イグチユウ

 教室、四十人の生徒、窓、廊下。

 俺はなんの意味もなく目に付いたものの名称を頭の中に浮かべていた。

 黒板、担任の細川。

 細川は黒板の前で、なにやら長々世話しをしている。その話が何なのかは分からない。説教なのか、冗談なのか、もしくは連絡事項なのか。それはただ通り過ぎていくだけの音で、街中にあふれている騒音の一部のようなものだ。何気なく教室を見回してみると、他のクラスメートたちも携帯をいじったり友達と話したりしていて、細川の存在なんてここにないかのようだ。であれば、この話は一体誰のためになされているのであろうか? 細川も生徒たちが自分の話を聞いていないことなんて理解しているはずだ。それでも細川は話をしている。まるでそうするようにとプログラミングされた機械のように。

 彼の話は帰りのホームルームの時間とされている時間通りに終わり、生徒たちは時間通りに帰っていった。それはまるで全てがそうするように設計されている機械のようだ。

 まるで、機械のように。

 マルデ、キカイノヨウニ。

 クラスメートと細川が帰り、教室には俺ともう一人しかいない。随分と静まり返ってしまった。もはや教室は先ほどまでとは違う世界に変わってしまっている。

 遠くから喧騒が聞こえる。

 俺はもう一人のほうに歩み寄り、声をかけた。

「上村、起きな」

 俺は窓際で眠っている上村のそう声をかけた。

 上村は俺と同じ部活に所属している。フルネームは上村香奈。付き合いは高校に入ってからなのでそんなに長くはないが、同じ部活に所属しているせいか俺はよくこいつと行動している。教室ではいつも寝ていて、部活中もよく寝ていることがある。その姿はまるで日向ぼっこをしている猫のようだ。そのくせテストの成績は俺より上だというのが腹立たしい。一体こいつはいつどこで勉強をしているのだろうか? ホームルーム中も当然のように寝ているので、いつも俺が起こして部活に連れて行っている。

「おい、いい加減起きろ。置いていくぞ」

 俺が大きく体をゆするとまだ眠そうにしながらも、上村は少し目を開けた。まだ夢と現実の間にいるらしく、ぼんやりしている。

「……あぁ、なんだうんこか」

 ゴッ。

「イターーイ!」

 俺の鉄拳を頭にくらい、上村は飛び上がった。どうやら、ちゃんと目を覚ましたようだ。

「なにするのさ! ひどいよ、乙女に対して」

「乙女なんかここにはいない。ここにいるのは、いつも寝てばかりの牛だけだ」

「ひどい、女の子に対して牛って!」

「俺の名前は西村右近だ。二度とさっきのような呼び方はするな」

 俺は上村の抗議を無視してそれだけ告げて、教室から出て行った。


 俺たちが所属している、オカルト研究会は、特別教室棟四階の隅のほうにある。この少子化の時代、空き教室がいくつもあるというのに何故かうちの部活は後者の一番辺境の地にいる。実際どういう理由があるのかは知りえないが、推測するに得体の知れない活動をしているわけの分からない部活を出来るだけ遠ざけたかったのだろう。入っておきながら言うのもあれだが、その気持ちには共感できる。

 俺に寄りかかり、歩きながら寝るという地味に器用な技を披露している上村と一緒に部室に入ると、そこにはもう他の部員である先輩二人がやってきていた。

「こんにちは、西村君に上村」

「こんにちは部長」

 窓際に立っていた部長の赤坂先輩は、俺と上村が入ってきたのでこちらに振り返った。

 赤坂先輩は綺麗長い黒髪と切れ長な目が印象的な人だ。美人なのだが、女王様のような雰囲気が有り、どこか近寄りがたい。このオカルト研究会を作った張本人であり、放課後に屋上でUFOを呼んだり、グラウンドに巨大な魔方陣を書いたりと、変人行動を多くとっている。おそらく学校で一番の有名人だ。

