一章 Judgment Bibleー聖法全書ー


 ヒューゴ大陸の東に位置する島国、その名も「エルザム共和国」。

 かつては「エルザム帝国」と呼ばれていた。その名の変遷が示す通り、現在は帝政から共和制に代わり、その移行から五十年近く経過する。

 エルザムは古来より「海妖(ケートス)」というリヴィル海に住まう怪物に襲われてきた。

 海妖はなぜか大陸側へは進まず、エルザム、特にリヴィル海に近い東側を攻めてきた。

 リヴィル海側に壁を建設して物理的な侵入を防いでも、海妖はどこからともなくエルザムに出現し、特に大きな被害は後に「妖災」として歴史書に名を連ねることになる。

 エルザムは通常武器、マナを用いた秘技こと魔術で対抗してきたが、海妖相手には不利を強いられる日々が長きにわたって続く。対海妖殲滅機関として設置された「帝聖審判」の精鋭達をもってしても、戦力は海妖側に優勢だった。

 しかし、ある日を境にエルザムは海妖と対抗しうる力を――「聖書」を手に入れた。 

 

   ◆◆◆


『オステール新聖審判・聖法全書(せいほうぜんしょ)特別開書許可申請書』

〈申請理由〉

 ライト・オルトバルトが所有する邸宅に、死霊魔術行使の罪で指名手配中の魔道犯マイケル・ヘルン(偽名と思われる。推定二十歳から三十歳。S(スケール)2.0)の潜伏を折鳩で確認。

 指名手配被疑者の身柄確保のため防衛部第七執行隊所属、審官五名分の聖法全書の特別開書を申請する。

 以上

 申請者 アルバート・シャイドマン

 所有者 アルバート・シャイドマン、アンソニー・アルムガイン

     シェイミー・コルドガリバー、クリーム・キャルディ

     ジャック・ストライド

 印   【許可】


   ◆◆◆


「手を上げろ! 膝をつけ! ……そう、そのまま、今度は両手を床につけ。少しでも変なマネをしたらこの女がどうなるか……分かってるだろうな?」

 ――――みんな早起きじゃん……。

 ジャック・ストライドは現在、邸宅内のエントランスホールにて二十代の男達に囲まれている。

 本人としては決して堂々と敵の集まる場所へノコノコ出向いたつもりではない。

 おおよその人間が油断するであろう早朝を狙い、二階の裏窓ごと外して四人の隊員達と共に侵入した。その後、エントランスホールを含む一部の部屋への出入り口が隠蔽されていることが判明し、どこかに抜け穴が隠されていないかを調べていた。

 不思議な絵画に秘密の脱出口が隠されているという児童文学のセオリーに従い、彼が一枚の肖像画の表面に触れようとすると、腕が絵画の中へスウッと飲み込まれた。眩惑魔術で肖像画が描かれているように見えているだけで、どこか余所の場所へと繋がる抜け穴(ポータル)になっていた。

 その動作がトリガーになってしまったのだろうか。ジャックはこの絵画(ポータル)の存在を誰かに告げることも叶わず、身体中が重力から解放されたかのような浮遊感に襲われる。気づいた時にはオルトバルト邸のエントランスホールど真ん中へ見事ご招待されていた。

 そして今、彼は男達の前で両手両肘を床につく、四つん這いのポーズをさせられている。

 これから本格的なプレイタイムがお待ちかねしているわけでなく、腰の革ベルトに繋がっている装具を外すためにそう命令されただけである。

 男の一人――ライト・オルトバルトに若い女給仕を人質を取られていたので、ジャックは従わざるを得ない。

「……まずは身につけてる武器を全部外せ」

 ジャックではなく、彼を囲っている男の一人にそう言いつける。

 まずは隠し武器がないかのボディチェック。次に浅黒い肌の男が装具を外すべくジャックの腰元に手を伸ばし、白いロングコートの革ベルトに手をかける。屈辱的なポーズをさせられているうえに身体のあちこちを伝う無骨な手の感触に不快感を隠しきれなくなり、ジャックは

 ――うわッ! 気色悪!

