第一章 2
2
「私は認めないわ」
リリアナは凄まじい剣幕で怒鳴り散らした。しかし、父は冷静にそれを受け流した。
「もう決まったことなのだ。海の巫女は、アレクサなのだ」
「そんな……!」
「お前も見ただろう。あれは津波を押し返した。あの力、あの光、あれはまさしく海の巫女の能力だ。アレクサは今日から公爵家に婚約者として行儀見習いに出る」
「婚約者は私よ」
「あくまで候補だったというだけだ」
リリアナは唇を噛みしめた。
そんな、そんなことって。あのいつもおどおどしているだけの女が、私からなにもかも奪っていく。そんなことって。
扉がノックされて、アレクサが入ってきた。リリアナはきっ、と姉を睨んだ。しかし、彼女はなにも気づかないように平然としている。
「お呼びでしょうか」
「アレクサ、もう知っていると思うが、お前は海の巫女に選ばれた。海の巫女である以上、この家にいることはできん」
「はい」
「お前はこれから公爵家に行き、そこで公爵様の婚約者として行儀見習いをしてもらう。 粗相のないように」
アレクサはぐっと拳を握った。
「はい」
氷のような男だと聞く。どうということはない。居場所が、変わるだけだ。
「では、支度をしなさい」
「はい」
「支度と言っても、持ち物などろくにないのだから簡単でしょうね」
ほほほほほ、と奥方が高笑いをした。愛娘が海の巫女に選ばれなかった、悔しまぎれの言葉であった。
アレクサは自室に行って、荷物をまとめた。継母の言葉通り、まとめる荷物などなかった。母の形見の櫛に、身の回りのものが少し。服は三着しか持っていない。
それらを持って、地図を頼りに歩いて公爵邸まで行った。
そこは街のはずれで、到着する頃には日暮れになっていた。
おおきなおおきな門の前には、不用心にも門番すらいない。見回しても誰もいないので、仕方なく無断で入った。玄関に差しかかると、呼び鈴があったのでそれを鳴らした。だいぶ待たされてから、えらく背の高い男が出てきた。
「どちら様でしょうか」
その背の高さにちょっとだけ威圧されて、アレクサは口ごもった。それでも勇気を出して、
「アレクサ・イードバーカと申します。あの……こちらに行儀見習いに参るよう言われて参りました」
と言った。すると男は、あ、と声を上げて、
「これは、失礼いたしました。海の巫女様。当家の騎士、ウリエンス・カグンラーズと申します。どうかお見知りおきを」
と頭を下げるので、アレクサも慌てて一礼した。そんなことをされるのは、初めてだった。
「当主の執務室にご案内いたします。どうぞこちらへ」
と、なかに入ってみれば、大きな門構えの屋敷であったにも関わらず、屋敷内はそう大きくはない。それに、使用人の影が一人もいない。これはどうしたことだろうと思っていると、
「こちらでございます」
と、ひと際大きな扉の前に案内された。それで、胸がきゅっと引き締まった。ここで追い返されたら、私は行き場所がなくなる。
「公爵様。お連れしました」
まぶしい――アレクサは思わず目を細めた。お入りください、と招き入れられて入ってみれば、そこには灰色の長い髪を一つに束ねて肩に垂らした、紫色の目の男が座っていた。
その、剃刀のようなするどい瞳。
身体のどこかが射られたような錯覚に陥って、すぐに動くことができなかった。
「その娘か。海の巫女というのは」
低い、打ち据えるような声に言われて、それで我に返った。
「あ、アレクサ・イードバーカでございます」
頭を深々と下げた。
「アルヴァロッド・フォン・ウィグムンドだ」
恐る恐る顔を上げれば、その紫の目はまだ自分を睨むように見ている。
「ここでは私の言葉に従え。私が死ねといえば死ね」
「かしこまりました」
また頭を下げた。
ずっとそうしていたら、
「……いつまでそうしているつもりだ」
と言われた。
「申し訳ありません」
「下がれ」
「はい」
