第一章

 森林地帯を蛇行する長い坂道を、大型バスが上り切った。

 車窓の外に目をやる。広い雑木林を割るように走る道路の先に、目的地が見えた。背の高いコンクリート外塀に囲まれた建物。

 あれか。

 勉強高等学校。通称:監獄高校。

 また同じ場所に戻ってきたか、という奇妙な第一印象を覚えた。さっき卒業した中学校も、ついでに言えば、勉強殿も、似たような雰囲気だったのがその要因だろう。一言で言えば、監獄である。しかし、その監獄的印象の強度は過去のそれらの比ではなかった。『収容所の外塀より高い!』で、おなじみの、あの八メートル外塀の視覚的効果だろう。

 おれは思わず武者震いした。

 面白くなってきた。相手にとって不足なしだ。

 絶対に脱獄を成功させて、おれの魔親だけでなく、あのロクでもない監獄の建設に関与した大勢の魔親たちに大恥をかかせてやる。

 その為の第一歩は、脱獄の協力者を集めることだ。別の言い方をすれば、友達作りである。

 ごくり、と生唾を飲む。

 おれは大型バスに乗り込んでからずっと、隣の席に乗り合わせた生徒に話かける隙をうかがっていた。

 隣の生徒は英単語帳を物凄い勢いで捲っていた。目は血走り、口からは絶えずボソボソと英単語がつぶやかれている。まったく話かける隙がない。とはいえ、せっかく隣の席になったのだ。この生徒が後々脱獄のキーにならないとも限らない。

「あ、あの」

 生徒がこちらを向いた。おれは会話のキッカケにする為に用意したライトノベルを見せた。『銀河帝国のおんち歌姫』。三十年以上も続く国民的ベストセラーラノベだ。去年、新刊が映画化もされた。通称『おん歌』。

「おれさ、これ好きなんだけど」

 おれたちは初対面である。普通なら、簡単な自己紹介などから始めるのが筋だが、彼のような超進学校生は、そういう会話を嫌う傾向が強い。多少不自然でも、結論から入るのがマナーだった。

「どの大学の過去問題に出題された小説ですか?」

 生徒は目を細めた後、真顔で訊ねてきた。

「え? 過去問?」

「どの大学ですか?」

「あ、いや、えっとーー」

「どの大学ですか? 早く回答してください」

「いや、これ、ラノベで……だから、試験に出ない、と思う」

「受験に関係ないものを見せないでください。時間の無駄です」

「あ、ごめん」

「話しかけないでください。時間の無駄です」

「ご、ごめん」

 生徒は機械音声のように言うと、英単語学習を再開した。

 だめだったか。

 だが、彼が『おん歌』好きである可能性は高い。彼のカバンにつけられた合格祈願のお守りに、『おん歌』のヒロインであるオンチちゃんを思わせるキャラの刺繍が施されていたのだ。それから、彼の下の名前も、『おん歌』の主要キャラの名前ーーかなり珍しい名前ーーと同じだった。間違いなく、親が世代なのだろう。だとすれば、この生徒も『おん歌』好きとは言えないまでも、多少の興味を持っている可能性は高い。おれは、めげずに、質問した。

「あの、その、お守りって、オンチちゃん?」

 ガン無視。おれは生徒の周りに透明なバリアが張られたのを感じた。超進学校生の特技とも言える『超集中』を発動させたのだ。こうなると何をやってもだめだ。いまや、生徒の意識はおれたちと同じ次元にはない。

 ならば、とおれは身体を捻り、後部座席を見た。

 笑顔をつくり、後の生徒に話かけようとしたが、二人とも英単語帳を喰らうように、顔面に近づけていた。

 続いて、通路を挟んだ隣の席に座っている二人を見る。

 受験勉強していた。

 周りの席を見回す。

 全員、受験勉強をしていた。

 中には、シートに取り付けらえた小さい机を利用して、熱心に問題集を解いている生徒までいた。

 嘘だろ。まだ、おれたち入学式すら済んでいないじゃないか。

 おれが通っていた中学校も一応は『超進学』の名を冠していたが、こんなヤバい奴らは一人もいなかった。これが日本一と謳われる監獄高校なのか。おれは生徒たちの意識の高さに圧倒された。



