第20話「香湯の夜と、秘されし護衛」


「この依頼……温泉の調査?」

莉子は首を傾げて、受け取った依頼書を見つめる。


「正確には、“香泉”の湧出地点から湯のサンプルを採取してほしいって内容だな」

ザハルが補足する。ギルド内の掲示板に貼り出されたその依頼には、こう記されていた。


“スパイス鉱脈帯に湧く天然香泉、魔物避け・体力回復の効能あり。帝都への輸送を視野に、湯質と安全性の調査を希望”


「香泉って……あの、香りがするお湯?」


「そう。しかもここのはスパイス由来の香気を含んでる。まさに“飲める湯気”ってやつさ」


ザハルが豪快に笑う。

ティナは目を輝かせた。


「すごーいっ!スパイスの温泉なんて入ったことないよ!」


「採取場とは別に入浴場があるらしいし、ちょっとだけなら入ってもいいかもね」


莉子は荷物を整えながら、包丁袋をそっと撫でた。

(お湯とスパイス……大丈夫かな)



山道を登り、二人はやがて目的地に到着した。


スパイスの香りが地熱と共に立ち昇る、赤土の渓谷地帯。

湯気を上げる地表には複数の湯口が存在し、香気を含む蒸気がほのかに肌を撫でる。


採取はザハルが担当し、莉子とティナはその間、下流の入浴用温泉へと足を向ける。


「うわぁ……」


木々に囲まれた露天湯は、乳白色の湯に赤い花びらのようなスパイス片が浮かび、かすかにカレーのような香ばしさを含んだ香りが漂っていた。


二人は湯に身を沈める。


「……ふぁ〜、なんか……体がじわじわする……!」


「スパイスって、食べても、浸かっても効くんだね」


莉子は包丁が湯に触れぬよう、慎重に岩場に立てかけた。

(それにしても……ほんとに温まる)


じんわりと汗がにじみ、心なしか肌もすべすべになっていく感覚。


ティナは湯面にぷかぷかと浮かびながら、ふと問いかけた。


「ねえ、莉子ちゃん。こういう温泉って……君の故郷にもあるの?」


莉子は一瞬黙り――小さく笑った。


「あるよ。香りは違うけど……温泉って、やっぱり特別だよね」



そしてその頃。

崖の上、湯気の向こうにもうひとつの湯があった。


源泉の湧出点に近いその湯は、まさに“秘湯”と呼ぶに相応しい場所。

そこに一人、静かに身を沈める影があった。


黒髪を濡らし、ポニーテールを垂らす長身の美女。

全身を覆うローブは今は脱がれ、滑らかな肌が湯に浮かぶ。


――エリオット。


彼女は周囲に結界を張りながら、感覚を研ぎ澄ませていた。


(包丁……気配が揺れてる。何か、変化の兆し?)


ふと、湯に映る月を見上げる。


「……無事で、何より」


そして、そっと目を閉じる。


「けれど、まだ先は長いわよ。リコ」



湯上がり、髪を拭きながら風に当たる二人。

ティナは湯冷ましの果実水を手に、星空を見上げていた。


「……また来ようね、莉子ちゃん」


「うん。今度は……もっと大きな湯船で」


二人の笑顔が、月明かりに浮かび上がる。


その遠く、湯けむりの向こうにはまだ語られぬ影が潜み――

夜の静寂が、ゆっくりと次の事件の幕を開けようとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る