第四章 1

三番目の月、黄梔子になった。

 春とはいえ、風はまだ冷たい。この頃になると、海の巫女は春の奉納の舞の支度をせねばならない。

「春と夏は舞を舞うんですね」

「そうだな。暖かい季節と暑い季節は、海が変わるといわれてるからな」

 それで、アレクサは毎日神殿に稽古に行くことになった。

 春の舞は、夏のそれほど複雑なものではない。剣も持たないし、扇もない。

 しかし衣装の裾が通路のむこうにまで届くほどに長く、それを引きずって歩かねばならず、重くて仕方がなかった。連日、その衣装を纏っていかにうまく舞うかということを実践させられた。

 また、足の型が複雑で、裾を引きずりながらそれを覚えるとなると、なかなか煩雑な作業となった。

 そうして毎日神殿に通うことひと月、四番目の月、一斤染がやってきた。



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 その日アレクサは、おかしな夢を見た。

 海のかなたから銀の津波が押し寄せてきて、浜辺を圧倒したかと思うと街を飲み込んでしまい、そのまま銀色に変えてしまう夢である。よく見るとその銀色は、魚なのである。

 目を覚ますと、不快なほどに汗をかいていた。

 嫌な夢だった。

「……」

 アレクサは朝食の前にアルヴァロッドの部屋にいき、その夢のことを話した。彼は訝しげな顔になった。

「不思議な神託だな」

「とても、いいものだとは思えません」

「しかし神託ならば、神殿に知らせなければ」

「……」

 それでも迷いを見せるアレクサに、アルヴァロッドは言った。

「アレクサ」

 彼は立ち上がって、アレクサの肩に手を置いた。

「神託は、いいものだけとは限らない。いいものでも悪いものでも、海の巫女は平等にもたらさなければならない。それが務めだ」

「……はい」

「私がついている」

 そう励まされれば、少しは気が紛れた。それで、その日の稽古の折りに、神官長に神託のことを告げた。

「銀の波……魚ですか」

「はい」

「不思議なお告げですね」

「よくわからないのです」

「ですが、ご神託はご神託です。心していましょう」

 果たして、それはやってきた。

 四日後、白い魚が群れをなしてやってきて、浜辺に押し寄せた。それは浜辺だけでは事足りず、街にまでも溢れて、街中が生臭くなった。魚が腐って、腐臭が漂った。

 この始末には、二週間近くがかかった。

 不満は、当然のことながら海の巫女であるアレクサに向けられた。

 どういうことだ。未然に防げることではなかったのか。お告げはなかったのか。神託はどうしたというのだ。海の巫女だろう。

 続出する不満に、神殿が応えた。

「ご神託は、あった。ただ、銀の波、とだけわかっていたのみだ。それは魚の波だった。 ご神託というのはいつもいつも正確無比なものと限ったものではない。抽象的なものであることもあるゆえ、今回のようなことも起こるのだ。たとえば……」