「ウリエンス、部屋に案内してやれ」
「かしこまりました」
ウリエンスの後に続いて歩いていると、やはり使用人が誰一人としていない。
「あ、あの」
「はい?」
「他にどなたもいらっしゃらないのですか」
「ああ……」
ウリエンスはそのことか、という顔をして、
「公爵様は、周りにひとが大勢いるのを嫌われるのです。ですので、使用人はいません。 騎士も、本家には大勢いますが、ここは離れのようなものでして。私が一人だけ来ています」
「はあ……」
「ここがあなたの部屋です」
と着いた部屋は、今までのものとはまるで様相が違っていて、日当たりが良さそうで窓が大きく、無論暖炉もありベッドもふかふかで広々としていて、続き間に浴室と厠まであった。
「さすがに不便なので、お湯は下男が沸かしています。お風呂、どうぞ」
「あ、いえ、そういうわけには」
と、遠慮する間もなく、ウリエンスは行ってしまった。仕方がないので入浴したが、こんなに広くて静かで残り湯でない風呂に入るというのは初めてで、アレクサはどうすればいいのかよくわからなかった。
しかも、ベッドがだだっ広い。こんなに広くても、困る。しょうがないので隅に丸まって寝た。
朝起きて、いつものように朝食を作った。
するとウリエンスが起きだしてきて、
「アレクサ様、いけません。なにをしておいでですか」
「なにを、って、朝ごはんの支度です」
「いけませんいけません。婚約者候補の方に、そのような」
「いえ、私は行儀見習いに来たのですから、これくらい当たり前です。それに、もうできてしまいましたから」
ほかほかと湯気の立つ朝食を見せられては、ウリエンスも反論のしようがなかった。
それで、食堂で朝食の支度をしていると、公爵が起きてきた。
「おはようございます」
彼は朝食の様子がいつものものと違うことに気がつくと、
「……これはお前が作ったのか」
とアレクサに尋ねた。
「は、はい」
すると途端に険しい顔になり、
「そんなものが、食べられると思うか。毒でも盛ったか」
と、立ち上がって行ってしまった。
「公爵様」
ウリエンスがそれを追いかけていった。
アレクサはがらんとした食堂を見回して、言われたことを反芻していた。
そうか。公爵様ともなると、そんなことも心配しないといけないんだ。私ったら、そんなことにも気がつかないで馬鹿だな。
気を取り直して、屋敷中の掃除をした。
この屋敷には、ウリエンスと公爵以外住人はいないようだが、それにしては広い。だが、掃除は行き届いていないようである。よく見れば桟に埃が溜まっているし、窓は曇っている。
アレクサは腕まくりをして、納戸から掃除用具を取り出し、一日中掃除をした。
「アレクサ様、なにをしておいでです」
「あ、ウリエンスさん」
「一体なにをしておいでです」
「お掃除です」
「いけませんいけません。私が叱られます」
「いいえ、どうせすることがありませんから」
「ですが……」
「私、行儀見習いに来たんです。どうかやらせてください」
と、言われてしまえばウリエンス、放っておくしかない。仕方なく掃除をさせた。
夜になって公爵アルヴァロッドが帰宅して、屋敷の様子が違うことに気がついた。
「……なにやら家がきらきらしいな」
「お気づきですか。実は……」
ウリエンスはアレクサが一日中掃除に従事していたことを話した。
「なに?」
「夕食の準備もできております」
「……」
食堂に行ってみれば、できたての食事が準備されている。まるで、彼が帰ってくる時間を測っていたかのようである。
「おかえりなさいませ」
アレクサが厨房に行って支度している間、ウリエンスは公爵に囁いた。
「公爵様。私は今日一日あのお方と一緒におりましたが、とてもとても、公爵様に毒を盛るようなお方ではございません。このウリエンスが保証致します」
アレクサが戻ってきて、夕食の支度が整った。
「待て」
