第二章 2
帰宅したアルヴァロッドは、苛立ちを抑えようと室内を歩き回っていた。そして着替えてしまうと、乱暴に椅子に座った。
知らず知らずのうちに、ため息が出た。
アレクサ。お前がどうしてああなったか、わかったような気がする。
実家のアレクサに対する家人のあの態度。あの口ぶり。
それに、イードバーカ夫人は気になることを言っていたな。
確か、海の巫女としての才も、とかなんとか。ということは、海の巫女として目覚めたのはつい最近のことなのか。才能が開花したのは、ほんのわずかの間のことなのか。
それは、稀なことだ。
ほとんどの海の巫女たちは、幼少のころからその能力を発揮する。神託を受け、海の声を聞き、海と話をするのだ。アレクサが巫女の候補から除外されてきたのも無理はなかろう。
再び、深いため息が出た。
そして、気がついた。
――初めは、同情の念から色々と親切にしてやっていた。
いつからだ、あの娘をこんなに愛しいと思うようになったのは。
それは、――それは。
扉がノックされて、アレクサの声がした。
「旦那様、夕食のお時間です」
その声に、ほっとする。立ち上がって、扉を開けた。
「あ、旦那……」
思わず、抱きしめた。
「だ、旦那様……」
「大変な思いを、してきたのだな」
「あ、あの……」
「なんだ」
「お、お夕飯の、お時間です」
「うん」
「さ、冷めてしまいます」
「わかってる」
「旦那様……」
「もう少し」
「息が、できません」
「もう少しだけ」
蝉が鳴いている。
晩夏である。
2
九番目の月、浅滅紫になった。
アルヴァロッドは国王の命で、隣国に赴くことになった。森深い、獣が多く棲むというアルトスという国である。
「ロレーナで精製した岩塩を運ばねばならなくなった。それだけではない、海で採れた宝石も納めなければならないので責任があるため私が行くことになったのだ」
「と、なると、ウリエンス様もご同行されることになりますね」
「しかし、私の留守中に屋敷にお前たち女二人を置いていく気はない。お前たちも連れていく」
「えっ」
彼の言葉にアレクサは驚いて、
「で、でも、お仕事のお邪魔になりませんか」
「なるものか。側にいるだけだ」
「まあ、隣国だなんて。私アルトスは初めて」
ローレンはもうすっかりその気になって、アレクサになにを着ていきましょうかなどと言っているが、アレクサはまだ乗り気ではなく、
「あの……たとえば私がご本家に行くとか」
「なにを言う。あんなところにお前を行かせる気は毛頭ない」
「でも、旦那様のお父様がお住まいなんでしょう?」
「それはそうだが、お前を父に会わせるつもりはない」
父親の話になるとアルヴァロッドの様子がけんもほろろになってしまうので、アレクサもおかしいなとは思ったが、ローレンが目くばせをしてくるので、アレクサは引き下がることにした。
それで、結局四人で隣国に行くことになったわけである。
「どれくらいの期間行くことになるのでしょうか」
「だいたい二週間だと思っていてくれ」
「では、荷物もそれくらいですね」
「そうだな。旅の過程は馬車で行くから、そう辛くはない」
二週間分の荷物を用意して荷馬車に積み、別の馬車に乗り込んで、隣国までは三日の行程である。
ロレーナから、というよりは、街からも出たことのないアレクサにとっては、見るものすべてが珍しかった。
「わあ、見たことのない葉っぱです」
「まあ、あの花、あんなに赤いです」
「わあ、あの果物、なんでしょう」
と、窓に張りついて離れない。
アルヴァロッドはくすくす笑って、
「我が婚約者どのは物見高いな」
とロレーンに言ったものである。
「それは、今までなにかとご不自由してらしてたからですわ。あちこち連れていって差し上げてください」
「そうか。そうだな」
窓の外を見て歓声を上げるアレクサを見ながら、彼はしみじみと言ったものだ。
明日にはアルトスに到着するという、その日の昼のことである。
雨が降って、道がぬかるんだ。そのせいで馬車の車輪が進まず、思わぬ足止めを食った。
彼らは馬車を下りて様子を見、車輪が動くまで辺りを歩くことにした。
「公爵様、お供します。この辺りには獣が出ます。危険です」
ウリエンスが馬から下りてついてきた。ローレンは疲れたのでここで休むといって来なかった。
「この辺は森が深いな。もうアルトス領内なのだろう」
「私、森は初めてです」
あちこちに繁みがある。ふと、あちらでなにかが光った気がして、アレクサはそちらに気を取られた。
「あら? なにかしら」
何気なくその方向へと歩いていく。すると、花の芳香が鼻孔をくすぐった。
「アレクサ、あまり遠くへ行くなよ」
