第二章 3
庭でアルバが駆け回るのを、アレクサは目を細めて見つめている。
そのアレクサを、アルヴァロッドは後ろから観察していた。
――初め我が家に来た時は、手首も首元も痩せ肌も衰え髪も艶がなかったが。
「……曲がっているぞ」
「え?」
今ではどうだろう。白い肌は真珠のように輝き、髪もつやつやとしている。
「髪飾りだ。曲がっている」
アルヴァロッドは庭に出て、アレクサの近くに歩み寄った。そしてその赤い珊瑚の髪飾りを直してやった。
「ありがとうございます」
微笑むアレクサを、彼は満足げに見下ろした。今ではこのように笑うようにもなった。
そんなアルヴァロッドの足首にアルバが噛みついて、彼は苦虫を噛み潰したような顔になり、小虎を抱き上げた。
「噛んだな」
ひゃう、とアルバが鳴く。
「私を噛んだりしたらどのような目に遭うか、わかっておるのかな。お前の飼い主が頼むから、容赦しておるのだ」
「旦那様……」
アレクサは困ったようにアルヴァロッドとアルバを見ている。小虎は、彼を見上げているのみである。
「今度噛んだりしたら、どうしてくれよう」
と、公爵がアルバを差した指を、小虎がかぷりと噛んだ。
「あっ、こらだめよ」
「……」
「も、申し訳ありません」
ふふふふふ、とアルヴァロッドがおかしそうに笑い出した。それを台所から見ていたローレンは、思ったものである。
まあまあ、うちの旦那様があんな風に笑うだなんて。わからないものね。
アレクサの腕から逃げ出して、またアルバが庭を駆け回っている。
小虎はまた、大きくなったようだ。
十番目の月、薄藤になった。
アレクサは作っていたものがようやくできあがって、ほっとしていた。
隣国に行ったりしていたから少し時間が空いてしまったけれど、やっと終わったわ。きれいにできたといいんだけど。
それを簡単な包みに入れて、ある夜夕食後アルヴァロッドの寝室を訪ねた。
「どうした。なにかあったのか」
「あの……いつもよくしてくださるので、これを差し上げたくて」
アレクサは恥ずかしそうに包みを渡した。アルヴァロッドは不思議そうにそれを受け取ると、中身を開けた。
それは、明るい栗色と濃い茶色の糸で編んだ、手袋であった。
「……これはなんだ」
「あ、あの、馬にお乗りになるときにつけるのにいいと思って、私が作りました」
「お前が?」
「……お気に召しませんでしょうか」
やっぱり、迷惑だったのかしら。アレクサが後悔したその時、アルヴァロッドはそれを手にはめて具合を確かめるように手を何度か握った。
「ありがとうアレクサ。馬に乗るには、手袋は必定だ。それに、寸法がぴったりだ」
そう言って微笑する彼を見て、アレクサの胸が熱くなった。
「あ、あの、気に入っていただけたんでしょうか」
「ああ。これからは毎日使う」
よかった……。
アレクサはほっと胸を撫で下ろして、息を吐いた。
そんなアレクサを見て、彼は言った。
「ところでお前、誕生日はいつだ」
「甚三紅の、二十七日です」
「今年で、いくつになる」
「十八です」
「私と九つ違いか、そうか」
「それが、どうかなさったんですか」
「いや、なんでもない」
もう遅いから、早く寝なさい。そう言ってアルヴァロッドはアレクサを下がらせた。
その夜、アレクサは不思議な夢を見た。
暗い、黒い海に、魚の大群が押し寄せてくる。銀色の波のような、白い嵐のような、物凄い量の魚群である。
人々は海岸にやってきて、いっせいに魚を獲る。大漁である。しかし、それは不幸の始まりなのだ。
不幸の始まりなのだが、なぜ不幸なのかまでは、アレクサにはわからない。
不吉な夢であった。
朝になって、気になったので朝食の前にアルヴァロッドに相談した。
「それは、神託だな」
彼は深刻な顔でこたえた。
「そういうものは、神殿に報告することになっている。ウリエンスを共につけるから、行って報告してくるといい」
「でも……」
「どうかしたのか」
「なんだか、いやな予感がするんです」
「いやな予感?」
「なにかわからないけれど、悪いことが起きると思うんです」
アルヴァロッドは顎に手をやってしばし考えていたが、