 と、条件反射で拒否感たっぷりの嫌な顔をしてしまうと、

「なんだその顔は!」

 男に奪われたばかりの「本」の背表紙あたりで力一杯頭部を殴られてしまう。

 痛みはあるが、普段彼が毎夜行なっている儀式に比べれば気絶しないぶん大したことはない。

 男はジャックの革ベルトと、装具付きの本を手にご満悦といった様子である。

「審官(おまえら)なんて聖書が――『聖法全書』がなけりゃ怖くもなんともねえな」

 ジャックの背後にいた別の男が卑しく笑いながら彼の尻を足で蹴りつける。執念深いジャックはこの仕打ちを一生忘れそうにない。

「怖いのがイヤなら『裁断』でもしてやろうか?」

「余計なことを口走るな!」

 ジャックが提案してみるものの、オルトバルトははねつけるように語気を荒げ、人質を拘束する手を更に締め上げた。ジャックの本を奪った男も膝をついて彼の肩を右手で掴む。

 これから聖書(あれ)を使って「悪さ」をするつもりらしい。

 オルトバルトは惨めな体勢の審官(ジャック)を見ては更にこう続ける。

「次はコートだ。コートを脱がせ」

 やっぱり本格的なプレイタイムがお待ちかねしてるのかもしれない。

「やめとけよ。聖書は接続権のプロテクトがかかってるから審官以外には扱えないし、位置情報が常に送信される仕様だから。コートだって一般人には防御力とか対魔術耐性とかの恩恵ないし。それ持ってトンズラしても足が付くだけだし意味ないぞ」

「聖書(ほん)とコート以外は無事で済むと思っているのか? これからお前はゾンビになって働いてもらうんだよ」

 ジャックの脳内に一人の魔道士の名前が浮かんだ。

「『魔術取締法』で死霊魔術の行使及びそれを幇助した者はこの国が定める最高刑、要するに死刑に処される。今ここにいる全員がだ。――いるんだな。ここにマイケル・ヘルンが」

 オルトバルトは鼻で笑ってから「解説ありがとよ」と言う。

 死霊魔術。エルザム共和国の法律、「魔術取締法」の中でも禁術の一つ。生命の神秘を穢す、赦されざる外道。

 魔道犯マイケル・ヘルン。三年前、野垂れ死にした物乞いをゾンビへと変え、四人の少年を死に追いやったかどで指名手配され、未だなお逃走中の身であった。

 オルトバルトが言った方法なら、ゾンビと化した審官に聖法全書を持たせることで意のままに操ることができるかもしれない。強引に保護を破るよかその方がずっとスマートだ、とジャックは敵ながら感心した。

 しかしそのご本人はいつまで経っても姿を現さない。自分は前に出てこられない卑怯者。

 まだ頭部を押さえつけられている状態のまま、ジャックの口から小さく笑いが漏れる。

 顔を伏せたまま、ひとり不敵そうに口端をつり上げた。

「じゃあ、これから何があっても『過剰防衛』って言うの禁止で」

 スルリ、とジャックは右半身を男の身体の下に滑り込み、背中と腰を浮かして男の上半身を突き上げる。

 バランスを崩した男の左手にスキが生まれる。その手から本がこぼれ落ちた。

 男の左腕を掴む。右脚を両腿でロックする。

 再度ジャックは背中を浮かす。今度は左側へ流しながら。

 男は慌てて審官の頭部を押さえようと右腕を伸ばすも逆に掴まれ、馬乗りされ、形勢が逆転する。ジャックは男の両腕を片手で押さえ、その顔目がけて熱い拳を一発。固い床からゴン!といい音が鳴った。

