しだ」

「お父様の……」

 アルヴァロッドは肘をついて、思案するかのように手を顎にやった。

「なにか嫌な予感がする。父が私に会いたいなどと」

 アレクサは支度してきて、馬車のなかで彼に話を聞いた。

「私は父とは仲が悪い。父は母と結婚しておきながら、外に何人も愛人を作って遊び歩いた。帰宅して悲しそうな顔をしている母を見て殴っては罵っていたんだ。それが嫌で、王宮に遊びに行く毎日だった。そうして王子と仲良くなったんだ」

「……そうだったんですか」

「そんな生活が続いて、母は長年の無理がたたって亡くなってしまった。私は父を恨んだ。 父こそが母を殺したんだと思ってな。父が身体を悪くして私が爵位を継いで、一緒に暮らしたくなくてあの別邸に移った。顔も見たくなかった」

「旦那様……」

「父も、母に似た私を見ていると色々と思い出すのだろう。なにも言わなかった。そうして親子断絶というわけさ」

「……」

「なのに突然私に会いたいから会いに来いとは、これはなにかあるに違いないと、私が訝しむのも当然だとは思わないか」

 と、表で馬車が止まった。アレクサが窓の外を見ると、ウリエンスが馬から下りるのが見えた。

「着いたぞ」

 従者が扉を開け、馬車から下りて本邸を見上げてみれば、別邸とは比べものにならないほど大きな建物である。

 別邸も大きかったが、やはり少人数で暮らすためのものであった。

 本邸は、荘厳な造り、歴史を感じさせるたたずまい、細かい装飾の数々、どれをとってもさすがは公爵家と唸るほどの設えであった。

「行こう」

 アレクサが思わず見とれていると、アルヴァロッドはさっさと歩きだして、恭しく門を開ける門番に挨拶すらせずにすたすたと入っていった。アレクサは慌てて彼を追いかけた。

「おかえりなさいませ、旦那様」

 玄関を開けると、左右に並んだ十何人もの使用人がいっせいに頭を下げた。

「いちいち大袈裟な出迎えは必要ない」

 アルヴァロッドはむすっとして言うと、その間を縫うようにして歩いた。その先には、正装した白髪の男が待っていた。

「旦那様、お帰りなさいませ」

「いらぬ出迎えだディアン」

「そうは参りません。あなた様はご当主様なのですから」

 というやり取りを聞いていると、その男はアレクサに目を向け、

「これは、失礼いたしました。旦那様のご婚約者様とお見受けいたします。当家の執事、ディアンと申します。なんなりとご用をお申しつけ下さい」

「あ、え、えと」

「ディアン、彼女はアレクサだ。すぐに帰るから、挨拶はいらない。父上は」

「執務室に」

「アレクサ、行こう」

 アルヴァロッドはアレクサの手を取って早足で歩きだすと、長い長い廊下を行った。

 途中、出会う使用人が彼と行き会うと、立ち止まって必ず一礼するのには、アルヴァロッドも閉口していた。

 ディアンが先導して、執務室へと向かう。

「大旦那様、旦那様でございます」

「入れ」

 胸がどきんと鳴った。私の今日の恰好、変じゃないだろうか。旦那様のお父様に、ちゃんとご挨拶できるだろうか。

「アルヴァロッド、久しいな。どうしていた」

「ご用向きとはなんですか、父上」

 挨拶もなしに、部屋に入るといきなりアルヴァロッドは言った。

「まあそう焦るな。親子の会話くらいさせろ」

 壮年のその小太りの男は、椅子に座ったままくつくつと笑った。太い指に大きな金の指輪をしていて、それが時々光った。

「それが新しい海の巫女か」

 じろりと見られて、思わずびくりとなった。

「そなた、いくつだ」

「じゅ、十九です」

「アルヴァロッド、お主はいくつになる」

「息子がいくつになるかも覚えていないんですか。二十八ですよ」

「ふん……九つ違いか。その巫女、不吉な託宣しかしないというのは本当か」

「たたの噂です。実際はそれで悪いことを防いでいます。彼女に罪はありません」

「しかし巷に不満は溢れかえっておるぞ」

「国民の満足度で海の巫女の務めが決まるというわけではないでしょう」

 アルヴァロッドと父が睨み合った。