「今それを考えても仕方がない。行っておいで」
とアレクサを送り出した。
アレクサは不安を胸に抱きながらも、神殿に行ってありのままを報告した。
神殿は歓喜に沸いた。
海の巫女のご神託がきた、ご宣託だ、魚が来ると、人々はその時を待った。
果たして五日後、その通りに浜辺を埋め尽くすほどの魚の大群がやってきて、彼らは狂喜乱舞して恵みにありついた。
アレクサはその光景を見て、自分の予感が当たったことを直感した。
「……だめ」
彼女は叫んだ。
「だめよ。その魚を獲ってはだめ。その魚を食べないで」
しかし歓声は浜に溢れ、欣喜雀躍した人々が彼女一人の声など聞こうはずもない。
「お願い、その魚を食べないで。やめて」
「アレクサ、どうしたんだ」
取り乱すアレクサの肩を、アルヴァロッドが押さえた。
「旦那様、あのひとたちを止めてください。あの魚はだめです。魚を食べないで」
「なぜだ。なぜあれがだめなんだ」
「わかりません。わからないけれど、だめなんです。とにかくだめです。だめなんです」
その言葉の意味は、三日後に知れた。
魚に毒があったのである。
死人は出なかったものの食中毒の症状が続出し、市中には病人が溢れた。なかには重症の者もいて、病院に担ぎ込まれる人間などもいたという。
市民からは、疑問の声が漏れた。
どういうことだ。海の巫女の言葉に従ったら、病気になったぞ。毒だ。毒だぞ。毒を食わせたのか。知っていたということか。
しかし幸いなことに、浜でアレクサが訴えた時、あの場には神殿の人間もいて、アレクサの声を聞いていた。
「アレクサ様は、必死で魚を食べるべからずと訴えていらした。それを無視して食べたのは自己責任。ご神託は当たった。アレクサ様のせいだと罵るなど、言語道断」
と、断罪した。
それで、アレクサの疑いはどうにか晴れたが、当のアレクサの気持ちは曇ったままだった。
リリアナのご神託は、こんなに不吉なものではなかった。それに比べると私の見たご神託は、どう考えてもいいものではない。これはどういうことなのだろう。
「アレクサ様、神殿の方がいらしておりますよ」
話しかけられて、アレクサは我に返った。
「アレクサ様。秋の奉納の準備がございます。明日、神殿にお越しください」
と言われ、明朝行くことになった。夕食の席でそれを話すと、アルヴァロッドが、
「ああ、もうそんな時期か。秋の奉納は、神剣を海神に捧げるんだ。ウリエンス、付き添っていってくれ」
「かしこまりました」
翌日馬車で神殿に行くと、手筈を説明された。
「
リリアナは物陰からそれを聞いて、好機だと思った。ようやくあの女が神殿に来る。そうすればこちらのものだわ。不慮の事故であの女が死ねば。
アレクサが帰っていって、リリアナは準備に取りかかった。神剣を捧げるのに、香炉を使う過程がある。それを……
その頃アレクサは公爵邸に帰宅して、今日言われたことを頭のなかで反芻していた。
夏の奉納に比べれば、簡単なものである。しかし、油断はならない。夕飯を作りながらも、そのことばかりを考えていた。
「なんだアレクサ、ずいぶん難しい顔をしているな」
出迎えた彼女の顔を見るなりアルヴァロッドがそう言ったので、アレクサは思わず両手で顔に手をやって、
「え、そ、そうですか」
とこたえた。
「神殿でなにを言われたのだ」
「秋の奉納の順番を……」
「そんなことか。簡単だろう。香炉に油を注いで、天井に吊るして揺らし、神剣を掲げて持って歩いて祭壇に捧げる。それだけだ」
「香炉がとても大きくて、それが通路を行ったり来たりして頭にぶつかるかもしれない大きさだと聞いて……」
「確かに大きい。一抱えよりもっとあるからな」
「練習とか、できないんでしょうか」
「できないだろうなあ」
足元でアルバが馬肉をむしゃむしゃと食らっている。もう大きくなって、小虎とは言えなくなった。
緊張するアレクサの胸の内をよそに、十一番目の月、葡萄鼠がやってきた。
アレクサは濃紺の絹の衣装を着て儀式に臨み、顔に海神の紋様を描いてしずしずと大広間に入ってきた。