 バスが監獄高校正門前に到着した。

 甲高い機械音が鳴り、正門スライドゲートがゆっくりと開く。

 おれは正門の警備体制を観察した。

 正門スライドゲートは二重方式。周辺には複数の監視カメラ。ゲートに併設された警備員詰所前には、五人の警備員が整列している。全員、肩に小銃をかけ、油断のない表情でおれたち新入生を睨んでいた。

 予想通り、正面ゲートからの脱獄は無理筋だろう。

 十年前に監獄高校で起きた『大脱獄事件』では、この詰所が強襲されている。その反省がしっかり活かされている気配がひしひしと伝わってきた。

 バスが敷地内の道路を進み、校舎前に停車する。

 昇降口のドアが開く。生徒が出口に向かってぞろぞろと動き出した。その僅かな間も、生徒らは隙間勉強を怠らなかった。全員、現代の二宮金次郎のごとく、大きなランドセルを背負い込み、空いた両手で単語帳を捲りながら、歩行している。おれのように、旅行用の手提げバッグを抱えている奴など皆無だ。

 校舎に入ると、まず持ち物検査が行われた。

 検査は二人がかかりで、一人が生徒の身体を、もう一人が手荷物をチェックする段取りのようだ。

 やがて、おれの番になる。 

 ボディチェックを受けていると、さっそく、手荷物担当の警備員が声を尖らせた。

「貴様。この枕はどういうつもりだ?」

「いや、僕、自分の枕じゃないと眠れなくて」

「ふん、そんな幼稚な嘘で、隠し通せると思ったか」

 枕のチャックを開け、警備員が取り出したのは、おれが持ち込もうとした、タブレット端末(ラノベと漫画とゲームが詰め込まれている)だった。監獄高校ではあらゆる娯楽用品が禁止されている。

「なんだ、貴様。中学では特待生だったのか?」

「はい」

「ふん。調子にのるなよ。中学での栄光はさっさと忘れることだ。ここは日本一の勉強高校だ。簡単に、特待生になれると思うなよ」

 おれは、「はい」と自信なさげな声を演出しつつ、カバンの底から薄いエロ漫画二冊を取り出し、警備員二名の手に押しつけた。

「あの、どうかこれで、お目溢しを」

「わかっているじゃないか」

 よし、賄賂通用した。と喜んだのも束の間。

「ふんっ!」

 警備員は薄い本を、引きちぎった。どうやら、賄賂を渡せば通過できるというのは、デマ情報だったらしい。それとも警備員によるのか。おれの検査を担当した警備員は「舐めたマネすると、ブチのめすぞ!」と警告し、次の生徒の持ち物検査に移ろった。



 持ち物検査を終えると、校舎横の学生寮エリアに案内された。

 賃貸マンションのような建物が八つ立ち並んでおり、それぞれは、一本の通路建屋により連結されている。

 監獄高校も、他の超進学高校と同じく全寮制である。全校生徒数は、千二百人。これに加えて、浪人生が三百人ほど在籍している。監獄高校では、無期限浪人生ーー志望校に合格するまで受験勉強をすることを魔親から義務付けられている生徒ーーの受け入れも積極的に行なっており、十五年もの歳月をここで過ごしている猛者もいるらしい。

 寮部屋は個室だった。

 ドアを閉め、一人になるなり、おれはベッドにダイブした。

「よぉっしゃぁああああ!」

 持ち物検査を乗り切った。バレるんじゃないかと、ヒヤヒヤだった。

 警備員たちが没収した物品はおれが用意した囮だ。

 真に持ち込みたい物はもっと厳重に隠してある。

 おれは手荷物から一冊の分厚い参考書を取り出した。超人大学の過去問題集である。聖書の八倍の大きさがあった。おれはページを開いた。中身はない。くり抜いてあるからだ。そのスペースにはスマートフォンが入っている。しかも二台。万が一の故障や、没収されたときを想定してのことだ。スマホの中身は、もちろんラノベと漫画とゲームである。『銀河帝国のおんち歌姫』もバッチリ入れておいた。

「ぐふふ……オンチちゃんは、誰にも、わたさねぇ」

 スマホの待ち受けに設定したオンチちゃんの美顔を拝み、一人ニヤつく。

 続いて、手荷物の二重底から、他のブツを取り出す。

 ロープと小型ノコギリ、ピッキング用の道具。その他、脱獄に使えそうなアイテムをいくつか詰め込んでおいた。ラノベなどより、むしろこっちを持ち込めたことを喜ぶべきだろうが、オンチちゃんのかわいさについつい後回しにしてしまった。

