第二章 1
七番目の月、百群になった。
誂えた服が続々と届けられて、アレクサのクローゼットが色とりどり溢れんばかりになった。それを運び、収納するのを手伝ったローレンはその夜、着替えるアルヴァロッドに言った。
「珍しいことですこと、旦那様があんなに誰かに情をおかけになるだなんて」
「そうか」
「私は、アレクサ様が旦那様の奥方様になればよろしいと思いますけどね」
それを聞いたアルヴァロッドは顔を上げて、ローレンを振り返った。
「ずいぶんまっすぐな物言いだな」
「そうでございますか? そうなるといいなと思ったまでのことでございますよ」
知らん顔をして着替えを手伝いながら、ローレンはさらに言った。
「ただ、届いたあの夏服は、とてもアレクサ様にお似合いのようですよ。お屋敷に一人でいるのにはもったいないほどに」
ローレンが出ていくのを見て、アルヴァロッドなにやら思案していたが、その日の彼は疲れていた上に仕事が溜まっていたので、そんなことはすぐに忘れてしまった。
1
夏が盛りになって、神殿から使いが来た。
「海の巫女様におかれましては、神殿にて奉納の舞のお支度をして頂きたく、お迎えに参りましてございます」
「奉納の舞……?」
アレクサは不安げに呟いた。
「海神に捧げる舞のことだ。夏は人が海に入る。人と海の境界線が曖昧になるから、海も荒れる。海神にその許しを乞うために、舞を奉納するんだ」
側で聞いていたアルヴァロッドが説明してくれた。
「でも私、舞なんて知りませんけど」
「その練習のために、神殿に毎日通うのです」
「はあ……」
「では明日の朝、お迎えに参ります」
海神に舞を捧げるだなんて、そんな大層なことできるんだろうか。不安が胸をよぎる。
思わず夕食を食べる手が止まる。
「心配しなくても、海の巫女はみな初めは誰も舞を知らない。そこから練習を始めるから、開始地点は誰もが同じだ」
そんな気持ちを読み取ったかのように、アルヴァロッドが口を開いた。
「旦那様は、お詳しいのですね」
「公爵家は、代々海の巫女を娶っているからな」
「あ……」
じゃあ旦那様のお母様も、海の巫女だったんだ。そういえば旦那様のお母様って、どんな方なんだろう。お父様と離れて暮らしているのは知っているけど、お母様のことは知らない。
「気をつけて行ってこい」
「あ、はい」
翌朝神殿から迎えの馬車がやってきて、アレクサはまだ若干不安なまま、神殿に向かった。
到着したその場所は、青と水色に統一された建物で、所々の細かな細工が美しい、きらびやかではないがしっとりとした趣の神殿であった。
「ようこそ海の巫女様」
「アレクサ様」
「ようこそアレクサ様」
口々に言われ、頭を下げられて、アレクサは目まいがした。誰もが青か、水色の衣を着ている。奥へ奥へと連れられて行くと、そのうち若い娘ばかりがいる場所へと行き当たった。
そのなかに、知った顔がいた。
リリアナであった。
「あ……」
「こちらは、海の巫女候補であった娘たちが神託を受けるために控えております」
目と目が合って、つん、とそっぽを向かれた。それはそうだろう。リリアナは海の巫女最有力候補だった娘だ。一時は、海の巫女このひとありと言われたまでになった。
なのに、目の前でアレクサがその立場に成り代わった。
誇りの高いリリアナにしてみれば、我慢のならないことであっただろう。それをまた、立場の違う者同士として同じ場所に立たなければならないというのであれば、想像を絶する屈辱であるはずだ。
「こちらへどうぞ」
歩くアレクサを、娘たちがひそひそと囁き合う声がした。
公爵邸に住んでいるんですって。まあ、公爵様と? あの氷みたいな冷徹なひとと? どうやって飼い慣らしたのかしら。私なんか、ひどい罵声を浴びせられたわよ。私なんて、厩で寝ろって言われたわ。可愛げな顔して、したたかなのね。案外、もう寝たんじゃないの。そうに決まってるわよ。
ぎゅっと拳を握る――なにも聞こえない。なにも、なにも。
「これが舞の衣装です。お着替えください」
「あ、はい」
我に返って、衣装に着替える。深い青色の、薄衣だ。
「ではこちらへ」
広間へ出て、神官が舞を教える。右手、左手。右足、左足。右のひとひら、右手の中指を浮かせる。左の一太刀、次に右足。左足を前に、右手を上に。
訳が分からなくて、何度も間違えた。
ぷーっ、くすくすくすくす、という笑い声があちこちで起こる。顔が赤くなるのがわかった。神官はそれには構わず、真面目な顔で一手一手丁寧に教えてくれる。
アレクサがどんなに間違えても、どんなにとちっても、怒りもせず苛立ちもせず、根気よく教示に徹してくれた。アレクサにはそれが有り難い反面、申し訳もなくて、早く終われ早く終われと、振り付けを覚えるのも忘れただそれだけを念じていた。
一日が終わって、稽古が終了した。
「お屋敷までお送りいたします」
