第25話「供物の器、祈りのかたち」
朝のイベコスタン。
薄い朝霧が石畳の隙間から立ちのぼり、市場の屋根には昨晩の夜露が残っていた。
木製の屋台が軋む音と、遠くから聞こえる牛車の車輪の音。街が、ゆっくりと目覚めていく。
ギルドの厨房にも、ひと足早く火が灯っていた。
「ティナ、そっちの灰根、火が強すぎるよ」
「う、うんっ!」
湯気の立ちこめる厨房の中。
莉子は髪を結い上げ、真剣な表情で調理台に立っていた。
今日は朝のまかない。
ギルドを出発する冒険者たちの胃袋と体力を支える、いわば“料理人の朝の勝負時”。
――献立は、ガラムボアの肉団子スープと、霊芋と聖灰根の香草炒め。
あとは、炙った穀霊パンに香草バターを添えて。
大鍋の中では、肉団子が柔らかく揺れていた。
包丁で整形された丸い塊は、霊芋の粘りで煮崩れしにくく、淡く透き通った霊水のスープと馴染んでいく。
ふわりと香る、野山の清らかな草の香り。
火加減を見ながら、莉子は手早くパンを裏返し、バターを塗った。
その隣でティナが炒め鍋と格闘していた。
「芋、焦がさないように、鍋の縁で返して。火の中心は避けて」
「りょ、了解っ……!」
白い湯気がゆらめき、包丁の刃が湯気の中で淡く光った。
⸻
ちょうど配膳の準備が整ったころ、厨房の扉がギィ、と音を立てて開いた。
「おう、リコ。ちょうどいいところだったな」
ギルドマスター・ガルドが、肩をすぼめて現れた。
湯気の匂いを嗅ぎ、深く息を吸い込む。
「ふはー……この香りだけで、今日一日、元気が出そうだわ」
「ふふ、たくさん食べてもらわないと、冒険になりませんから」
莉子はスープの火を落としながら答える。
その刹那、ガルドがふと声を落とした。
「実は、あんたに伝令が来てる。料理ギルド本部経由で、特別調査の任務だ」
莉子の手が止まる。
「調査……ですか?」
ガルドは木板の報告書を手渡した。
「東の国境地帯、“風の祠”って場所で、霊圧の乱れが発生してる。
神霊の影響が懸念されててな。供物との関係を探る必要があるってさ。料理人の視点で、現地の食環境と霊性の調査を頼みたいらしい」
莉子は板を受け取り、視線を落とす。
「……わかりました」
その言葉に、包丁が“コトン”と鞘の中で小さく音を立てた。
まるで、次の旅路に向けて、静かに呼応するように。
⸻
その夜。
ギルドの厨房はすでに人気を失い、静けさに包まれていた。
灯りはひとつ。
調理台の上に置かれたランタンの明かりが、包丁と砥石を柔らかく照らしていた。
シャリ……シャリ……シャリ……
莉子はひとりで、包丁を研いでいた。
水に濡れた砥石の上を、刃が一定のリズムで滑る。
その手元には、真剣な眼差しと、静かな祈りがあった。
「……ねぇ、あなた。私は、ちゃんと“供物”を作れているかな」
砥石の音が止む。
しばらくの沈黙のあと、包丁がわずかに震えた。
(……まだ、途中。でも――いい匂いがしてきた)
莉子は微笑み、刃を布で丁寧に拭いながら、まな板の上にそっと置いた。
厨房の静けさの中で、まな板の木目がわずかに軋む。
その音に、どこか“遠くの記憶”のような、優しさが滲んでいた。
⸻
一方その頃――
月明かりも届かない、忘れ去られた地下の聖域。
そこに在るのは、ひとつの白く輝く板。
結界に包まれ、封じられ、誰にも知られることなく、静かに息をしていた。
(……やっと近くに来たと思ったのに。また遠くなったのね)
(でも、もうすぐ……もうすぐ、あの子と)
それは“本物のまな板”。
未だ誰の手にも届かず、けれど確かに“誰か”を待ち続けていた。
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次回:第26話「風の祠と祈りの余燼」
新たな神域に残された、古き供物の記憶。風の中で莉子が辿る“祈り”の残響とは――。
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