公爵は出て行こうとする彼女を呼び止めて言った。
「そこに座れ」
「……はい」
「食べろ」
「はい」
アレクサは黙って彼の言うことを聞き、座り、食べた。
公爵はじっとその様を見つめていた。そしておもむろに食事を始めた。
「ウリエンス、お前も食べなさい」
「は……」
「アレクサ」
「は、はい」
「この家では主従共に食事をする。覚えておけ」
「……はい」
相変わらず険しい顔で、公爵は言った。
翌朝、本家から新しい侍女が一人やってきた。
「仕事で外に行くのに、私はウリエンスを連れて歩かねばならない。しかし、お前を屋敷に一人にするわけにもいかない。本家から一人、使用人を呼んだ。これからは用事は彼女にやらせろ」
「で、ですが」
「口答えをするな」
強く言われて、アレクサはそれ以上なにも言えなくなった。壮年のその使用人の名は、ローレンといった。
「ウリエンス様から、お話は聞いておりますよ」
彼女はにこにことしてアレクサに言った。
「今までの婚約者候補の方たちとは、どこか違うってね」
「い、いえ、私は」
「旦那様も、ああ見えて恐いお方に見えますけど、ほんとはやさしいお方なんですよ」
剃刀のような切りつける瞳。空間が裂けてしまいそうな紫。きつい言葉。
とても、そうは思えなかった。
ローレンと共に公爵が出かけるのを見送ると、することがなかった。掃除というものは、あれだけ大々的にやってしまうと、あとは毎日ちょっとずつやればいいだけになってしまう。それは、ローレンがすればいいことだ。
「私がやります」
「いけませんアレクサ様。なんのために私が来たのかわかりませんわ」
「でも」
「ゆっくり休んでらしてください」
と言われてしまえば、そうするしかない。
しかし生まれてこの方そんなことはしたことがないので、落ち着かなかった。本でも読もうと思ったが、そもそも本を持っていない。結局、自室の掃除をするに留まった。
それでも食事くらいは作ろうと昨日のように作って待っていたら、その夜の公爵の帰りは遅く、夕食はすっかり冷えてしまった。
「ただいま」
「お帰りなさいませ」
玄関で彼を出迎えたアレクサは、そこで頭を下げた。
「昨日の朝のこと、申し訳ありませんでした」
公爵はアレクサの方へ顔をむけた。
「よく知りもしない人間の作った食べ物など、口にしたくないのは当然のことです。それを軽々しく……」
「よい」
それを遮って、アルヴァロッドは言った。
「警戒して言ったまでのことだ。こちらも言葉が過ぎた」
彼はアレクサを観察した。
深い、海の青を彷彿とさせる大きな瞳。良家の子女と聞いているが、その割には手首も首元もがりがりに痩せている。あかぎれのひどい白い肌に、艶のない黒い髪。
今までの海の巫女候補たちは、公爵家に似合わない質素な家構えと使用人の少なさに激怒してみな帰って行ったり、私のいないところでウリエンスをひどく扱ったりしていた。 部屋が粗末だからとか、食事ももっと豪華なものに代えろと要求してきた者たちも多くいた。だが、この娘はどうも違うようだ。
食堂につくと、食事の支度がされていた。
「冷えているな」
「申し訳ありません」
「お前は息をするように謝るな」
「申し訳……」
「もう謝るな」
アルヴァロッドは遮った。
「謝罪はし過ぎると軽くなる」
「……」
アレクサはどうしたらいいのかわからなくなって、口を噤んだ。どうしよう。追い出されたら、行き場所がなくなる。住み込みで働ける場所とか、あるだろうか。
そんなことを考えていたら、
「もう食事はすんだのか」
と聞かれた。
「あ、い、いえ」
「なぜ食べていない。遅くなるから、先に食べていていいと連絡がいったはずだ。ローレンはお前の食事を用意しなかったのか」
「いいえ、あの、えっと……し、食欲がなくて……私がローレンさんにいらないと言ったのです」
「食欲が? よくあることなのか」