と、言われたのまでは覚えている。気がついたら、公爵邸に着いていた。馬車のなかで眠ってしまっていたのだ。全身はくたくた、頭もずたぼろで、
「おかえりなさ……」
と迎えに出たローレンに、
「ただいま戻りました……」
と呟くように返事をして、自室に戻ってベッドに倒れ込み、そのまま死んだように眠り込んだ。
目が覚めたのは、遠慮がちなノックの音でだった。
「アレクサ様?」
はっとして起き上がる。鐘楼の鐘が、六の刻を告げている。寝入ってしまった。
「は、はい」
「お食事の時間ですが、召し上がりますか」
「い、行きます」
急いで出ていって食堂に行くと、アルヴァロッドはすでに帰宅していた。
「旦那様、申し訳ありません。出迎えもせず」
「そんなことはいい。ひどく疲れて帰ってきたそうだな」
「あ、いえ、あの」
「夏の奉納の舞は初めての者には複雑だ。大変だろうが、頑張れよ」
「そういう時は、食べて精をつけるのが一番です。今日はお肉ですよ」
ローレンがそう言って、分厚い肉を運んできた。
「ありがとうございます。がんばります」
「この分だと、我が家の献立は当分肉になりそうだな」
「ウリエンスさん、嬉しそう」
「いえ、私は別に」
「お前は肉ならなんでも嬉しいからな。アレクサに感謝だ」
食卓に笑いが咲いた。それだけで、アレクサも疲れが吹っ飛ぶようだった。
しかし、日々の練習は熾烈を極めた。
指を曲げる細かい角度から足を傾けるその度合いまで、厳しい注文が続いた。
それだけではない。
両手に扇を持ち、扇を持ちながら長剣を持って、それを中空に放ち、それが宙に舞っている滞空時間、果てはアレクサが神官の手を借りて空中に舞う、その間の角度すら要求されるという具合である。
そこまでくると、もう人間技とは思えないものになってくる。
それでも、練習は連日続いた。
アレクサの動きから無駄なものが消えていき、頭が冴えて、瞳に光が宿るようになった。
そこまでいくと、もう彼女を馬鹿にしていた娘たちもアレクサを嗤うことはなくなり、黙って自分たちの仕事に徹するようになっていた。
ある日のことである。
「アレクサ、仕事が早く終わったので迎えに来たぞ」
「旦那様」
もうこの頃には一日の終わりに疲労困憊することはなくなって、アレクサはふつうに歩けるようになっていたから、顔を上げてアルヴァロッドを迎えた。
この時、リリアナは初めて公爵の顔を見た。
――なんて……なんてきれいなひとなの
これが、みんなが言う氷のように冷徹なひと? どうしようもなく冷たい、非情で無慈悲だと巷で噂されているひとなの。
ぎり、と奥歯を噛んだ。
こんなひとがお姉さまの婚約者だなんて、許さない。そんなの絶対に、許せない。
――奪ってやる。
海の巫女も、婚約者の座も。
私はいつも、一番だった。私はいつも、あの女の上に立ってきた。あの女が私より上に立つだなんて、あの女が私よりいいものを持っているだなんて、そんなこと許されない。 振り付けは、毎日見て覚えている。角度やら滞空時間やらは、本番でできなくてもなにも言われまい。要は巫女本人が居さえすればいいのだ。
アルヴァロッドと話しながら歩いていくアレクサの背中を睨みながら、リリアナは計画を立てた。練習期間はもうすぐ終わる。その間に不慮の事故が起こって、巫女が不在になれば……
次の日みなより少しだけ早く神殿に入り込んで、儀式用の長剣に毒を塗った。
扇と長剣を同時に投げるのが難しくて、二回に一回は失敗する。その際、巫女は指を切ることが多い。今日もアレクサは指先を切った。そこから毒が回って……
きゃーっ、という悲鳴が上がった。
ふふ、リリアナはほくそ笑んだ。次いで、誰かが倒れるような音がした。運べ! という怒鳴り声がして、それからあちらが騒がしくなった。
真っ青になったアレクサが運ばれていくのが見えて、笑うのを必死に抑えた。間もなく医師が駆けつけてきて、それからまた慌ただしくなったかと思うと、アレクサはどこかへ運ばれてしまった。
ふふ。これで次代の海の巫女は私に決まりね。リリアナは腹のなかでそう呟いて、神殿の部屋を出ていった。
公爵邸では、運び込まれたアレクサが自室のベッドに寝かされているところであった。
「旦那様……」
ローレンが真っ青になって事態を見守っている。
「一体……」
「わからん。神官の話によると、長剣に毒が塗られていたとのことだ」
「毒……?」
「アレクサの代わりに海の巫女に成り代わろうと目論む誰かの仕業だろう」
「そんな……」
「アレクサ様は、助かるのですか」
「毒の正体がわからない以上は、なんともいえないそうだ。彼女の生命力に、賭けるしかない」
アレクサは二日間、高熱に浮かされ続けた。
その間、彼女はあの夢を見ていた。
燃やされる碧色の晴れ着。燃え上がる碧色。燃える母。いなくなった思い出。燃え上る母。ああ、あれは、誰? 碧色が、燃え上がる。あれは、母ではない。あれは、旦那様だ。 いなくなってしまう。行ってしまう。行かないで。旦那様……!