「何を見てたんですか?」

 俺が上村を椅子に座らせながらそう聞くと、再び窓の外を見ながら部長は呟いた。

「人がゴミのようだと思ってね」

「そうですか」

 先輩ならそういうことも考えるかと思って、何も言わなかったが先輩は声を荒らげた。

「ちょっと西村君、ちゃんとつっこみたまえ!」

「つっこむ?」

「きみはもしかして天空の城ラピュタを知らないのかい?」

「ジブリですっけ? 映画あんまり見ないんで分からないですね」

「……君は本当に日本国民かね?」

「そこまでいいますか」

 確かにテレビでもよくやっているからかなりの人が見ているのは間違いないだろうが、見ていないからといって国籍まで疑われるような事ではない。

「全く、あんな名作を見てないだなんて。なぁ、柊?」

 部長は自分の席に座って本を読んでいた柊先輩に声をかけた。柊先輩は部長と同じ三年生で、あまり口を開かない静かな先輩だ。部長と違って積極的に前に出てくることはないので存在感があまりないが、彼は彼で独特な雰囲気を持っている。まだそこまで長い付き合いではないので良く分からないが、彼と二人でいるとどこか居心地の悪さを感じてしまうのだ。何か自分とは根本的に違う異質のように思える。

「俺も見てないな」

「そんな、馬鹿な……」

 部長はがっくりと肩を落とした。よほどショックだったらしく、放心状態だ。そんな会話をしている間も、変わらずに上村は眠っている。

「彼女はなんでそんなに眠っているんだい?」

 柊先輩が平坦な声で、そう聞いてきた。先輩から話しかけてくるなんて滅多にないことだが、なんとなく話しかけただけで、特に興味があるわけでもないといった様子だ。

「本人曰く、眠るのが唯一の趣味だとか言ってましたけどね。授業中にも結構眠っていますし。なのに俺よりも成績がいいんで、腹ただしいですね」

「ふ~ん。夜は寝てないのかな。深夜番組見てるとか?」

「いや、そういうわけでもないみたいですね。テレビ番組の話をしたりしてもだいたい知らないですし、本を読むのは好きみたいですけど、学校で本を読んでいるのはあんまり見たことがないですから、本でも読んでいるんじゃないですか? あぁ、でも本人は夜はちゃんと寝ているとか言ってましたけどね」

「そうか」

 先輩はそこから何も言わなくなり、再び本を読み始めた。

 誰も喋る人がいなくなり、部室が静まり返った。遠くから喧騒が聞こえてくる。

 トオクカラケンソウガキコエテクル。


 知っているだろうか? 夜はとっても長いということを。

 友達と一緒にカラオケに行って朝まで騒いだとか、修学旅行で朝までずっと語り明かしたとかいうのとは違う、冷たい夜。それはとてつもなく長いものだ。暗く冷たく、とてつもなく残酷だ。そんな中にいるとこの世界は不幸で満ちていて、救いなんてどこにも存在しないのではないかと思えてくる。

 私はそんな夜を一番よく知っている。私は夜、眠ることがない。

 私はここしばらくの間、布団の中でゆっくりと眠りについたことがない。夜は家に”あの男”がいる、だから私は家に帰ることができないのだ。

 夜、安全に眠れるところというのはなかなかない。男性だったら、なんとかなるかもしれないがあいにく私はれっきとした女だ。夜の公園や駅で野宿するのはあまりにも危険すぎる。夜中にうろついているだけでも危険だというのにさらに危険を重ねることはできない。だから私は、この長い夜に眠ることはせず勉強をしている。そして勉強に飽きたら本を読むのだ。

 夜眠ることができない私にとって、昼の時間は貴重だ。学校内でそんな何時間も眠ることはできなので、細かい睡眠を何度もとっておかなければならない。

 だったら、部活なんてなんで入っているんだと思われるかもしれない。しかし、私は一人になるのが好きでないのだ。私は人と出来るだけつながっていたい。

 夜の冷たさを知っている私は、孤独というものにひどく恐怖を感じる。夜の冷たさと孤独というのは同じではないが、かなり近い。孤独になってしまった私は、きっと夜に飲み込まれてしまうだろう。