 脳震盪を起こしたのか、男の全身から力が急速に抜ける。後で無事目が覚めることを祈る。

 動きを一瞬たりとも止めず、聖法全書が繋がっている銀の鎖を掴んで大きく振り回す。

 背後からジャックを襲おうとした男は、自分の顔よりも大きい鈍器が顔面に迫ることに驚き、結局避けることも叶わず激突。バランスを崩し後ろへ転倒。

 ジャックはその場で腰を浮かし、足を踏みしめ、鎖を握りその場で軸をぶらさずコマのように素早く回転(ターニング)。

 投擲目標地点はライト・オルトバルト、その顔面。

 半回転した時に一瞬、オルトバルトが白い鳥に似た何かに視界を妨害されている様子が見えた。持ち主に似て優秀だ、とジャックは含み笑いする。

 一回転半で鎖を手放し、飛行物体の行方を見届けず身体を後ろへ捻る。真正面から鈍器を受け止めた男が立ち上がろうとしていた――のを見計らった、ジャックの跳び蹴り・顔面強打僕・失神昏倒の黄金フローチャートが完成する。

 事終わるとジャックは片足で男の顔を踏みぬきながら立ち上がる。

 メリッ……と嫌な音が聞こえた。鼻骨かどこかをやってしまったかもしれない。決して尻を蹴られたお返しではないとジャックは自分に言い聞かせた。

 ここでもう一度オルトバルトの方を見る。すでに飛行物体、もとい聖法全書は床の上。

 ジャック渾身の飛び鈍器がオルトバルトへの顔面直撃に成功したようで、痛そうにもがいている。

 オルトバルトの手が緩むのを見た瞬間「逃げろ!」とジャックが叫び、彼に捕えられた女給仕がその場を急いで離れた。

 オルトバルト痛みで悶え、手で顔を覆ったままよろめき、そのまま倒れこんでうずくまった。

 

 ジャック・ストライド。

 オステール新聖審判・防衛部第七執行隊所属の審官。十七歳。

 お行儀良く聖書を携えるよりも、単純かつ明快に暴れるのが大好き。

 

 ――これで三人……あと二人!

 二人のうち一人はもちろん魔道犯のマイケル・ヘルン。

 もう一人はオルトバルトの仲間。邸宅には三人の仲間が入り浸っているとタレコミがあった。

 ――第九条【返戻せよ】

 条文念頭適用。声に出さない代わりにそう念じる。

 すると投擲した聖法全書が吸引されるかのように素早くジャックの左手に戻る。本に取りつけられているバンドが、ジャックの手のサイズに合うように自在変化・自動吸着する。

 ――第八条第二項【俯瞰せよ】

 今度は別の条文を念頭で適用。自動で本が開き、その頁には「折鳩(おりはと)」が読み込んだ部屋の間取り、発見した全ての人間の位置情報が記録されている。

 しかし書き込まれているのは倒れた三人、ジャック、うずくまっている女給仕、そしてまだ顔を見せてない一人(ヘルン)の計六人。

 間取りの中に一箇所だけ赤く点滅し始める。位置はエントランスホール中央にある吹き抜けの大階段を上った、欄干つきの二階廊下。

 魔道犯マイケル・ヘルンが潜んでいる場所――そして魔術発動、その前兆だった。

 ちょうど大きな柱の陰になるよう隠れていたらしい。ジャックは急いで大階段を駆け上がる――ようなマネはせず。

 彼はバンドで固定された左手の本の「中」に右腕を突っ込んだ。引き抜くとジャックが掴んでいる右手の中には、銀の光沢と艶のある鉄鎖がじゃらりと音を鳴らしながら垂れていた。


 その頃、マイケル・ヘルンは二階、柱の陰から一階の様子を探っていた。

 あの審官相手に「あともう一人」が正面切って戦うのは分が悪い。

 白いコートの審官が放った鉄鎖は大きな柱へと向かう。柱は蛇のように何重にも強く固く鎖を縛りつけられた。

 ゼンマイバネと同じ要領で鎖を再び本(なか)へ巻き取る審官の体は自然と柱の方へと引き寄せられる。その動きを利用して審官が床から足を離し、柱へ向かって一直線に飛ぶ。審官らが空中移動するための常套手段だ。

 あの自由に空中を飛び回る様、白き衣を身に纏った姿から「白鳩の使者」なる異名がある。しかしそんなことヘルンには関係ない。

 柱に飛び移った審官がもう一本の鎖を二階の欄干に縛り付け、柱に繋がった鎖を乱暴に切り離し、一切迷いのない動きでヘルンのいる廊下へと躍り出た。

 間髪を容れず、先端にダガーが繋がっている鎖を本から引き抜き、魔道士目掛けて放つ。

 ヘルンは咄嗟に自分を庇おうと顔の前で両腕をクロスさせることで己が身を守り――。

 パキンッ!

