第26話「風の祠と祈りの余燼」

イベコスタンから東へ二日。

馬車を降り、草を踏み分ける道なき道を越えた先。

断崖と草原の境に、風が集まる静謐な場所がある。


“風の祠”――古代より風の神霊と対話してきたとされる、供物の場。


草原に吹く風は常に一定の方向を向き、音を立てずに流れていた。

緑の海に包まれたその土地は、自然の声がひそやかに息づく場所だった。


石造りの柱が風に削られ、刻まれた文様の多くはすでに読み取れない。

それでも、ただそこに立つだけで“何かが残っている”と肌が感じる。


莉子は足元の石段にそっと手を置いた。


「ここが……祠の中心?」


傍らで、ティナが小さく頷く。

「うん……なんだか、息がしにくい。風なのに、重い感じがする……」


「霊圧が濃いのよ」

エリオットが周囲の空気を感じ取りながら答えた。

「かつてここでは、“風の供物”と呼ばれる料理が捧げられていたわ。今は、もう誰もその祈りを覚えていないけどね」


莉子は石の台座に目を落とした。

その上面には、まるでまな板を置いたような、平らな空間が残っていた。


「ここで……料理を作ってたの?」


風がそっと、莉子の頬を撫でた。

その刹那、腰の包丁がわずかに震えた。


(……誰かが、ここで祈ってた。切って、盛って、風に乗せて)


莉子は吸い寄せられるようにその石に手を当てた。


「……おばあちゃん?」


視界が、揺れた。



風が巻く。

草が揺れる。


霞んだ記憶のなか、若き日の弥栄が石の台座に向かって立っていた。


刻んだ香草を手に取り、乾いた魚の身にまぶす。

手元には、煤けた包丁と木のまな板。


「風は、想いを運ぶもの……料理は、供物として祈りの器になるのよ」


それは、莉子がまだ知らぬ祖母の“祈りのかたち”。



現実に戻る。

莉子の手は石から離れていた。

頬には一筋の風が伝い、香草の香りが鼻をかすめる。


「……記憶じゃない、香りだった。残ってるんだね、祈りの一部が」


エリオットが静かに言う。


「器がなくても、料理が消えても。想いは、風に染みて残るものよ」


莉子は立ち上がり、草むらに目を向ける。


「だったら、もう一度。ここで作ってみたい。祈りを込めて、もう一度」



帰り道の途中、小さな泉のほとりで野営することにした。


周囲は草の香りに満ち、風が木々の間を通っている。


莉子は持参していた鍋に、現地で採れた霊根と芋を刻み入れ、

昼間感じた香草とよく似た草を一つまみ、香りが飛ばないように弱火で煮ていく。


ふつふつと、湯気が立ちのぼる。

火に照らされたその湯気の中には、確かに“懐かしさ”があった。


ティナが一口すすると、瞳をぱっと見開いた。


「これ……あの場所の風と同じ香りがする」


「うん。さっきの祈りを、思い出しながら作ったの」


莉子は包丁の柄を撫でながら、心の中でそっと呟いた。


(おばあちゃん……私も、こうやって残していくよ)



その夜。

祠の裏手、裂けた断崖の奥――


仮面をつけた影が、崩れた石碑の一片を拾い上げていた。


「風に残る祈り。供物が記憶を宿すなら……それを覆す“供物”を作ればいい」


男は静かにその石を懐に収め、夜の闇に消えていった。



次回:第27話「供物の継承者たち」

かつて祈りを編んだ者たち。その意思は、料理人たちの技として今も息づいていた――。

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