 さて。

 ベッド上に折り畳まれている制服に着替え、部屋のつくりを確認する。

 家具はベッドと大きめの勉強机のみ。風呂を見ると、シャワーを浴びながらでも勉強できるようにタブレット端末が壁に埋め込まれていた。トイレの壁とドアにも、同じ仕掛けがほどこされている。冷蔵庫の中をのぞくと、超進学校生にとってはお馴染みの完全栄養食スーパーグリーンと、スマートドラッグがこれでもかと詰め込まれている。まるで、SFの全体主義国家の個室のようだ。

 部屋の掃き出し窓を開け、ベランダに出る。おれの部屋は二階だ。部屋からの眺めは良好。遠くの山々が美しい。その足元に広がっている森林地帯は、八メートル外塀のせいで、まったく見えなかったが。

 ベランダの下を見る。小綺麗な中庭が整備されていた。監視カメラはなさそうだ。ロープを垂らせば、ベランダから自由に出入りできるだろう。夜にでも部屋を抜け出し、さっそく警備体制の下見をしようと思った。特に、八メートルの外塀は念入りな調査が必要だ。脱獄するには、あの壁を越える必要がある。他にうまい手があれば、話は別だが。

 チャイムが鳴った。

 キーンコーンカーンコーン、という同じみのやつだが、音量が桁違いに大きい。

 入学式を執り行うので、新入生は体育館に集合せよ、というアナウンスが流れる。おれは廊下に出た。

 ビュッ! と風を切り、何かがおれの鼻先を通り過ぎた。

 二宮金次郎(新入生)だった。

 しかも一体だけではない。広めの廊下に、英単語帳を睨みつけながら物凄い歩速で前進する二宮金次郎(新入生)の大群が、次々に通過しまくっていた。おれは轢かれないように注意しながら体育館へと向かった。



 監獄高校の一日のスケジュール(一年生前期)は以下の通りである。


○六時:点呼。自主学習。

○八時半:ホームルーム

○九時〜十二時:午前授業

○十二時〜十三時:自主学習

○十三時〜十六時 午後授業 

○十六時:全体清掃(成績優秀者は免除)

○十六時半〜十七時 ホームルーム、自主学習

○十七時〜十九時 授業 

○十九時〜二十時:自主学習

○二十時〜二十二時:授業

○二十二時〜二十三時:自主学習。または寮塾


 監獄高校に入学してから二週間が経過した。

 現在の時刻は、二十一時三十分。十限目の授業『難関大数学』の真っ最中だ。横目で周りを見ると、クラスメイト二十九名が、鬼の形相で難問に喰らい付いていた。

 鉛筆とテスト用紙の擦れる音が凄い。火花が散りそうだ。

 そんな中、

「カチャ」

 という、小さな小さなプラスチック音が、やけに大きく教室に響いた。壇上の教師が例のボタンを押したのだ。教室の扉が開く。警備員が忍者のように無音突入してきた。手には硬いゴム素材の棍棒が握られている。幅広に配置された机の間を風のように駆け抜け、目的の男子生徒の背後に達すると、

「立て!」

 と、促した。生徒は立ち上がると、無言で尻を突き出した。その尻に向かって、警備員がゴム棍棒をフルスイングする。尻が爆ぜる痛々しい音が鳴った。

 なぜ彼がこんな仕打ちを受けたのか。「うとうと」したからだ。この監獄高校では「うとうと」することすら許されない。発見され次第、尻叩きという制裁が下される。

 監獄高校に入学した最初の一週間は、それはもう酷いものだった。各教室で生徒の尻音が鳴り止まなかった。常に高い集中力を要求する授業で疲弊しきった生徒たちの尻が、午後の授業で爆ぜまくった。

「おい、貴様。何、ぼーっとしている」

 真横に数学教師がいた。ここの教師は、全員『瞬間移動』を習得している。

 おれはこの教師に目をつけられていた。自身の何らかのコンプレックスをおれに投影しているような気配があった。

「ふん。ついに、貴様にも制裁ボタンを押すときが来たらしいな」

 勝ち誇る数学教師。その右手には制裁ボタン。おれは慌ててノートを見せた。そこには現在生徒に解かせいている例題の解答が書き殴ってある。

「な、なんだと!? この問題も解いたというのか!? 20XX年の超人大学前期で実際に出題された問題の改変だぞ!?」

 信じられん、と数学教師が狼狽える。その顔からは圧倒的な敗者のオーラが漂っていた。この数学教師は一体何に負けたのだろう。おれたちは何か勝負をしていたのか。

「時間が空いたらなら、すぐに自主勉強に移行せんか!」

 普段冷静な数学教師が声を荒げる。

「次の例題を解け! ここでは一秒の怠惰も許さん!」

 教師はその後も、おれに怒鳴り散らし、気が済むと壇上に戻っていった。なんなんだよ、一体。


 