 と、過去の事例を挙げ、なんとか民をなだめて、そうして帰ってもらった。

 そんななか、春の奉納の日となった。

 大広間を、信者たちが待つなかを長い裾を引きずって通路を歩いていくのである。

 青い衣装を纏い、アレクサは薄絹を幾重にも頭に被ってうつむき、しずしずと通路を歩いた。

 今、彼女は神託の件で国民から白い目で見られている。

 失敗は許されない。

 アルヴァロッドも、固唾を飲んで見守っている。

 アレクサの手首に結びつけられた鈴が、ちりんと鳴った。

 それに呼応するように、彼女は右足を上げる。すると、右足首の鈴がりん、と鳴る。

 サラ、と裾が乱れる。左足が上げられ、さらに裾が広がる。りん、りん、鈴が鳴る。

 銅鑼が叩かれる。鉦が鳴る。次々に楽器が奏でられ、鈴がそのなかでちりんちりんと鳴る。

 裾が広がり、青が広がる。

 薄絹のベールに包まれていて、アレクサの表情はいっさい見えない。見えたとしても、目を瞑って集中していることがわかるだろう。

 太鼓が叩かれた。

 それを合図に、巫女の動きがぴたりと止む。

 すべての音がなくなった。

 大広間は静寂に包まれた。

 銅鑼が鳴った。

 それと同時に、鉦が鳴った。巫女の鈴がちりん、と振られる。巫女が裾を広げる。

 やがて、音楽が激しくなっていく。

 巫女の動きが早くなっていった。

 アレクサは裾を巻き込みながら、激しく回転していく。くるくるくるくる、回っていく。

 そしてすべての音が最高潮を迎えた時、海の巫女は長い長い裾をその足にすべて巻き取り、しずしずと祭壇の横から引っ込んでいってしまった。

 奉納の舞は終わった。

 アルヴァロッドはほっと息をついた。

 ウリエンスが馬車の用意をしに、外に出ていった。アルヴァロッドは控えの間に行くと、アレクサが着替えて出てくるのを待った。

「あ、旦那様」

「よくできたな。帰ろう」

 奉納の後は、信者がたくさんいる。彼らがいなくなるのを待った。また、以前のように誰になにを言われるかわかったものではないからだ。神託のこともある。

 アルヴァロッドは控えの間から顔を出して辺りを伺って、人がはけたのを見計らって表へ出た。

「疲れたろう。帰ったら先に風呂に入って、それから食事にするといい」

「足がぱんぱんになりました。やっぱり重かったです」

「それはそうだろう。あんな裾の長い衣装をあれだけの長時間ずっと引きずっているのだからな」

 そう言う彼の横顔を見て、アレクサはいつの間にか自分の心に彼がこんなにも入り込んでいるのはどうしたことかと思っていた。

 初めは、ただ恐いだけの男だと思っていた。

 するどい瞳、きつい言葉、つれない態度。

 しかし、それらはすべて、公爵家の婚約者の座を狙う者を排除せんとする彼の防衛本能に近いものなのだとじきにわかった。

 知れば知るほど、彼のことが好きになった。

 離れることなど、もう考えられないほど、愛してしまっている。

 私、これからどうなるのだろう。

 海の巫女としてこんなに不安定なのに、公爵家の婚約者としてやっていけるんだろうか。

 一抹の不安がよぎる。

「どうした」

「い、いえ、なんでもありません」

 そうして帰宅して湯を浴びて、食事となった。

 その晩アレクサは、また夢を見た。

 海の夢である。

 それはどこか、沖の海なのだ。

 しかも、それは夜である。

 嵐の海だ。

 一隻の船が、難破している。マストが折れ、船員は叫び通し、あちらへ走り、こちらへ駆けまわり、大混乱の様相を呈している。

 折れたマストが、強風で船員の上に倒れかかった。

 夢は、ここで唐突に終わる。

 アレクサは朝になってアルヴァロッドにそれを告げ、急ぎそれを神殿に言いに行った。

 どこかで船が難破し、漂流している、助けがいる、救助しなくては、と。

 救助隊が結成され、すぐに派遣されたが、いかんせんどこにその船があるのかわからないのでは救助のしようがない。

 捜索はすぐに打ち切られた。

「だめです。助けに行ってあげてください」

 アレクサは彼らに言った。

「あのひとたちは、今も助けを待っている。待っているんです」

「しかし、どこにいるかわからないのでは助けに行きようがありません」

「お願い、あのひとたちを助けてあげて」

「ですが」

「お願いです」

「やめるんだアレクサ」

