第25話 宰相の妻はなにかしてあげたい③
そうして夜も深け、時刻は午後10時。
私はマグカップが二つ乗ったトレーを持って、書斎の前にいた。片方はブランデー入りのホットミルク。もう片方は普通のホットミルクだ。
リシャルトは夕食を食べたあと、仕事をすると言って書斎に入っていった。
ハーバーさんに聞いたところまだ仕事をしているようだったので、これは差し入れチャンスだ。と勢い込んでホットミルクを用意してきたはいいものの。
――少し、緊張する……。
こんな夜遅くにリシャルト様のところへ行くのは初めてだった。
私とリシャルト様は書類上夫婦ではあるが、夜を共にしたことはない。手を繋いだり、キスをされたことはあるけれど、この20日間かなり清らかな結婚生活を送っていた。
――夜に夫の部屋に行くって、
私はこれでも一応、前世では22年、今世では16年生きてきている身だ。
経験は無いけれど、恋人や結婚した夫婦がするであろう営みの知識だけはある。
ああ……。ちょっと切ない……。貞淑と言えば聞こえはいいけど、こんなの胸を張って言えることじゃないんだよなぁ。
相手がいるけど操を守った、とかではなく、そもそも前世も今世も相手がいなかったんだから。
まぁ、それは今までの話だ。
今は一応、両思いで結婚をしている旦那様がいるわけだ。
別にリシャルト様と一線を超えたくないというわけではないし、もしそういう行為をするならリシャルト様がいいけれど……。
そういうつもりで訪問するのではなく、差し入れをしたいだけだから、ここで一線を踏み越えたくない、というのが本音だ。
まぁ、リシャルト様だから大丈夫でしょ。
なんの根拠もなく私は思う。
今までそういう手出しをされたことはないし、あの人はきっと私が嫌がることはしない。
この短期間急速に縮められた距離だが、私はリシャルト様のことを信頼していた。
そんなことよりも、ホットミルクが冷める前に持っていかないと。
「リシャルト様、入ってもいいですか?」
書斎の扉をノックをして呼びかける。
すると、すぐに扉が開いた。
「キキョウ? こんな時間にどうしたのですか?」
寝る前だからか軽装のリシャルト様は、私の姿を見て少し驚いているようだった。いつもつけている
だが、リシャルト様の顔色があまり良くない。
やっぱり疲れている……。
「差し入れを持ってきたんですけど、いかがですか……?」
私がトレーを持ち上げると、リシャルト様は嬉しそうに目元を緩めた。
「ありがとうございます。どうぞ、中へ」
リシャルト様に促されて、私は書斎の中に入る。
書斎の中は屋敷の他の部屋と同様に、アンティーク調の家具で揃えられていた。
暖かな橙色のランプが、部屋を取り囲むように配置された本棚を照らしている。
部屋の奥には執務机があり、リシャルト様はどうやらそこで仕事をしていたようだった。机の上には書類が散らばっている。
「お仕事の邪魔をしてしまいましたか……?」
部屋の中央にあるソファにリシャルト様が腰掛ける。
私も続いて隣に座った。
トレーはローテーブルの上に置かせてもらおう。
「いいえ。あなたが来てくれて良かったです」
「どうしてですか?」
微笑むリシャルト様の言葉に私は首を傾げた。
私が来てよかった、とはどういうことだろう。
「ここ最近の状況を考えて、さすがの僕も、今後が怖くなってしまいまして……」
リシャルト様は自嘲気味に笑う。指を組んでどこか遠くを見る横顔には、疲れが滲んでいた。
「エマ様が今、聖女代理になっていることはご存知ですよね?」
「え、ええ」
私はリシャルト様の言葉に頷いた。
城下街でニコラと遭遇した時、そのことは聞いた覚えがあった。
「エマ様が聖女代理でいられるのは一ヶ月の間なんです。それまでに聖女の力を示さなければ、エマ様もエマ様を推薦したアルバート殿下も破滅するでしょう」
「……っ」
静かに告げられた内容に、私は思わず息を飲んだ。
私の知らないところで、そんなことになっていたのか。
「その一ヶ月の期限が、あと10日に迫っている」
リシャルト様は私に視線を向けてきた。彼の青い瞳が心配そうに揺れている。
「未だ聖女として力を示せていないエマ様やアルバート殿下からしたら、もう後がない状況です。つまり――」
リシャルト様はそこで言葉を止めた。まるで、続きを言うのを躊躇っているかのようだ。私がリシャルト様の瞳を見返すと、覚悟をきめたようだった。
「――何をしてくるか分からない。もしかしたら、あなたに危害が及ぶかもしれない。そう考えたら不安でたまらないんです」
「リシャルト様……」
「もちろん、すでに裏で色々と手は打っています。あなたのことは必ず僕が自由にしてみせますし、守ります。ですが――、もしエマ様やアルバート殿下が接触してきたら、逃げてください」
リシャルト様に真っ直ぐな瞳を向けられて、私は困惑してしまった。
エマ様やアルバート様が、私になにかしてくるかもしれない?
そんな馬鹿な、と思う。だってあの人たちは、私のことを散々『お飾り聖女』だとバカにしてきたはずだ。念願通り、私を解任したのだからもう用はないだろう。
だけど、と思う。あの二人に時間が残されていないのなら、確かに何をしてくるか分からない。
「分かり、ました」
私はリシャルト様にそう返すしか無かった。
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