「ふん、まあいい。しかしこれ以上おかしなことが起ころうものなら、お前たちの結婚もないものになると思え」

「それを決めるのは、あなたではない。私だ」

 アルヴァロッドはそう言い放つと、アレクサに行こう、と囁いて執務室を出ていった。

「あ、あの、旦那様」

「なんだ」

「よろしいのですか、あんなお別れ方をしてしまって」

「よいのだ」

「で、でも、あんなのあまりにも」

「構わん」

 ディアンが追いかけてきて、アルヴァロッドに言った。

「旦那様、大旦那様がご夕食を共にしたいとおっしゃっておいでですが」

「くそ食らえだ」

 吐き捨てるように言うと、アルヴァロッドはウリエンスを大声で呼んだ。彼は表から入ってきて、すぐに戻ってきた。

「帰るぞ。馬車を出せ」

「かしこまりました」

 帰宅してからも、アルヴァロッドの機嫌はいいとはいえなかった。ウリエンスは久しぶりに本家に行ったので、ローレンにその話をしている。

「まあウリエンス様ったら、またおやりになったのね」

 するとアレクサが、

「おやりになったって、なんのことですか」

「いえね。本邸では、大旦那様にお仕えする騎士様と旦那様にお仕えする騎士様とに分かれているので、時々喧嘩みたいになるんですよ。ウリエンス様は特に旦那様に大切に扱っていただいているのでこうして別邸にいるでしょう。本邸の大旦那様にお仕えする騎士様たちの当たりもきついんですのよ」

「あいつらが悪いんです。始めたのはあっちですよ」

 ウリエンスもばつの悪い顔をしている。アレクサの知らない、ウィグムンド家のそんな事情があったのである。

「あいつらが主君と共に食事をするなどとは言語道断、などと言うものだから、つい」

「嫉妬されているんですよ。本邸ではそんなことはないから」

 確かに、仕える主人と共に食事をするなどという距離感はウィグムンド家別邸ならではのことだろう。

 アルヴァロッドはしきりに考え事をしていて、そんな会話は耳には入っていないようである。アレクサは先ほどから、それが気になって仕方がない。

 旦那様、お父様に言われたことを考えていらっしゃる。ここの当主は旦那様だけれど、まだまだお父様の影響力は大きいんだ。どうすれば旦那様の気分を変えられるだろうか。

 アレクサは少し考えて、それから顔を上げた。

「旦那様」

 彼がこちらを見た。

「明日少し、一緒に出かけませんか」

「あ、ああ。それは構わないが」

「じゃあ、一緒に行きましょう」

 あえてどこへ、とは言わなかった。

 翌日はよく晴れて、快晴だった。

「どこへ行くんだ」

「いいからいいから」

 慣れた足取りで向かうその方角は、どうやら街ではないようである。裏道を行き、角を曲がれば、段々と石畳が砂っぽくなってくる。そして、波の音が聞こえてきた。

「――」

「こっちです」

 曲がった先は、海だった。

 砂浜を駆け出すアレクサの背中を、アルヴァロッドは茫然と見つめている。

「旦那様、こっちこっち」

 波打ち際で、アレクサが呼んでいる。彼女は靴を脱いで、裸足で歩いている。

「水がつめたいですよ」

 その笑顔を見ていると、不思議とほっとした。

 そこで彼も靴を脱いで、水のなかに入っていった。

「砂が足の下で動くな。こんな感覚は、子供の頃以来だ」

「小さい頃は、よく来てらしたんですか」

「ああ。王子と」

「殿下と?」

「一日中泳いだものさ」

「楽しそうですね」

 砂浜で座ってその頃を思い出す。家の外にいると、母が亡くなったという悲しい事実を忘れることができた。父の暴挙を、しばし消し去ることができた。

 時間を忘れて幼い頃の話をしていると、いつの間にか夕暮れになっていた。

「アレクサ」

 彼女がこちらを向いた。

「ありがとう。おかげで気分が晴れた」

「そんなことないです。旦那様は、いつもよくしてくださるので」

「そろそろ帰ろうか。ローレンが夕飯を作っているだろう」

 二人で手を繋いで、夕焼けを背に帰った。

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