 私は夜に生きながらも、夜から逃げ続けている。そして夜はどこまでも追ってくる。

 ヨルカラニゲツヅケテイル。

 ソシテヨルハドコマデモオッテクル。


「やぁ、西村君。部活以外で会うとは奇遇だね」

 昼休みに、図書室へ行くとカウンターに部長が座っていた。俺は返却する本を部長に差し出した。

「部長、図書委員だったんですね」

「あぁ。あまりやりたがるやつはいないらしいが、大して苦になる仕事でもないからね。高校の図書館なんて大して人が来るわけでもないんだから、基本的には椅子に座って本でも読んでいればいい」

 そう言いながら部長が呼んでいた本は、今流行りの携帯小説だった。恋人が病気で死ぬだけの話。それを読んだ友人があらすじを詳しく説明してくれたが、その友人がどれだけ話そうとその本は本当にそれだけの話でしかなかった。なので正直言ってあまり部長には似合ってはいない。

「部長もそういう本読むんですね」

「も~、私も今時の女子高生なんだぞ☆」

 …………キモイ。

「今、キモイって思わなかったか?」

「思ってませんよ」

 俺は答えをはぐらかしておいた。部長はなかなか鋭い。ごまかそうとしても動物的感ですぐさま察知する。

「まぁ、そういうのは冗談で、一応流行りものは読むというタイプなんだよ。はっきり言って面白くはないね」

「でしょうね」

 俺は文庫が並べられているコーナーから、前から借りるつもりだった本を数冊手にとってカウンターに持っていった。

「そういえば、前から部長に聞いてみたいことがあったんですけど、いいですか?」

 そう尋ねると、部長は真剣な顔をした。

「部室では聞きにくい話ということかい? 私のパンツの色は――」

「そんなことは聞いていません」

「履いていないから答えられないな。すまない」

「予想外の解答だ!」

「まぁ、半分冗談だ」

「どう半分なのかは分かりませんが、俺が聞きたいのは柊先輩のことですよ」

「あぁ、あいつのことか」

 なるほどと、部長は頷いた。それだけでなんとなく俺が聞こうとしていることを察したらしい。聞きたいことではあったが、一体どう説明したらいいのかがよくわからないことでもあったので助かる。

「あの人って変わっていますよね」

「あぁ、変わっているな」

 部長は柊先輩のことについて話し始めてくれた。

「あいつとは小さい頃から家が近所でね、随分と長い付き合いになる。幼稚園も小学校も中学校も私と同じだから、あいつのことは大抵知っている。まぁまぁ頭が良くてスポーツもそれなりにできるし、それなりにいい容姿をしている。そういう単純なデータだけならあいつは、それなりな人間と結論づけられるだろう。ただ、そうじゃない。――ちなみに君はあいつをどう思っているんだい?」

「そう聞かれると、特に答えられることもないんですけど、感覚的な話をすると、なにか異質な気がします」

 そう、柊先輩はどこか異質なのだ。人間として大事なものをなにか失っているかのような、もしくは人間が持っている不必要なものをあの人は持っていないかのようだ。人間味がないと言い換えることも可能だろう。どこか別の生き物のような、いや、どこか別の概念といったような。

「なにか異質、その通りだね。あいつは少し他のやつとは違っている。私や君も含め、ね。長いあいだあいつとずっと一緒にいるが、完全に分かり合えたことなんて皆無だよ」

「一体、何が違うんですか?」

「君は偽善についてどう思う? いいことだと思うかい? それとも悪いことだと思うかい?」

「さぁ、考えたこともありませんね」

「私は思うに、純粋な善なんてものは本来この世に存在しないと思うんだよ。全ては偽善。どんなにただ純粋に正しいことをしているようでも、必ずそこには別の感情が潜んでいるし、自分に大きな害があるとなれば、善だと思うことをやらないだろう」

「そうでしょうけど、……それが何か関係があるんですか?」

「彼にはそういう偽善というものがないように思えるんだ。まぁ、何を善とするかなんて人によって違うから、必ずしもこれが正しい表現だとは思わないけど、私は彼のことを”純粋なる善”だというように思っている」