「た、大したことではありません」
そうではない。ただ、食事を抜かざるをえないことになることが間々あっただけのことだ。
アレクサ、あなたは食事抜きよ。屋根裏にいなさい。お姉さま、食事はいらないわね。
そうしていつしか、食べることがなくてもそれに慣れてしまうようになった。
「そうか。着替える」
アルヴァロッドは食事を終えて、自室へ行ってしまった。
その背中を見送りながら、アレクサは考えていた。それでも私の食欲を心配するということは、ここにいてもいいということだろうか。少なくとも、追い出される心配はしなくてもいいだろう。
旦那様はあれで、おやさしいところもあるのですよというローレンの言葉が蘇る。
ほっと息をついて、部屋に戻った。
翌朝アルヴァロッドを送り出すアレクサはまた元のように無表情に戻っていて、アルヴァロッドはため息をついたものである。
……また変わった娘が来たものだな。
一方のアレクサはすることがなくて、仕方なしにローレンにこんなことを尋ねていた。
「本、で、ございますか」
「は、はい。あれば、ですが……」
「図書室がございますよ」
こちらです、と案内されて行ってみれば、小さいが立派な設えの図書室が屋敷の北側にあった。どれも難しそうなものばかりだったが、なかにはアレクサでも読めそうなものも少しはあって、そのなかから数冊拝借して、部屋に持って帰って読んだ。
読み疲れるとそのままうたた寝をした。
眠っていると、あの夢を見た。
母の碧色の晴れ着を燃やされる夢。笑う継母。笑う妹。屋根裏に閉じ込められる。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。その横で黙っている父。燃える碧色。もう帰ってこない母。笑う継母。燃える服。屋根裏。
はっとなって目を覚ますと、汗まみれである。
「……」
悪夢。いやな夢。ふと悪寒が走って、引き出しを開けた。
あった……。
櫛を胸に押し抱く。
その時鐘楼で鐘が鳴って、夕刻になっていることに気づいた。そろそろ夕食の支度をしよう。
「ローレンさん、お夕飯の準備をしましょう」
「そうですね」
二人で話をしながら、献立を考えていく。
「旦那様はあれで、小さい頃はにんじんがお嫌いで。刻んで隠して入れたものでした」
「まあ」
「こうしてアレクサ様が作って下さるので私も安心でございますよ」
「本家では、ローレンさんが作っていらしたんですか」
「ええ、本家では私が、こちらではウリエンス様が作っていましたよ。旦那様が爵位を継がれてからむこう、旦那様は使用人をみんな遠ざけられてしまって。大旦那様とも離れて暮らしてしまわれて」
そんなことを話していたら、表で馬の蹄の音がした。
「あ、お帰りのようです」
出迎えに出て、食卓についた。
その日の夕食を口にした時、アルヴァロッドは一言、
「美味い」
と低く言った。
「ローレンのともウリエンスのとも違うが、これはこれで美味い」
そんなことは滅多にないので、ローレンとウリエンスは笑顔になって顔を見合わせ、ようございましたわねえ、とアレクサを見ようと、彼女を振り返った。そして固まった。
アレクサの瞳から、涙がこぼれていたからである。
「――」
「アレクサ様?」
「あ……」
アレクサは自分で泣いていることに驚いているようで、慌てて涙を手で拭くと、
「も、申し訳……」
「謝るなというに」
「あ、あの」
アルヴァロッドはこめかみに手をやって、
「なぜ泣く。私は、褒めたのだぞ」
と困ったように言った。
「わ、わたし……」
アレクサはこぼれ落ちる涙を拭きながら、
「褒めていただくということが、なかったものですから……」
と消え入るように言った。
「――」
その言葉に、アルヴァロッドは少なからず衝撃を受けた。
その晩、彼は自室にローレンを呼んだ。
「どう思う」
「はい」