 チャイムが鳴る。これで学校の全授業は終了。

 この後は『寮塾』と呼ばれる学生寮内の塾にて、選択制夜間授業がある。一年前期の間は強制参加なので、新入生の勉強ライフはまだ終わらない。

 数学教師が退室した途端、クラスメイトたちが一斉に動き出した。全員が、まったく同じ所作で帰り支度を進めている。

 スマートドラッグを水なしで飲む。教科書をランドセルに入れる。それを背負い込み、ポケットから単語帳取り出す。二宮金次郎と化して、学生寮へ歩き出す。

 その間、たったの数分。

 話しかける隙もない。クラスメイトの中から友達(脱獄協力者)を見つけるのは相当難しそうだ。おれのクラスは、『超人大学』志望者が集められた『スーパークラス』と呼ばれるクラスだった。学年に五つ設置されており、そのなかでも特に成績優秀な者が集う『S1』と呼ばれるクラスらしい。『超大は人間を辞めないと入れない』と、よく言われるが、まさに、その言葉を体現しているような『人間を辞めた人間』たちが集合していた。

 おれは他クラスの生徒の中から、友達を探すことにした。

 すぐに学生寮に向かわず、他のクラスを見回り、友達になってくれそうな生徒を探す。今日は、上級生のクラス周辺を歩いてみた。

 さっそく、二宮金次郎になっていない生徒を見つけた。制服で二年生だとわかった。顔つきも優しそうだ。一年経って監獄高校の鬼カリキュラムにも慣れたのか、余裕のようなものを感じる。

 これはいけそうだ。

 脳内で簡単な会話シミュレーションをおこなう。新入生が言いそうな愚痴から始め、先輩にアドバイスを求めるような形で会話を進めていき、あとは自然な流れで趣味の話題に移行しよう。

「あの」

 と話しかけると、

「あん?」

 柔和な顔からは想像もつかない、イラついた返事が返ってきた。よく見ると、先輩はすごくイライラしているのがわかった。

「てめぇ、S1かよ。バカにしてんのか?」

「え? いや、そんなことは」

「つーか、てめぇ!? うわ!? 大金丸って、マジかよ!?」

 イラついた表情が一転、急に、追い詰められた小動物のような顔に変わる。

「ボクになんのようだ!? 来るんじゃねぇ! ひぃいいいい」

 先輩は物凄い速さで逃亡した。

 いつものパターンである。

 おれの苗字『大金丸』はすこぶる評判が悪い。おれの魔親と、兄姉達の蛮行のせいだった。おれの兄姉達は残虐な奴が多く、成績下位者をいじめたり、中には殺人を犯した者さえいる。この苗字のせいで、おれも奴らと同じ悪魔だと思われてしまうのだった。

 おれは一生友達などできないのではないか。

 そもそも、始まりの時点で恐れられているのだから。

 という、この二週間で反芻しまくった、か弱いお姫様思考を秒で頭の外に押しやり、すぐに友達探しを再開する。

 もう一度、一年生教室に戻り、学生寮までの最短距離を歩いた。すると、今日もいた。

 生徒の『死体』。

 もちろんそれは実際の意味の『死体』ではなく、勉強のしすぎで力尽きた生徒を揶揄する言葉だ。特に、四月は新入生の『死体』が急増する。とりわけ、寮から一年生教室までの導線上は、酷いものだった。授業を終えて寮まで帰宅する途中で力尽きた新入生らが、毎日のように倒れていた。全国に散在する貧民街の『ドラッグストリート』のようだ、と形容すれば言い過ぎになるが、雰囲気はアレに近い。