 何かがひび割れ、欠片が床上へ虚しく落ちる音が聞こえた。

 ヘルンの腕輪に施されていた、カボションカットの紫半透明の石が盾となったのだ。

「やっぱりな。その魔石で自分のマナ・スケールを偽装してたか。……なんだお前、2.0って聞いてたけど2.5はあるな」

 ヘルンは一瞬だけ目を見開き、すぐに険しい目で審官を睨む。

 魔石の仕掛け、そして計測条文を適用せずSの現在数値を指摘されて狼狽したからだ。

 額当ての布にも刃先が触れ、千切れてずり落ちそうになるそれを左手で押さえる。

 Sとは「マナ・スケール」の略称で、その名が示すとおり「マナ」――それぞれが持ちうる神秘の力――の大きさを数値化したものである。

 言い当てられた数値は正しい。現場を数多く踏んだ審官は肌感覚である程度Sを推測できることはヘルンもよく知っている。

 しかし今相対している男はせいぜい十八前後。そんな若さでここまで正確に言い当てられるものなのか?

 審官が得意げな顔をした。ヘルンの表情で、自分の発言により確証を得たようだ。

 二人は廊下の上で対峙する。向こうは聖法全書もある、体術もある。ここまで近づかれたらまずヘルンは対抗する手段がない。

 だから――彼は柱、審官には陰になって見えなかったある場所を掌で叩いた。

 仕込みはすでに済ませてある。あとは言葉を紡ぐだけ。


「海の孕み仔ここに在り――――」

 

 一言目で審官がヘルンに鉄鎖を奔らせる。

 しかし彼の足下に突如現れた魔法陣から赫い円柱の防壁が生まれ、鉄鎖は阻まれ、カラララララと金属音を響かせるだけ。

 呪文の詠唱中はどうしても無防備にならざるを得ない。発動中に外部からの干渉を防ぐ魔法陣の設置は基礎中の基礎である。

 審官が防壁を前に舌打ちし、次に柱を見る。もう遅い。


「――――潮たゆたう神の島

 ここは汝が神の島

 海神は、蒼氓(そうぼう)への蹂躙を善しとする――――」

 

 ヘルンの手の先には召喚陣が描かれていた。詠唱が終わると、互いの頬にビリッとした刺激、耳の奥に圧が襲う。

 突如、一階全体の景色が白みはじめる。それは立ちこめる水蒸気だった。空間全体の湿度が上昇したのが嫌でも分かる。

 蒸気が徐々に薄れていくと、生き物の影が見えた。辺りに薄く広がった水蒸気が突如大きな水玉に変わり、はじけるような音を立てて落ちた。一階は割れた水玉から流れ出た透明な液体で浸水し、気絶させられた男達の身体が浸かる。

 シュウゥゥゥゥゥゥ、シュウゥゥゥゥゥゥ…………。

 白い水蒸気の中心にいたものの全貌が露わとなる。

 威嚇音を発するソレは、赤褐色の長い顎、紅い眼、ぬるぬるとした体表、長細いフォルム。

 形状はまさに蛇と言ったところか。

 細いといっても、その胴まわりは人間の数倍はある。

 今にも倒れている男達を丸飲みしてもおかしくない。それほどの巨体だった。

 