大柄杓に熱した油を持ち、それを通路の中央にあるおおきなおおきな香炉に注ぐと、なかから白い煙がもくもくと出てきた。たちまち、香りが立ち上がる。アレクサはそれを勢いをつけて、ゆっくりゆっくりと揺らす。
こぉろ、こぉろ、という音と共に、香炉が次第に大きく揺れていき、通路の端から端まで、大きく大きくぐらぐらと震えていく。
アレクサはそれをしばらく見つめていたが、やがて香炉が軌道に乗ったのを見届けると、そっと背を返し、神剣のある場所まで歩いていった。
リリアナはそれを柱の陰から覗き見て、にやりと笑った。そして、手元にあった鎖の錠を外した。
ゴッ、という音を立てて、香炉が落下した。
それは、真下にいるアレクサ目がけて落ちていった。
「あぶない!」
通路でそれを見ていたアルヴァロッドは、咄嗟に彼女のもとへ走り寄ってその身体ごと抱きつき、落下してきた香炉から庇っていた。
「だ……旦那……さま?」
「……無事か」
「は……はい」
大広間はあまりのことに悲鳴すら上がらず、誰もが茫然として事態を見守っている。アルヴァロッドはアレクサに囁いた。
「では行け。儀式はまだ続いている」
「は、はい」
アレクサは震える身体を叱咤してなんとか立ち上がると、そのまま神剣の元へ歩み寄った。そして青い水晶のその刀身に手をすべらせて剣を持つと、恭しくそれを掲げ、頭を下げて祭壇へと持っていった。
アルヴァロッドは埃を払い、何食わぬ顔をして通路に戻ってそれを見ていた。
「公爵様」
ウリエンスが側にやってきた。
「誰がやったか、見ていたか」
「女が一人、逃げていきました。後を尾けましたところ、名前がわかりましてございます」
「よし、控えの間に行く」
「はっ」
儀式はこの後、聖なる餅を信者に配る過程に移る。人がいっせいに動くのをみはからって、アルヴァロッドは控えの間に行った。
リリアナは、爪を噛みながら地団駄を踏んでいた。
悔しい。あとちょっと、あとちょっとだったのに。あの女、どこまで悪運が強いの。どうして死なないの! 死ねばいいのに! 私が次の、海の巫女になるのに!
がた、と人の気配がして、ぎくりとして振り向く。
あの男がいた。
「公爵様……」
「やあ」
「ど、どうなさいましたの。ここは控えの間ですわ。場所をお間違えなのでは」
「いや、間違えてはいないよ。君に会いに来たのだからね」
「え……?」
――もしかして。もしかして……?
コツ、コツ、コツ。
公爵はゆっくりと、リリアナに近づいてきた。
「君はアレクサの妹なんだってね」
「ええ、そうなんです」
リリアナはにっこりと微笑んだ。そうよリリアナ。魅力的に、魅惑するのよ。
「なんでも、海の巫女の最有力候補だったとか」
「そうですわ」
「容姿端麗で、良家の子女で、一見完璧というわけだ」
「ええ……?」
「そんな君が妾の子のアレクサに海の巫女になられたんじゃ、さぞかし悔しかっただろうな」
「――」
「だから殺そうとしたわけか」
「ち、違……」
「夏の奉納で彼女を毒殺しようとしたのも君だな? 調べれば簡単にわかることだ。どうやって毒を入手したのかなどをな」
公爵はリリアナの首に手をかけて、ぎゅっと絞めた。
「今度なにかおかしな気を回したら、この細い首を片手で縊ってくれるからそう思え。お前の家など吹けば飛ぶ程度のものなのだからな」
息がかかるほど顔を近づけて、その剃刀のようなするどい紫の瞳でぎろりと睨みつけた。
「わかったか。わかったのならそう言え」
リリアナは恐怖のあまり声が出ず、ただ夢中でうなづくしかできなかった。
「いいだろう。行け」
リリアナが慌てて控えの間から出ていって、アルヴァロッドは腹立ちまぎれのため息を一つついた。入れ違いにウリエンスが入ってきて、
「公爵様」
「どうした」
「間もなく儀式が終わります」
「そうか。では外で待っていよう。アレクサも今日は疲れただろうからな」
と、二人で出ていった。
大広間では、海の巫女が聖なる餅を信者に配り終えている頃合いであった。
秋の終焉である。
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