 半狂乱になるアレクサを、アルヴァロッドが押さえて止めた。

「旦那様、あのひとたちに言って、彼らを助けてあげるよう言ってください。じゃないと、彼らは死んでしまう。生死がかかっているんです」

「落ち着くんだアレクサ。場所はわからないのか」

「……場所は……」

 アレクサは彼の腕のなかで幾分落ち着きを取り戻して、そして言った。

「場所は、わかりません」

「では、探しようがない。救助隊とて、探したい気持ちは同じなのだ」

「……」

 青い瞳から大粒の涙が流れ出した。

 できない。なにもできない。救えるのがわかっているのに、なにもできない。

 三日後、乗組員が全員死亡した状態の難破船がロレーナに漂着して、アレクサは打ちのめされた。

 救えなかった。私は、なにもできなかった。

 このことは、ちょっとした噂になった。

 おい聞いたかい。海の巫女はまた悪い神託をしたな。今度はひとの死だよ。しかも助けられなかったっていうじゃないか。いったいどうなっているっていうのかね。神殿はなにをしてるんだ。あのひとが海の巫女になってからむこう、悪いことばかりが起こる。どうもいい予感がしないね。代わってもらった方がいいんじゃないのかね。

 そんな針の筵のような生活をしていると、アレクサも居たたまれない。せっかく風温む春先となったというのに、庭にも出ようとせず、部屋に閉じこもってばかりなのである。

 アルバが庭の蝶を追いかけて、遊んでいる。

 それを見ながら、アルヴァロッドはローレンに尋ねた。

「アレクサはどうしている」

「お部屋で休んでいらっしゃいます」

「ああも塞がれてしまうと、こちらまで心配になってしまうな」

「どこかへ連れて行って差し上げたらいかがですか」

「人目に晒すのは、却ってよくない」

「そうでございますか……」

 じきに五番目の月、甚三紅である。

 初夏も近づいているということだ。

「茶会でも開くか」

「それはようございますね。身内の、ごく親しい方だけをお招きして、お菓子でも焼いてお茶を振る舞ったら、アレクサ様もきっとご気分が晴れますわよ」

 ローレンは乗り気である。

 甚三紅の月は、一年のなかでももっとも気候が気持ちのよい、美しい季節だ。緑も萌え、花も色とりどりに咲く。

 茶会にはもってこいの時期といえよう。

 アルヴァロッドはその晩の食事の席で、アレクサにそのことを告げた。

「お茶会……?」

「ああ。月末近くにな。ごく少数の客人だけを招いて、茶会を開こうと思う。どうだ」

「旦那様がそうおっしゃるのなら」

「お前にも準備を手伝ってほしい」

「なにをすればよろしいのですか」

「私がお教えいたしますよ」

 ローレンが横から言うので、アレクサは次の日から茶会の支度をすることになった。

 忙しくしていれば、余計なことを考えて気が塞ぐこともなくなるだろうというアルヴァロッドの考えは当たっていたのである。

 少人数の客人といっても、公爵の招待客である。その数は二十名ほどにもなった。

 その数に合う茶器を揃えなくてはならなかったし、ただ揃えればいいというわけではなく、それぞれ格式が釣り合っていなくてはならないから、一苦労であった。

 また、茶葉もいいものを探すのに骨が折れた。アレクサはおいしい香茶を淹れる名人であったが、茶葉もまた香茶の味を左右する大切な要素の一つであるといえた。

 渋みがなくて、味がまるくて、ほのかに甘くて、香りが高い、芳醇なもの。何百とある茶葉のなかからそんなものを探すのは、至難の業であった。

 それを限られた時間で探し出すのであるから、まことにもって困難なことといわねばなるまい。

 あれもだめ、これもだめと、味見をしては捨てていく作業を繰り返すこと数週間、茶会の日にちが迫ってきて、とうとうある日その茶葉に巡り合うことができた。まさに、僥倖であった。

 同時並行して、焼き菓子の準備も進められていた。

 茶葉がいいものである分、焼き菓子の味は素朴なものを。アルヴァロッドはそう提案した。両方とも味が高級だと、舌が飽きてしまうから、と。

 そこでアレクサはローレンと二人で何度も試行錯誤して菓子を焼き、こんなものがいい、あんなものがいい、と焼いては試食し、時にウリエンスにも食べさせて意見を聞き、そうしていくつか作っていって実食していき、アルヴァロッドにも食べてもらって、そうして茶会本番の日を迎えた。