「「な……なんだあの海妖(ケートス)は……」」

 揃って息を呑み、二人のセリフがシンクロする。

「――――なんでお前が驚いてるんじゃい!!」

「ンオォッッッ!!」

 ヘルンはジャック渾身の聖書チョップを脳天に叩きつけられてしまう。

 だが今はヘルンをどうこうしている場合ではないとジャックが気づき、急ぎ下でのびている男三人の身体を鉄鎖で縛って上からまとめて引き寄せた。あれに潰されてしまったらミンチ化は避けられない。

 オルトバルトに人質にされていた女給仕は自力でジャックらのいる二階廊下へたどり着き、その場でへたり込み前掛けで顔を覆いながらすすり泣きしている。

 ――第八条第三項【計測せよ】

 ジャックは自分のカンが本当なのかどうか確かめるべく計測条文を適用する。

 はじき出された数値はS4.1。彼の予想とドンピシャだった。

「あー、稀にあるよね召喚事故。召喚者のSより上回る海妖呼び寄せちゃうやつ」

 ヘルンは額当てを押さえたままただ口をぱくぱくさせている。本人としても想定以上の召喚だったらしい。彼の情けない面構えを見て、ジャックは一周回って冷静になるほかなかった。

 ――第八条第四項【交信せよ】

 聖法全書のとある頁が開く。「アルバート・シャイドマン」と書かれており、中から若い男の声が再生される。

「ストライド? お前今どこだ? 何やっている?」

「隊長。今エントランスホールにいます。廊下に飾ってある黒髪黒服の貴婦人の肖像画が転移装置(ポータル)の役割になっていて」

「……あれは誰かが転移するか、一定時間の経過で転移装置になる絵画がランダムに変更する……」

 ヘルンが口を挟んできた内容にジャックもやや狼狽する。

「今の声はヘルンか? ストライド、今、そちらの状況は」

「はい、ヘルンが海妖の召喚儀式を展開し、大型の海妖が一体出現しました。S4.1です」

「4.1? ヘルンはS2.0のはず……いや。とにかくすぐ応援に向かう。ヘルンに出入り口の隠蔽を解除してもらえるか」

 ジャックは本からヘルンに視線を移動する。

「おい、あんたあの、部屋の出入り口隠蔽する魔術今すぐ解除しろ。仲間が今ここにいるから」

「バカ言うな! お前がさっき壊した魔石はな! 魔術の展開速度を引き上げる効果もあったんだよ! 空間を歪曲してるから簡単に解除もできない! 時間がかかるっていうのに、しかもこんな状況で…………」

 憤慨する魔道士を前に、ジャックは目を泳がせる。

「……ストライド、なんとなく事情は分かった。今こちらでも外部から応援を呼んでヘルンが仕掛けた魔術の解除に当たっているところだ。もうしばらくかかる。

 ――それまでもつか?」

 蛇型海妖の紅い目がジャックを捕えた。獲物認定されたらしい。

「やります」

 もたせます、ではなく、ジャックはそう応えた。シャイドマンも若き審官の無謀とも言える発言に異を唱えることなく、「任せる」と言って交信を終了した。

 大蛇が中央の大階段へ向かおうとしている。廊下は大蛇がギリギリ通れるくらいの幅はある。

 ヘルンが役に立ちそうにない以上、今あの海妖と戦えるのはジャックしかいない。

 ジャックは腰ベルトを装着し直し、ポケットから白いグローブを装着する。ただのグローブではなく防衛部執行隊用の特別製だが、彼は「ここ一番」だと思った時にしかこれをつけないと決めている。

 ――第三十二条条第一項【復号せよ】

 通常開書では適用不能、「特別開書」の許可を必要とする、強力な武器群の召喚条文。

 ジャックは聖法全書に腕を突っ込み、柄を握る。中からゆらりと、黒い長槍が現われた。


 ありとあらゆる呪文を「条文」として落とし込み、口頭省略で大部分の魔術を行使できる裁きの書物。神秘の書物。深淵を内包する書物。

 そして根源の末梢としての聖なる書物。

 それだけでは、この聖書の全容を語りきることはできない。


 体表のぬるつきで鉄鎖による拘束は困難だろう。ジャックは戦術プランを固めるとホール中の柱・二階廊下欄干に鉄鎖を張り巡らせ、上から下まで外縁を作る。更に聖法全書から延々と、猛スピードで数々と同時に排出される鉄鎖を立体的な網のように張り巡らせる。