「初めは、お前とウリエンスを比べられて嫌だったのかと思ったが」
「どうも違うようでございます」
「私の感覚がおかしかったら言ってほしいのだが。彼女は、どうもふつうの良家の子女とは違う気がする。なんというか、苦労をしているというか」
「ええ、ええ。私もそう思いますよ」
必要以上の謝罪。しなくてもいい家事。先日から感じていた、かすかな違和感。
それが今、確信に変わった。
彼女は私が言った、あの何気ない一言で本当に涙を流したのだ。
「事情を尋ねたら、訳を話してくれると思うか」
「……難しいでございましょうねえ」
「だろうな」
アルヴァロッドはため息をついた。
「それとなく、彼女の様子を窺っておいてくれないか。日中なにをしているかとか」
「かしこまりました」
翌日の朝食の席で、二人きりの時にアレクサはアルヴァロッドに言った。
「あの、旦那様」
「なんだ」
「ゆうべは取り乱してしまって、申し訳ありませんでした」
「だから、謝るなというに」
「あ、いえ、えと」
「泣くことをいちいち謝るものではない」
「――え?」
「泣くことを我慢していることのほうが、よほどだめなことだというべきだろう」
「そ、そうですか?」
「そうだ」
それより、と彼は言った。
「香茶を淹れてくれ」
「は、はい」
そこへ、ウリエンスとローレンが入ってきた。
「おはようございます」
「いい香りですね」
「今みなさんにも淹れますね」
アルヴァロッドが出かけていって、アレクサは片づけをしようと厨房に行った。
「あらあら、アレクサ様。いいんですのよ、私がやりますから、お部屋に行ってらしてくださいな」
「え、え、そうですか?」
「そうですとも。本でも読んでいてください」
「え、えと」
「さあさあ」
ローレンは片づけをしてから、この哀れなお嬢様をなんとかして幸せにして差し上げるにはどうすればいいのかとそればかりを考えていた。
一方、アレクサは自分の着ている服がほつれてきてしまって、なんとか縫えないだろうかと思い、ローレンに頼んで裁縫道具を借りられないものかと考えていた。
「お裁縫道具でございますか? ありますよ」
「お借りできますでしょうか」
「それはもちろん」
ローレンが持ってきた立派な裁縫箱を見て、アレクサは声を上げた。
「立派なお裁縫箱……こんなのをお借りしてもよいのでしょうか」
「誰も使うひとがいないのですから、いいのですよ」
ちくちくと服を縫いながら、アレクサは実家にいた時のことを思い出した。あの服やこの服、あんな服も縫ったっけ。みんなお継母様やリリアナのために縫ったものだったわ。 その割に大切にしてもらえなかったけど。ちくちくちくちく、一針一針、アレクサは粗末な服を縫っていく。
ローレンはその様を、扉の隙間からそっと覗き見ていた。
「どうも、服は三着ほどしか持っていないようでございます」
「たったの?」
「もっと早くに気がつくべきでございましたよ」
一日ずつ交代で着替えているのでわからなかった、ローレンはため息まじりで言った。
次の日の夕食の席で、アルヴァロッドは言った。
「アレクサ」
「は、はい」
「後で私の部屋に来なさい」
「……はい」
なんだろう。なにか、失態があっただろうか。叱られるのだろうか。
びくびくしながらアルヴァロッドの寝室へ行くと、彼は着替えて待っていた。
「そこに座れ」
ソファを勧められて座ると、じっと見つめられた。紫の瞳に見据えられて、居心地が悪くて身じろぎしていると、
「日中なにをしている」
と尋ねられた。
「お、お裁縫をしています」
「他には」
「図書室から本を借りて、読んだりしています」
「実家にいた時は、なにをしていた」
「……」
だんまりか。
「街に出たことは、あるのか」
「えっ?」
「街だ。街に行ったことは、あるか」
「あ、ありません」
「では次の休みの日は、私と街へ行こう。空けておけ」