「旦那様」
思わず叫んで起き上がる。ひどい汗をかいていた。
「アレクサ、目が覚めたのか」
側には、アルヴァロッドがいた。
「旦那様……」
彼はアレクサの額に触れると、
「まだ熱があるな。医者を呼ぼう」
「それより、あれから何日経ちましたか」
「なに?」
「今日は何日ですか」
アレクサの強い瞳に
「……十、九日だ」
「儀式の日です。お医者様はいりません。私、行かねばなりません」
「待て。行くとはどこにだ」
「神殿です」
ふらふらと立ち上がるアレクサを支えて、アルヴァロッドは言った。
「無茶だ。立つのもやっとではないか」
「私は海の巫女です。巫女が儀式を放棄しては、奉納が台無しになります。私は行かねばなりません」
アルヴァロッドは絶句した。これがあの気弱だった娘か。連日の過酷な練習が、ここまで彼女に巫女の自覚を叩きこんだというのか。
「……わかった。馬車で送ろう」
アルヴァロッドはアレクサを抱えるようにして支え、表に出た。
「ウリエンス、馬車だ」
急ぎ支度をさせて、神殿に走った。
神殿では、代わりの巫女が衣装を着て、神官と最後の打ち合わせをしている真っ最中であった。
「待て。巫女はいる。海の巫女が来たぞ」
アルヴァロッドに抱えられて、真っ青な顔をしたアレクサがやってきた。
「し、しかし彼女は」
「本人がやれると言っている。本来の巫女は彼女だ」
神官たちは顔を見合わせた。アレクサをと見てみれば、顔に玉の汗を浮かべ、足元もふらついて覚束ないようである。しかし、目の光ははっきりしている。
「私、やります。やれます」
それを聞いて、神官長が判断を下した。
「いいでしょう」
「さあ着替えて」
リリアナがそれを聞いて血相を変えた。
「そんな」
「あなたは行って、脱いで」
「アレクサ様はこちらへ」
「急いで。儀式は間もなく始まります」
アルヴァロッドは広間へ引き下がって、入ってきたウリエンスと共に儀式が始まるのを待った。
「どうなるでしょう」
「さあな。海神のみぞ知るだ」
銅鑼が鳴らされて、儀式の始まりを告げた。
長剣と長剣が噛み合い、弾かれる音がする。鈴が鳴る。扇がしきりに開く音がする。
水色の天幕が開いて、青い衣装を纏った海の巫女が入ってきた。顔色は、ごくごくふつうだ。とてもとても、さきほどまで寝込んでいたとは思えない。
ひらり、右手が上がった。中指が、浮く。次いで左手が上がる。つ、と人差し指がひとひら上がる。右足、左足。左手の一太刀、右手の扇。
アルヴァロッドは固唾を飲んでアレクサの一挙手一投足を見守った。この舞は、幼い頃から見続けている。その細部がどんなに注文の多いものであるか、どれだけ要求された上での動きであるかを、彼は、彼だけは知っている。
扇を持って、長剣を持つ。左手にも扇、右手にも扇。
扇を放ち、次いで長剣を放つ。滞空時間は、きっかり五秒。それより長くても短くてもいけない。
一、二、三……
扇がひらひらと空中で舞う。
四、五……
そして、手元に戻ってくる。