 最後には網の中心に海妖が閉じ込められ、銀のジャングルが完成した。

 新たに鎖を聖書から射出して、天井近くに張った網へと縛り付ける。ジャックはゼンマイバネの要領で天井に伸ばした鎖を本の中に吸い込みながら素早く上へと吊り上げられる。

 上まで行ったら適当な鎖を足場に、長さに余裕を持たせてから鉄鎖を本から切り離して自分自身の腰元に固く繋ぐ。バンジージャンプ用ロープの完成である。

 高所恐怖症にはたまらない光景だろう――ジャックはこんな状況下でも呑気に考えた。

 腹ばいの蛇型海妖はジャックを見上げる。蛇らしく、獲物を狙う肉食動物がごとくジャックを虎視眈々と狙っている。

 海妖はその頭を、顎をあんぐりと上げながらジャックへと鎌首をもたげる。シャアアア――、と巨体に擦りつけられた鉄鎖の金属音が鳴り響かせながら、ジャックを喰らわんと猛スピードで迫り来る。

 何故だろう。もうすぐそこまで海妖が襲いかかるというのに、彼の心は揺れることのない水面のように静かで、濁りのない水のように澄み渡っている。恐怖もなければ高揚感もない。

 ジャックの意思に従い、聖書は留め具で閉じられ、更に特殊個体の海妖の皮で作られた縛帯(バインド・バンド)が本の表紙を彼の手の甲に這わせるよう自動でスライドした。

 すでに迎撃の準備は整っている。

 聖書の天から大きな黒い鉄杭――【塵造物・鉄杭(パイル)】が放たれた。六本中二本が海妖の目玉に突き刺さる。海妖は目を潰され勢いを削がれるも、視覚以外の感覚を頼りに再度ジャックに喰らいつかんとする。

 ジャックは握っていた投擲槍を口でくわえ、留め具がバチンと外された聖書から新たな武器を二本取り出し、自ら敵の口内へと飛び込んだ。

 その両手にはグリップが短い、両端に黒き刃が光る双頭刃(ツインブレード)が一本ずつ握られ。

 大蛇がジャックを喰らう寸前、突如グリップが伸びた。

 大蛇は口を閉ざすことも叶わなくなる。二本の【塵造物・双頭刃】が大蛇の顎を強制的に開かせていた。

 ジャックは再度大蛇の口内に鉄杭を放つ。くわえた投擲槍を片手で握ってから杭を足場代わりに大蛇の中へ降り立った。

 ここが勝負の決め所。

 蛇の体躯に合わせ、【塵造物・投擲槍(ジャベリン)】の柄がジャックの手の中で太くなる。そしてジャックの身長以上になったソレを高く振りかぶり――――。

「第十四条第一項――――【過速せよ】!」

 ジャックの号令とともに、投擲槍が真っ直ぐ下へ、強く猛々しく、一切の抵抗を無効化し、その勢いは削がれることなく大蛇の喉を貫き、内臓を貫き、尾をも貫いた。

 全身を聖なる槍で貫かれた大蛇はもはや己の体を保てなくなり、銀のジャングルにぶつかりながらたゆたう水面へと沈んでいった。

 ジャックは腰に繋がれた鉄鎖で宙に浮きながら大蛇を眺める。

 まだ息はある。

 が、ジャックは肌で大蛇のSが3.8、2.4、1.3、そして0.0へと推移していくのを感じた。

 とどめを刺さずとも、あの大蛇が猛威を振るうことは、もうない。

 

 第二のマナ「聖塵」の発見で、エルザムは海妖に対抗する力を手に入れた。

 塵造物――――正式名称、「聖塵構造物」。

 