 純粋なる善、それだけ聞くとそれはとても綺麗な言葉のように聞こえる。しかしそんな単純なことではないのだろう。

「純粋なる善……。それがなにか問題でも?」

「問題はないよ。ただ恐ろしいだけ、さ。それはあまりにも異質だからね。夜の闇、みたいなものさ」

 異質、人間味がない、純粋なる善。それらは悪いことではない、ただ恐ろしいだけ。夜の闇のように。

 ヨルノヤミノヨウニ。

「彼は自分の善のためならあらゆることを犠牲にできるし、あらゆることを無視した手段を取れる。しかしそこにはもはや正しいことやいいことをしているという意識すらない。ただそうすべきだということを機械のようにこなしていくのさ。そうなると、それはもはや善とも呼べないかもしれない。皮肉じゃないかい?偽善を純粋なぜんへと変貌させると、最早それは善とも呼べないのではないかとさえ思えてくるものに姿を変えるんだ」

「……何かあったんですか?」

「彼が中学生の頃だ、私は別のクラスなので知らなかったが、彼のクラスでいじめがあっていたらしいんだよ。彼はそのいじめられている人間を助けたらしい。自分が代わりにいじめられることでね。そんなこと、普通はできない。正義感に溺れでもしないとね。でも、彼はそういった人間ではないただ機械のようにやっただけなんだ」

 ただ機械のように。

 タダキカイノヨウニ。


 その日、私は公園のベンチで本を読んでいた。ここのベンチはちょうど街灯に照らされていて、本を読むにはちょうどいい。私が夜を過ごすのによく使う場所の一つだ。

 その日私が読んでいたのは村上春樹の“海辺のカフカ”だった。この主人公も自分の家から出ているが私とは全く違う。私は避けているだけで、家から逃げることはできない。降りかかってくる火の粉を可能な限り避け続けるだけだ。逃げるのとは違い避けているだけなので火の粉はたまに私の肌を焼いてくる。きっといつか本当に避けきれなくなる時が来て、私は燃えてしまうのだろう。

「こんばんは」

 いきなり声をかけられて私は本から顔をあげた。そこには同じ部活の柊先輩が立っていた。いつもと同じ無表情がベンチに座っている私を見下ろしている。

「なんでここにいるんですか」

「俺はこの近くのコンビニでバイトをしていてね。たまたま公園の中を覗いたらたまたま君がいた、それだけだよ」

「そうなんですか、たまたまですか。私もたまたまここにいるだけです」

 私は嘘をついた。夜は家に帰っていないだなんてことを知られたくない。自分の父親のことを他の人に知られたくない。あんな人間の血が自分に流れているだなんて、そんなことが他人に知られるなんて最悪だ。たまたま女の子が深夜の公園で本を読んでいるなんてそんなことあるわけないが、私に嘘をつく以外の術は存在していない。

「……それは、本当かい?」

 柊先輩はそう言った。まるで全てを見透かされているような気がした。先輩の瞳に私の顔が映っている。その瞳の色が私の中へと浸透してくる。私は自分の心の支配力が弱まっていくのを感じた。一体彼はわたしのどこまでが見えているのだろう。しかし彼の眼は何も語らず、何を考えているのかわからない。

「話してくれないか?」

 その一言がきっかけになったのか、私の口はまるで今まで何も話さなかったのが嘘のように動き始めた。ダムが決壊したかのようにあらゆる感情があふれ出した。止まらない、とまらない、トマラナイ。

 一体私はどこまで先輩に話したのかわからない。感情の波にさらわれて記憶がなくなってしまっていた。

 ただ、こういったのは確かだ。

「――あんなやつ、死ねばいいのに」

 アンナヤツシネバイイノニ。


 上村の父親が殺された。

 そんな話を聞いたのは、学校に登校していった直後だった。

 しかも犯人は柊先輩。

 警察に柊先輩自身が電話してきて、警察が現場に行くと血まみれの上村の父親の死体と一緒に柊先輩が立っていたそうだ。泣くわけでも笑うわけでもなく、ただいつもの無表情で。

 その日、上村は学校に来ていなかった。そして父親の葬儀は行われなかった。彼女の父親の死体はただ燃やされて骨と灰になった。

 二週間たって、彼女は学校にやってきた。俺が最初、彼女にどんな言葉をかけたのかも、覚えていない。ただ彼女はこう言っていた。

「柊先輩はまるで神様みたいだよ」

 それから、上村は学校で眠らなくなった。


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イグチユウ @iguchiyu

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