アルヴァロッドはほっと息をついて、胸を撫で下ろした。次いで一番失敗する確率の高い長剣を受け止める過程だ。
大丈夫。それも無事に戻ってきた。
背を返して、剣を放つ。扇を開いて、指で受ける。
神官が、アレクサを抱き上げて上へ投げる。一定の角度で、彼女は身体を曲げる。滞空時間は十秒。一、二、三……アルヴァロッドは無意識に数える。
五、六……
背中に冷たい汗をかきながら、アルヴァロッドはこちらが熱を出しそうだと思っていた。
アレクサはどうだ。アレクサは。
七、八……
そして、着地。
平然としている。顔色はまともだ。しかし、彼女がちらりと背中を見せた時、彼はぞっとした。
その背が、衣装の色が変わるほど汗をかいていたからである。
我慢しているのだ。限界なのだ。
耐えろアレクサ。もう少しだ。
舞はじきに終わる。左手の扇を投げて、受け止めて、
――左足が定位置で曲がれば。
それと同時に銅鑼が鳴って、水色の天幕が下り、巫女の姿が隠された。
広間からは誰もいなくなった。
「公爵様」
「行こう」
ウリエンスが外に出て馬車の支度をしに行く間、アルヴァロッドは控えの間に様子を見に行った。
「アレクサ」
「公爵様」
神官たちに囲まれて、アレクサが倒れていた。
「今医師を呼びました」
「いや、医者はいらない」
「えっ……」
「医者は公爵邸で呼ぶ」
言うや否や、アルヴァロッドはアレクサを抱き上げて控えの間から連れていった。アレクサの全身は、水を被ったように汗で濡れていた。
その様子を、リリアナが柱の陰から悔しそうに見つめていた。
諦めないわよお姉さま。まだ終わったわけじゃないわ。諦めたりしないわよ……
公爵邸に戻ったアレクサは、その後三日間眠り続けた。
「疲労でしょう。極度に緊張して、ひどく疲れております。熱が出て、その後あんな舞を舞ったりするからです」
アルヴァロッドは病人に無理をさせたことを散々医者に叱られ、ローレンに笑われた。
アレクサは意識が戻ってからきょとんとして、
「……なにがあったんですか」
と周りに尋ねた。
「お前、なにも覚えていないのか」
「舞を舞ったんだぞ」
「舞を……?」
「どうしても行くと、私にせまったんだぞ」
「また旦那様ったら、ご冗談を」
本気にしていないアレクサ、絶句するアルヴァロッド、面白がるローレン、くすくす笑うウリエンス、四人それぞれの様相を呈して、そうして儀式の日は終わったのである。
八番目の月、藤紫になった。
夏もいよいよ本番である。
海の巫女としての仕事は、神殿に舞を奉納してからは特にはないとはいえ、またなにがあるかわからない。アレクサはそれが不安で、アルヴァロッドに尋ねてみたことがあるが、
「四季折々に奉納すること以外は、神託を告げることくらいだ。奉納は舞と剣と玉の三つを捧げるものがあって、舞を捧げるのは夏と春だけだ」
「ご神託、というのは、どういうものなのでしょう」
「母曰く、ある日突然降ってくるものなのだとか」
「降ってくる……」
リリアナみたいに……?
そんなこと、私に可能なのだろうか。不安が胸をよぎる。私は、本当に海の巫女なのだろうか。舞を舞ったというが、覚えがない。覚えがないのだから、自信がない。
本を読んでいても、気もそぞろである。気持ちが、紛れない。
トントン、と扉がノックされて、ローレンが入ってきた。
「アレクサ様、少し街まで出かけてみませんか」
「街へ?」
「奉納の日からむこう、塞いでいらっしゃるようですし、気分転換に」
「でも……」
「旦那様には、私から言ってありますから」
と勧められれば、なんとなくそういう気持ちにもなってくる。服を着替えて、ローレンと出かけることにした。
「今の流行はなんでしょうねえ」
と、若い娘が立ち寄るような小物屋に行ったり、
「甘いものでも食べましょう」
と、甘味やに行ったりした。そこであんみつを食べながら、アレクサはかねがね考えていたことをローレンに相談することにした。
「あの、ローレンさん」
「はい、なんでございましょう」
「実は、相談したいことがあって」
「はい」
「旦那様に、なにか差し上げたいのですが、なにがよろしいでしょうか。私、なにもわからなくて。教えていただけますか」
ローレンはにこにこと笑いながら、
「そうでございますねえ」
とうなづいた。
「私は、アレクサ様が差し上げるのであれば、旦那様はなんでもお喜びになると思いますが、やっぱりなにか手作りのものがいいと思いますよ」
「手作りのもの……というと……」
「そうだ。本屋さんに行ってみましょう」
そこで書店に行きそれらしい本を見て、なにを贈るのがよいかを決めることにした。
「あまりかしこまってしまってもいけませんし……大袈裟なものも困りますし」
手巾、襟章、手軽なものはいくらでもあった。
「あ、アレクサ様。これなんかいかがですか」
ローレンが見せてきたものは、『簡単な編み物』の本であった。
「あ、いいですね。私、少しならできます
「材料が書いてあります。これなら、この街で買えます」
アルヴァロッドはふだん、馬に乗る。
騎乗する時は、手袋は必須のものである。
「ちょっと難しいかもしれませんけど、手袋にしてみようかしら」
「ちょうど、ここに編み方も書いてありますよ」
「でも、編み方の図なんて私、わかりません」
「大丈夫。私が教えて差し上げます」
いくつもある糸の色から彼に似合う糸を選ぶのは、骨が折れた。
しかし、不思議なことに少しも苦ではない。どころか、楽しいのだ。あれはどうだ、これはどうかと、とっかえひっかえしている時間が妙に心楽しいのである。
そして散々迷ってアレクサが決めた色は、濃い茶色に淡い栗色のものであった。
「旦那様、きっと喜ばれますよ」
「だといいのですけれど」
編む道具も買って、今日からこっそり作ることにした。
その晩、アルヴァロッドはいつもと様子の違うアレクサに気がついて、
「アレクサ」
「は、はい」
「なにかあったのか」
「い、いえ。なにも」
「なにか、様子がおかしいが」
「そそんなことはありません」
「? そうか」
「そうです」
「そうか」
「はい」
といったような会話を交わしたが、アレクサは見抜かれたのではないかとひやひやしたものであった。
一方のアルヴァロッドは、こうして共に暮らしている以上、アレクサの実家に話をつけに行かねばならないと思っていた。
ある日、彼はイードバーカ家をウリエンスと共に訪れ、当主と話がしたいと言った。
「これはこれは公爵様。前もってお知らせいただければそれなりのおもてなしをいたしましたものを」
「いや、それでは却って大袈裟になると思い控えさせていただいた。無礼は承知の上での突然の訪問、お許し願いたい」
リリアナは公爵に再会できた喜びで胸を震わせていた。
公爵様が突然いらっしゃるなんて……まさか私に会いにいらしたのかしら。
「今日はアレクサとのことで参った次第です」
「アレクサ……ですかな」
扉の外でそれを聞いていたリリアナは自身の耳を疑った。
「あれがどうか致しましたかな。なにかご当家で無礼でも働きましたかな」
「そんなことはありません。アレクサとの正式な結婚を認めていただきたくて参ったのです」
お姉さまと――
唇から血が出るのにも、気がつかないほど噛みしめていた。
「どういうことですかな」
「アレクサと結婚したいということです」
「正気でございますの。あれは妾の子ですわよ。それに、つい最近まで使用人でしたのよ」
「彼女の身分がどうであったかは私には興味のないことだ。認めていただけるんですか」
「い、いや、それは」
「それに、海の巫女としての才も」
「津波を撥ね退け、巫女として舞を奉納した」
「う、それは」
「結婚を認めていただけるんですか、どうなんですか」
「……」
公爵のいらいらとした口調が、ふと止んだ。あとは声が低くなって、よく聞こえない。
なんて言っているのかしら。リリアナは耳を強く扉に押しつけた。
「もういい。結構だ」
公爵の怒鳴り声が聞こえて、きゃっ、と思った途端、扉が強い調子で開いた。
慌てて身を引くと、公爵がそこに立っていた。
彼はまるで自分を汚いものかどこかの虫けらでも見るような目で見ると、そのままつかつかと歩み去ってしまった。
「あなた、どうしますの。公爵様を怒らせてしまったわ」
「ううむ。しかし、アレクサと結婚したいとは……」
部屋のなかでは、両親が難しい顔をして唸っている。
「お母様、どうなっているの」
「いいのよ。あなたはお部屋に帰っていなさい」
と言われ、リリアナは部屋に戻らされた。しかし、話の流れは読めた。
公爵様は、あの女となにがなんでも結婚するつもりなんだわ。だったら、あの女がいなくなればいい。そうしたらきっと……
爪を噛んで、しばし思案する。
悪辣な顔になっていることに、気がつかなかった。
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