 白い小鳥――予め聖法全書から引きちぎり隠しておいた紙片で折られた鳩が、自分の肩元で羽を休めていたことにジャックは気づいた。

 銀のジャングルはバラバラと一本ずつ切断される。大蛇が活動を停止しても一階に溜まったままの水面に、鉄鎖がジャラジャラと音を立てて浸かっていく。大蛇自身から流れ出た血液はマーブル状にゆるく溶けていた。

 ジャックは「よっ」と器用に振り子運動で二階廊下に着地して。

「ッッッッしゃァッッッッッッッ!!!! ジャック・ストライド大ッ勝ォッッ痛(ツ)ァッ!!!!」

 誰も聞いてない勝利の雄叫びを上げるジャックの水を差すように、折鳩が嘴でつんつんと彼の頬をつついていた。

 折鳩はジャックの肩に載ったまま、ぴっ、と二階廊下のとある方向へ紙の羽を伸ばす。

 大蛇と戦うまでは存在しなかった扉が、廊下の壁に出現していた。

 ヘルンと女給仕がいつのまにか忽然と消え去っていた。


「――――助けてやったのに逃げんなゴルァーーーーッ!!」

 遠くから聞こえる男の怒号。

 怒りの形相の、しかもS4.1の海妖を一人で倒し、おまけに全身生臭い審官に「逃げるな」と言われて歩みを止める魔道犯がどこにいるだろうか。当然ヘルンもまた歩みを止めない魔道犯の一人である。

 女給仕の手を引っ張って走るヘルンとジャックの追いかけっこがスタートしていた。

 せっかく中S(ミドルスケール)の海妖を呼び出して時間稼ぎを図ったというのに速い。想定よりも倒すのが速すぎる。ヘルンはジャックの審官としての評価を上方修正するしかなかった。

 ヘルンが振り向き、ジャックは彼の額に注目した。額当てがなくなって、皮膚に直接張り付いているものがある。腕輪に嵌められていたものと比較すると色が濃く透明度も高い、砕けた紫色の魔石だった。

 海妖召喚前にジャックが放った剣鎖の切先で徐々にヒビが入り、修復が叶わず割れたまま逃走するしかなかった。

「アッッ、お前S4.5!? さっきの海妖より強っ……よくもSのサバ読みしやがってェーー! どーりで解除が早ェと思ったあーっ! あの海妖もマグレじゃなくてワザトだろお前殺す気かァーーーッッッ!!」

 人間のマナ・スケールの平均値は約0.5程度と言われる。S4.5となると人間としてはかなり高めな方。下手な海妖より強い。

 しかし審官相手となると分が悪い。彼らは聖法全書のおかげで魔道士よりも割よく迅速に魔術を発動できる。

 ジャックは怒りにまかせてヘルンに向けて聖書の天から鉄鎖を発射する。真っ直ぐと迫り来る鉄鎖を前に、ヘルンは連れ出した女給仕を後ろに突き飛ばした。

「! クソッ」

 二人まとめて捕えるはずが、ジャックは女給仕だけを拘束する結果に終わった。女給仕は廊下に頭を強く打ち付け、その場から動けなくなる。

 ヘルンは全速で走りながら向かう先は、裏ルートで入手した緊急用の転移装置(ポータル)がある部屋だ。

 扉を開くというアクション一つで即発動できる汎用性の代償として、使用回数は一回限りと高価な使い捨て魔道具である。万一自身の空間転移魔術を解除しなければならない事態に迫られた場合の保険として用意した。

 誤って誰かがこの転移装置のある部屋を開かないよう、ここだけは厳重に隠蔽を施さなければならなかった。万一オルトバルトらが捕まっても、自分だけは逃げられるようにするために。