行っていい、と一方的に言われ、なにを言われたのか理解できないまま、アレクサは寝室を辞した。
自室に行ってようやく考えがまとまってきて、どうしたらいいのかわからなくなった。
街に行く。旦那様と街に行く。私なんかが旦那様と並んで歩いて、恥をかかせたりしないだろうか。いつもの服しかないのに、いいんだろうか。
悩むうちに休日はやってきて、仕方なしに普段着で朝食を食べ、簡単に髪だけ結って支度した。
六番目の月、萌黄の月だ。そろそろ暑くなる季節である。
アレクサは普段着の自分がアルヴァロッドと並んで歩くのが恥ずかしくて、彼から少し下がって歩いた。すると、
「アレクサ」
「は、はい」
「なぜ私の後ろを歩く」
「え、えと、あの」
「こちらに来なさい」
と、ぐいっと手首を掴まれ、無理矢理隣を歩かされた。恥ずかしくて恥ずかしくて地面ばかり見ていたが、その土壌に映る自分と彼の影の高さの差を見ると、あ、こんなに背丈が違うんだ、などと思って、そっと隣を窺い見てみた。
すると、横を行く男はうっすらと口元に笑みを浮かべ、上機嫌のようである。
切れ長の目。灰色の長い髪を一つに結って肩に垂らし、それが揺れている。大理石のような白い肌。
改めて見てみると、なんと麗しい面立ちなのだろう。
このお方の隣にいられるだけでも、有り難いと思わねば。
――どうせ、一時のことなのだから。
わかっている、わかっている。これは幻。これは幻想。幸せなんて、すぐに崩れる。
ここでの暮らしは、すぐになくなる。もうすぐ、終わるのだ。
「ついたぞ」
低い声で言われて、はっとした。
「ここだ」
「えっ……」
言われた場所がどういうところなのかを確認する前に腕を掴まれ、アルヴァロッドはもう一方の手で扉を開けると、
「ご免」
と言ってなかへ入っていった。
「これはこれは、公爵様。本日はどういったご用向きで」
「この娘に合う服を誂えてくれ。季節に合わせてそれぞれ十着ほど」
「かしこまりました」
「お嬢様、こちらへ。採寸いたします」
女性が奥から出てきて、アレクサの手を引いた。そして奥へ連れて行って採寸すると、また表へ連れていった。
アルヴァロッドは椅子に座り、飲み物を出され、店の主人と話をしていた。
「アレクサ、来なさい」
「は、はい」
「お前は何色が好きだ」
「あ、青です」
「お嬢様のお肌の色ですと、青は青でも千草色がよろしいかと。錆浅葱、という色もございますよ。浅縹はいかがでございますか」
「花浅葱など、お顔の色が生えましてよ」
「待て待て。青ばかり勧めるな。他の色もだ」
「では、碧色などいかがでしょうか。こちらは若い娘さんには特にお勧めしております」
碧色……。
胸がどきんとする。
燃やされてしまった、母の色。なくなってしまった、母との思い出。
「これはどうだ、アレクサ」
「え、あの」
「アレクサ?」
「わ、私、この色すきです」
「ではそのように」
「お前は色が白い。淡い色もいいが、濃い色もいいだろう」
「では常盤色などいかがでございますか。それに、白い花をあしらった柄ですと清楚でございますよ」
「どうだアレクサ」
「は、はい」
そうして春夏秋冬の服選びがされていった。
「夏服と秋服は急ぎで作ってくれ。公爵邸に届けてくれればいい」
「かしこまりました」
あまりのことに茫然としていると、アルヴァロッドはアレクサの手を取って店を出て、
「次は小物だ」
「え、あの、旦那様」
「なんだ」
「そ、そんな、急に、あの」
「お前ときたら、手鏡すら持っていない。そんなことでは髪も結えないだろう。今日のその髪、どうやって結った」
「あ、あの、窓を見て」
「窓?」
「窓に映ったのを見て、それで」
アルヴァロッド目と目の間を押さえて、立ち止まった。
「アレクサ」
「は、はい」
「私はお前に、その辺のふつうの年頃の娘と同じであってほしいと思っている」
「はい」