 当日の昼下がり、貴婦人たちは白を基調とした服を多く着てきた。これは、庭の緑に白が映えるからという配慮からである。

 アレクサも白地に緑の細い縞の入った服を着て招待客たちを迎えた。

 ローレンと朝から作った軽食を食べて、まずは昼食である。

「やあ、ご招待ありがとう。来たよ」

 白い服を着た王子アレクサンダーが従者一人のみを連れてやってきた。

「殿下、ようこそおいでくださいました」

「アレクサちゃーん。相変わらずかわいいね」

「王子。どうも」

「お前はいつも通りの仏頂面だな」

 アルヴァロッドとアレクサンダーは渋い顔で見つめ合うと、そのままろくに挨拶もせずに行ってしまった。アレクサはそれをくすくすと笑って見ていた。

「アレクサ様、香茶の準備ができました」

「あ、はい。今行きます」

 ローレンが厨房から出てきて、茶器の支度をしてきた。

 アルバは庭で昼寝をしている。

 それからアレクサが香茶を振る舞い、焼き菓子を出し、茶会は大好評のうちに終わった。

 夕刻になってお開きとなり、招待客たちが帰っていくなか、アレクサンダーは言った。

「アレクサちゃん、世間の言うことなんて、気にしなくていいよ」

「殿下……」

「あいつらの言ってることなんて、所詮自分の不安の裏返しなんだよ。あいつらは不安で仕方ないのさ。それを誰かにぶつけて、憂さを晴らしたいんだよ。それがたまたま君ってだけのこと。だから、気にしなくていいよ」

 それから彼はアルヴァロッドに顔を向け、

「お前はアレクサちゃんをしっかり守ってやれよ」

 と言って、じゃあ僕は帰るよ、と帰ってしまった。

「……」

 アレクサは王子に言われたことを頭のなかで反芻して、それから彼の背中をじっと見守っていた。

「あのひともたまにはいいこと言うじゃないか」

 アルヴァロッドが感心したように彼の乗っていった馬車を見ている。

「さ、なかに入ろう。もう冷える」

「あ、はい」

「お前に見せたいものがあるんだ」

「でも、片づけがまだ」

「それはローレンにまかせて、お前は私の部屋においで」

 アルヴァロッドに手を引かれて、アレクサは彼の部屋にいざなわれた。

 彼はアレクサをそこに座らせると、机の引き出しからなにかを取り出した。

「いつこれを渡せるかと考えていた」

 それは、小さな小さな箱だった。アルヴァロッドはアレクサにそれを渡すと、

「開けてごらん」

 と言った。彼女がそれを開けると、なかには青い宝石の嵌まった指輪が入っていた。

「母のものだ」

「旦那様のお母さまの……」

「お前に持っていてほしい」

「――私に?」

 アレクサは驚いて顔を上げた。

「でも、どうして」

 アルヴァロッドは口元に笑みを浮かべて言った。

「やはり忘れているな」

「え?」

「今日がなんの日か、覚えていないのだな」

 彼は机に歩み寄って、卓上の暦の日付の上をとんとんと叩いた。アレクサは小さくあ、と呟いた。

「誕生日だろう」

 そんなことは、忘れてしまっていた。

 祝ってもらったことなど、一度としてない。だから、一年のうちの一日でしかなかった。

 アレクサは胸がいっぱいになって、すぐには口がきけないでいる。

「……覚えてくださっていたんですね」

「忘れるものか」

 だから、と彼は言った。

「だから、それはお前に持っていてほしい。私の贈り物として」

 アレクサは箱を胸に押し抱いた。涙が目に滲んだ。

「……はい」

 

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