 カモフラージュとして彼は転移装置とは無関係の部屋も複数隠蔽した。

 ヘルンは転移装置の部屋の前にたどり着く。ジャックは倒れた女給仕の意識確認のためにヘルンから一瞬視線を外している。

 あの男は驚くだろう。次に顔を上げた時、自分の姿が忽然と消えているのだから。

 ギリギリで間に合ったという安堵の感情も込みでヘルンはほくそ笑む。

 さあ、次に瞬きをした時、そこはもうオルトバルト邸とは遠い街の中なのだ。

 ヘルンは心の中で勝利宣言し、ドアノブを握り、手首を回し、そのまま右腕を後ろに引くだけ。それだけで全てが終わる。

 全てが終わろうとする瞬間、ヘルンはドアノブを引くにしてはやけに手応えが軽いと違和感を覚えた。

 瞬きをする。しかし設定した転移先の景色は現われない。ドアノブは手の中にあるのに、なぜか扉が目の前にあって――――。

 

「こちらシャイドマン。うん、問題ない、マイケル・ヘルンを拘束した。ストライドもここにいる。うん、こっちに来てくれ」

 声の主がヘルンを縛った鎖を手でたぐり寄せながら、本に向かって事務的にそう告げた。

 鎖で巻き巻きにされたヘルンが床の上でずりずりと動いている。中Sの魔道士が完全に不意打ちで拘束されてしまった。ヘルンの身体の側に、クッパリと綺麗に切断されたドアノブが転がっていた。

 ジャックは自分が放った鎖に捕まってしまった女給仕を無視するわけにはいかず、奥から白コートの金髪男が見えたため、やむなくヘルンの確保を彼に譲った。

 女給仕は一瞬気を失っていただけのようで、目を覚ました途端上から様子を伺っていたジャックの視線に気づき、横たわっていた彼女は慌てて上半身を起こす。再び俯き、前掛けで顔を隠して小さく鼻を啜った。

「今まで怖い思いをしましたね。でも、もう安心ですよ」

 ジャックが紳士らしく手を差し伸べるが、彼女は俯いたまま起きようとはしない。仕方なく彼女の腰を掴んで無理矢理立たせる。

「!」

「だから、もう安心だって言ってる――――」

 徐々に声色を落とすジャックに女給仕の背筋が凍る。固まったままでいる女に対しジャックは無理矢理スカートの中を強引にめくり上げる。

「――だろ」

 女給仕のスカートの中にジャックの右の膝が潜り込むと、彼女の踵から足裏が床の上へ浮き始める。

 ドッ!と女の身体の一部から鈍い音が聞こえた。

「………………~~~~~~~~~ッッッッッッ!!!!!!」

 とある器官の痛みの許容値(キャパシティ)がオーバーしてしまったのか、女給仕は声なき声を上げ、悶絶の表情のまま気を失ってしまった。

 ジャックは倒れた女の髪の毛を乱暴に掴む。髪の毛を上に持ち上げると、女の頭も一旦つられて上がったが、すぐにゴトンと床に落ちた。

 頭髪が全て剃られていた。

「やっぱ男かよコイツ」


   ◆◆◆


「(前略)ライト・オルトバルトが仲間達と『遊び』と称して女給仕を誤って殺害後、彼女をどうすべきかで苦心した。匂いを嗅ぎつけたヘルンが自ら接触。邸宅で女給仕の死体を見つけるや否や彼らを脅迫した。以後邸宅はヘルンの潜伏場所に、エントランスホールは彼らの居住スペースとなった。

 オルトバルトらはヘルンが望むものを提供し、彼が夜中休めるよう他の者は交代制での睡眠が強いられた。亡くなった女給仕の髪でカツラを作り、仲間の一人である小柄な男の髪を剃らせ、給仕服を着用させていざという場合の人質役に仕立て上げる。

 邸宅はヘルンの海妖召喚の実験場としても使われるようになる。

 ある日を境にオルトバルトらに暗示魔術を行使、自らのコントロール下に置く。

 ヘルンは全ての使用人を邸宅に踏みこませないよう厳命したが、オルトバルトは時々造園の手入れにやってくる園丁のことを失念していた。実験中に邸宅から逃亡した小型海妖を目撃されたことにより、新聖審判への通報に繋がった。

 以上が防衛部第七執行隊がオルトバルト邸に足を踏み入れるまでの経緯となる。(後略)」

            ――――マイケル・ヘルンについての調査報告書より一部抜粋。

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