「年頃の娘はこういう時、遠慮などしないものだ」
「でも」
「でもではない。行くぞ」
そうして小物店で手鏡や鏡台や櫛、髪油などを揃え、それも公爵邸に持って来るよう手配すると、時刻はもう昼過ぎのようである。
「腹が減ったな。どこかで昼食を食べよう」
連れられて行ったのは、閑静な場所にある食堂であった。
「だ、旦那様は、こういった場所にはよく来られるのですか」
こんな普段着で来て、いい場所なのだろうか。帰ってくれと言われないだろうか。
胸がどきどきした。
「仕事で時々、立ち寄る。ウリエンスなども共に来るのだ。あいつ、役得なのだぞ」
「まあ」
くす、と笑うと、アルヴァロッドは満足げに言った。
「ようやく笑ったな」
「え?」
「屋敷に来てから、まだお前が笑ったのを見ていない。ようやく笑ったところを見た」
「――」
「もっと笑っていろ」
と微笑され、恥ずかしくなって思わず面を下げた。
食事が来て、それを食べ終わって帰宅するのかと思えば、
「次は髪飾りだ」
「えっ」
「えっではない。若い娘が髪を結うのに、髪飾りがなくてどうする」
「でももう充分に買っていただきましたし」
「だめだ」
そうして細工ものの店に赴くと、彫刻のなされた髪飾りが所狭しと飾られていた。
「わあ……」
思わずそれらに見惚れていると、店の主人が話しかけてきた。
「いらっしゃいませ」
「この娘の髪に飾るいい髪飾りを選んでやってくれ」
主人はうなづいて、カウンターのなかの陳列棚からいくつか品物を取り出した。
「黒髪に合う髪飾りといえば、なんといっても赤でございます。珊瑚などはいかがでしょう。こちらはロレーナの海で採れた血赤珊瑚を彫刻したものでございます」
真っ赤な珊瑚を植物の容に彫刻したものが見せられた。
「こちらは、同じく血赤珊瑚にサファイアと翡翠を鏤めましたものでございます。豪華さでいったら、これに勝るものはございません」
赤い珊瑚の上に、青い宝石と緑の石がふんだんにあしらわれた平らな髪飾りが置かれた。
「こちらも、血赤珊瑚と白珊瑚でございます。黒髪に、白がよく映えるでしょう」
大ぶりの珊瑚の平らな髪飾りの上に、白珊瑚の花束が彫刻されている。アレクサは思わず、それを手に取った。
「主、これを包んでくれ」
「かしこまりました」
「旦那様、でも」
主人が髪飾りを包み、アルヴァロッドがその場で勘定をすませ、あれよあれよという間にやり取りが終わってしまい、アレクサが気がついた時には、彼女はアルヴァロッドに手を取られて店を出ていた。
「おや、もう三の刻だ。屋敷に帰る頃には夕方だな。今日の夕飯はなんだろう」
「なににしましょうね」
「……その口ぶり、まさか作るつもりではあるまいな」
「えっ」
「えっではない」
「でも、一日遊び歩いて、その上お夕飯までローレンさんに作っていただくなんて、そんなの」
アルヴァロッドは目と目の間を押さえて、立ち止まった。
「あのなあ」
「は、はい」
「年頃の娘というものは、ふつうこういう時しめた、やったと思うものだ」
「そうなんですか」
「そうだ」
「でも」
「でもではない。だいたい、ローレンとウリエンスがいれば四人分の食事くらい、なんだ」
「そういえば、ウリエンスさんの作ったお食事、まだ食べたことないです」
「あいつの作った食事か。あれはな、なんというか、すべてが豪快だ」
「豪快……なんですか」
「切り口、味つけ、炒め方。すべてにおいて豪快だ。なんなら煮つけ方も豪快だ」
「想像ができません」
「せんでいい。腹を壊す」
「壊れるんですか」
「ああ、壊れる」
ふふ、おかしそうにアレクサが笑う。それを見て、アルヴァロッドも満足げに笑う。
夕日が傾いてきて、二人の影が伸びる。
この時二人にせまる運命を、二人はまだ知らない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます