第26話 宰相の妻はなにかしてあげたい④


「ああ……。あなたが来てくださったのに、こんな話ではいけませんね。すみません」


 リシャルト様は空気を変えるように苦笑しながらそう言うと、マグカップに手を伸ばす。


「これは、ホットミルクですか? せっかくあなたが僕のために持ってきてくださったのです。冷める前にいただきますね」


「え? あ、これただのホットミルクではなくて――」


 私が全てを言い切るよりも先に、リシャルト様はマグカップの中身を1口飲んだ。ブランデーが入っている方だ。カップの柄が違うので分かる。

 少しして、リシャルト様はごと、とマグカップを机に置く。

 いつもは物を置く時に音を立てたりしないのに、珍しい。


 ふと、リシャルト様の方を見遣れば、なんか様子が変だということにようやく気づいた。

 ん? なんか顔赤い?

 メイドさんたちから聞いたけど、リシャルト様ってお酒弱いんだっけ。

 すぐ寝ちゃいますよ、とメイドさんたちが言っていたけど……。

 

「大丈夫ですか……? リシャルト様……っわ!?」


 私がそっと声をかけたのとほぼ同時、私はリシャルト様に押し倒されたのだった。


「え? え、え?」


 突然のことに脳が処理しきれない。

 一体何が起こっている?

 なんで私は押し倒されているの?


「すごく、ふわふわします……。キキョウ……」


 目の前には、ほんのりと赤い顔をしたリシャルト様。

 青い瞳はとろんとしており、心做しか声もさっきまでよりふわふわしている気がする。


「これ、お酒入ってます……?」


 少し舌足らずな声で聞かれて、私はどぎまぎしながらこくこくと頷いた。


「は、入ってます……。その方がよく寝られるかなと思いまして……」


 リシャルト様はふにゃりと笑う。

 幸せそうだ……。


「僕のことを考えてくれたんですか? あなたは本当に可愛いですねぇ……」


 こ、これは……。

 もしかしなくても酔ってるーー!

 酔うのはっや! 飲んだの一口だよ!?


「り、りりり、リシャルト様っ!?」


 ふにゃふにゃとした笑顔で、リシャルト様は私の頭を撫でてくる。

 いや、待て待て待て!? 可愛いのはリシャルト様の方なんですけど!?


 いつもはきりりとしているのに、今のリシャルト様はまるで幼い子供のようだ。


「小さくて、ふわふわで……。いつも一生懸命で……」


 一体誰のこと!?

 話の流れからして、リシャルト様は私のことを言っているのだろうがイマイチしっくりこない。

 小さくてふわふわだなんていう言葉が似合うのは、エマ様のようなタイプの女の子だろう。

 背はリシャルト様よりは低いが平均だし、ふわふわしているタイプだとは自分では思えない。


「そんなあなたのことを、とびっきり甘やかして僕だけのものにしたいのに……。同時にあなたを泣かせて困らせたい自分もいる……。困りました」


「は、はいいい!?」


 え、え、え、泣かされるのは嫌なんですけど!?


「ああ……。キキョウは知らないのでしょうね……。僕がどれだけ我慢しているか、なんて」


 我慢? 一体何を我慢しているというのだろう。

 私はなにか、リシャルト様に我慢させるようなことをしているのだろうか。

 

 リシャルト様はまるで夢の中にいるかのようだった。

 目の前の私を見ているようで、見ていない。

 ぼーっとしているし、私の頬を撫でてくるリシャルト様の手のひらは熱い。

 

「知らないから……。僕のために差し入れを持って、こんな無防備な姿でここに来たんでしょう……?」


 酔っているせいなのだろうが、リシャルト様の視線がいつもと少し違う。

 まるで獲物を捉えた肉食獣のような……。

 

「ひ……っ」


 私は思わず小さく悲鳴を上げた。

 確かに無防備といえば無防備な格好だ。ネグリジェにカーディガンを羽織った状態で来たのだから。

 ここまできたらさすがに身の危険を感じて、私は両手でカーディガンの前を引き合わせた。

 

「キキョウ……」

 

 リシャルト様の体が、そのまま私に覆い被さるように落ちてくる。

 私は思わずぎゅっと目を瞑った。


 お願いだから元に戻ってー!


「り、リシャルト様……っ」


「…………」


 重い。

 リシャルト様は私の上に覆いかぶさったまま動かない。

 

「……ん?」


 どうにか体を少し起こすと、リシャルト様は私の上で健やかな寝息を立てていた。


「……寝てる」


 人をあれだけ混乱させておいて、なんだったんだ。

 思わずがくっとしてしまう。

 ほっとしたような、少しだけ残念なような……。


 確かにメイドさんたちの言う通り、お酒を飲んだリシャルト様は上機嫌になってすぐに寝てしまった。まさか、こんな風なテンションの上がり方だとは思わなかったが。


「……おやすみなさい」

 

 私はリシャルト様の金の髪をそっと手で梳いた。

 



 その後、ハーバーさんが書斎にやってくるまで、私はリシャルト様の下敷きになったままだった。

 翌日、何があったかを知ったリシャルト様が私に平謝りしてきたのは言うまでもない。

 

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