「はい」
パキ、アルヴァロッドが小枝を踏んだ瞬間である。
前方を歩いていたウリエンスの足が、止まった。
獣の唸り声が、聞こえてきたからである。
二人は同時に、動きを止めた。
ウリエンスはそろりそろりと腕を剣の柄に伸ばしながら、前方の繁みから一時も目を離さずにアルヴァロッドに囁いた。
「公爵様……お静かに。急に動かないでください」
「わかっている。なんの獣だ」
「わかりません。豹か……その辺りかと」
「困ったな……逃げられないぞ」
「襲いかかってきたところを仕留めます」
「わかった。アレクサが出てこなければいいが」
黄色い二つの目が、こちらを睨んでいる。
黄金の毛皮が、緑の繁みから姿を現わした。
虎だ。
「――」
その虎は牙を剥き、咆哮したかと思うとウリエンスに向かって飛びかかってきた。彼は腰を落とし、同時に剣を抜いて虎の腹に剣を突き刺した。
一撃であった。
「くっ……」
虎も血まみれ、ウリエンスも血まみれであった。
「無事か」
「か、かろうじて」
ウリエンスは虎の体を足で押し戻して剣を引き抜き、それから血糊を払って剣を鞘に収めた。
「この虎、どうしましょうか」
「お前の手柄だ。毛皮を持って帰ろう」
そこへ、なにも知らないアレクサが戻ってきた。
「旦那様、お花が咲いていま……し」
そして血まみれのウリエンスを見るなり、
「きゃーっ」
と悲鳴を上げ、
「ち、血が、血が」
「落ち着けアレクサ。ウリエンスの血ではない」
「でも旦那様、血が」
「落ち着けというに」
「と、とにかく、洗わないと」
「大丈夫ですアレクサ様。私は騎士です。返り血くらい、慣れています」
「で、で、でも」
アレクサは困りに困って、
「どこかに池か泉かなにか、ないでしょうか。探してきます」
と探しにでかけた。
「アレクサ、あまり立ち歩くな。危ない」
という声も、聞こえなかった。
しばらく行くと、妙な声が聞こえてきた。
にゃお、にゃお、にゃお。
「?」
にゃおん、にゃおん、にゃおん。
「……ねこ?」
アレクサは首を巡らせて、声のした方を懸命に探した。
「猫ちゃん、どこにいるの」
繁みのむこうからあちらまで、頭を葉っぱだらけにしてアレクサは探しに探した。
しかし、探す声の主は鳴くばかりで、少しも見つからない。
にゃん、にゃん、にゃん。
「……どこ?」
岩の陰、繁みのなか、樹の上、アレクサは猫を探しまくった。
そしてとうとう、枯れた立ち木の
「あーっ、いたわね。猫ちゃん」
それは、まだ生まれたばかりであろう茶とらの縞の入った仔猫であった。
「あなた、一人? お母さんは?」
アレクサは辺りを見回して、母猫を探した。これだけの小さい猫なら、親猫が近くにいるはずである。えさを探しにでかけたのであろうか、アレクサは仔猫を洞のなかに戻して、繁みのなかに隠れて様子を見てみた。
しかし、どんなに待っても母猫は現われない。仔猫は腹が減っているのか、しきりに鳴いている。
「うーん、困ったわねえ」
そこへ、遠くの方でアルヴァロッドとウリエンスが呼ぶ声が聞こえてきた。
「あ、いけない。私お水を探しているんだった」
そして仔猫に目をやり、
「しょうがないわね。連れて行ってあげる」
と仔猫を抱き上げて、
「旦那様、ここです」
と歩き始めた。
「アレクサ。いたな」
「探しました。また獣が出ては厄介です。行きましょう」
「お水はなかったのですが、猫ちゃんを見つけました」
「猫?」
「はい、仔猫ちゃんです。こんなにかわいい仔猫。ほら」
アレクサは抱いていた仔猫を持ち上げて、アルヴァロッドとウリエンスに見せた。
「……」
二人はそれを見てしばし固まり、そして沈黙した。
アルヴァロッドはこめかみに手をやり、
「……アレクサ」
と低く言った。
「はい」
「それは猫ではない」
「え?」
「虎だ」
「えっ」
「あれは母親だったんですね」
「我々を襲ってきたのは子供を守るためだったのだろう。かわいそうなことをした」
「あの、どういう……」
「とにかく、それは虎だ」
「では、連れていけませんね」
しゅんとなるアレクサを見て、アルヴァロッドの胸が痛んだ。アレクサは仔猫を顔の高さまで持ち上げて、なにやら話しかけている。よくよく聞いてみると、ごめんなさいだとか、連れてはいけないのだとかいう単語が聞こえてくる。
彼は額に手をやった。
「……わかったわかった」
アレクサが振り向く。
「どのみち、その小ささでは生きて行けまい。我々にも責任の一端はある。連れて行こう」
アレクサの顔が、ぱっと輝いた。
「いいんですか?」
「仕方あるまい」
「ありがとうございます」
アレクサは小虎を抱きしめて、それから頭の高さまで抱き上げ、
「おうちに来ていいことになったわよ。名前をつけてあげなくちゃね。なににしましょう。 ローレンさんと相談して……」
来た道を引き返していくアレクサを見ながら歩きだすアルヴァロッドに、ウリエンスが尋ねた。
「よろしいのですか」
「まあいいさ。あんな顔をされたら、嫌だとは言えない」
おや、とアルヴァロッドが顔を上げた。
「ご覧ウリエンス。どうやら馬車の車輪が動き出したようだ。やれやれ、血まみれのお前とあの小虎を見たら、ローレンがなんと言うかな」
ウリエンスの黒い瞳に、アレクサが抱く小虎を見て仰天しているローレンの姿が映った。
小虎の名前は、アルバになった。暁という意味である。
「それにしても、成長したらとても大きくなりますね。やはり檻に入れなくてはならないでしょうか」
「そうだろうが庭に放して運動させてやろう。うちは広いから少しは運動不足が解消されるだろう」
まだ乳離れしていないから、牛の乳をもらってきてそれをやった。アルトスでの生活はなにもかもが珍しく、アレクサは見たことのない果物を振る舞われて楽しんだようである。
アルヴァロッドの仕事も順調に進み、岩塩も宝石も無事納めることができ、取引先からの歓待まで受け一安心といったところである。
こうして、隣国での二週間が何事もなく過ぎていった。
「帰国したら秋になっていますね」
「そうだな」
帰宅すると、二週間分の埃があちこちに溜まっていた。それを見逃すアレクサではなかった。
「ローレンさん、お掃除しましょう」
「まあまあ、そんなこと私一人にさせておけばよろしいのに」
「そういうわけにはいきません。やりましょう。二人でやれば、そのぶん早く終わります」
こうして階段の手摺りを磨き、床を拭き、窓を拭き、家具をぴかぴかにしてしまうと、また元の通りに見違えるようにきれいになった。
「アレクサ様がいらっしゃると、お屋敷がいつもきれいですこと」
「そんなことはありません。ローレンさんのおかげです」
アルヴァロッドその間執務室にいたが、仕事を終えて出てくると、
「……きれいになるものだな」
と言って出てきた。またウリエンスも旅の間の馬車の手入れや馬の世話をしていたが、それがひとしきり終わると汗を拭きながら戻ってきて、
「やあ、ずいぶんきれいになりましたね」
と言ったものである。
その間に下男が湯を沸かしてくれたので、アルヴァロッドとウリエンスは風呂に入って旅の疲れと汗を流した。
アレクサとローレンは買い出しに出かけ、夕食の支度をした。
「旅のおもてなしもいいですけど、やっぱり家の食事が一番ですわね」
「市場に行ったら海老と鮭があったので、海老と白菜の蒸しサラダと、鮭のグラタンと、ベーコンとかぶの蒸したものです」
「あとは深煎りごま肉豆腐と、ごぼうとしめじと牛肉のソテーと、厚切り肉を焼きましたよ」
ウリエンスが小さく歓声を上げた。
「ウリエンス様はお肉が好きでいらっしゃるから、今日は特にお肉を集中して作りました」
「助かります。隣国の献立は美味でしたが、果物が多くて参りました」
「あら、私は好きでしたけど」
「最初はよかったんですが、毎日だときついです」
「たくさん召し上がれ」
それから久し振りに四人で食卓を囲んで、片づけをして、各自戻っていった。
アレクサは二週間ぶりの自分の部屋に戻ってきて、荷解きをした。ふと思い立って、引き出しにしまってあるあの櫛を取り出した。
母の形見の櫛を。
なくしたらいけないと思い、隣国には持っていかなかった。
「……」
それには、花の彫刻がされている。母は、花の好きなひとであったのだ。
す、と髪を梳いてみる。母も、こうして髪を梳いていたのだろうか。
父は、母を捨てて継母を選んだ。どういう思いで、母を捨てたのだろう。どんな考えで、母を同じ邸内に住まわせ、使用人として扱ったのだろう。なにも思わなかったのだろうか。
良心は、痛まなかったのだろうか。母は、それに対してなにも言わなかったのだろうか。
私たちはどうなるのですかと、にじり寄らなかったのだろうか。なぜ、そうしなかったのだろう。いや、したのか。したのに、覆されたのか。
今ではもう、わからない。
足元にアルバがじゃれついてきた。
アレクサはアルバを抱き上げて、ベッドに寝かせた。二週間でだいぶ大きくなった小虎は、枕元のにおいをふんふんと嗅ぐと、足元に移動してそこで丸くなった。
考えるのはやめよう。
アレクサは湯を浴びて、疲れていたこともあって早目に寝た。
もう、風は涼しくなってきているようである。
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