「あの、大丈夫?」

 恐る恐る、生徒の肩を揺らす。

 ビク!と、生徒の体が、電撃魔法を受けたかのように痙攣した。生徒は「ごめんなさい!」と叫んだ。おれを教師と勘違いしたのだろう。

「これ。飲む?」

 笑顔をつくり、事前に用意しておいたスーパーグリーン栄養ドリンクを生徒に渡そうとしたが、受け取ってもらえなかった。

 生徒がゾンビ化したからだ。

「あああああああああ!!!!」

 涎を撒き散らしながら殴りかかってくる。スマートドラッグ過剰摂取による、典型的副作用だった。

 今彼の目には、おれは何らかの怪物のように見えている。もはや友達をつくるどころではない。逃げるしかなかった。

「あああああああああ!!!」

 追いかけてくる。ゾンビならざるスピードだ。スマートドラッグは集中力を高めるだけでなく、肉体強化作用もある。しかも、別の場所で倒れていた他の『死体』数体にも、狂気が伝染したのか、ゾンビ化し、群れとなっておれに殺到しきた。

 たまらず、トイレの個室に籠城。ドアが激しくノックされる。トイレ内には、ゾンビたちが英語小テスト用に暗唱したらしい、英詩やら聖書の一説が、不気味な呪文のように反響し始めた。

 やはり友達ができる気がしない。

 


 五月になった。

 現在の友達(脱獄協力者)の数はゼロ。

 まさか、脱獄計画の第一段階でここまで苦戦するとは思わなかった。本当なら、今頃、脱獄仲間とともに、夜な夜な寮部屋に集合して、時々アニメの話をしながら、脱獄計画を練っているところだったのに。

 やはり、友達ができない最大の原因はおれの苗字『大金丸』にあった。皆、おれを恐れ、避けている。スマートドラッグゾンビを助ける活動を継続し、周囲に良い人アピールをしたが、「何か裏があるのではないか」と勘繰られ、変な噂話を創作され、むしろ『大金丸』のイメージは悪化した。

 そんな中、転機が訪れた。

 脱獄者が出たのだ。

 と言っても、敷地を跨ぐことすらできずに、捕らえられたようだが。

 朝のホームルームで、担任からそのことを聞いたとき、嬉しさのあまり立ち上がりそうになった。まさか同志がいたとは。その生徒とは友達になれるに違いない。

 一限目は学年集会が開かれることになった。おれたち一年生は体育館に集められた。

「おはよう。一年生諸君。本日、集まってもらったのは他でもない。注意喚起をするためだ。私が言いたいことは一つだけ、『脱走するな』。以上」

 壇上の学年主任が淡々と口にする。それで壇上を後にするのかと思ったが、「もっとも、これは毎年言っていることなのだ」と、心底うんざりしている様子で続けた。

「にもかかわらず、毎年五月は脱走を試みようとするバカが必ず出る。そこで今年は別の注意喚起方法を取ろうと思う。諸君らに、我が校唯一の部活動『ボクシング部』の入部生を紹介しよう」

 学年主任が合図を送る。体育館の壇上に、一人の女子生徒が引っ張りだされた。一年生の四百人の視線が、女子生徒に集中する。

 女子生徒は制服で二年生だと判別できた。肩から上には黒い覆いが被せられており、素顔は見えない。背後にはレスラーのような警備員がおり、女子生徒の両手を油断なく拘束している。

「さあ、自己紹介したまえ」

 学年主任が促すと、「ううっ」という、なんとも痛々しい呻きが、覆面の奥から発せられた。

「あたしは二年の……」

「もっと声を張らんかぁ!」

「あたしは、二年の大神崎陽夏です! ううっ……」

「さて、一年生諸君。言うまでもなく、こいつが脱走犯だ。こいつは、今朝方、運送トラックに紛れて脱走を試みたが、敷地を跨ぐことさえ叶わず捕まった。そのまま、ボクシング部に入部し、つい十分前に朝練習を終えたところだ。それで、どうなったか。皆で今から確認することにしよう」

 学年主任が合図を送ると、学年主任が大神崎さんの顔の覆いを取っ払った。素顔が露わになる。

 痛々しい殴打の痕跡がそこにはあった。左目上部が腫れており、目が開いていない。左鼻と口元にかけては鮮血がこびりついたままだ。応急処置すらしてもらえていないのか。まさにたった今リングを降りたばかりのボクサーの容姿をしている。しかも、傷跡のない部分から想像できる大神崎さんの顔立ちはアイドル並みに整っており、それが一層、傷の痛々しさを際立たせていた。

「ひ、ひどい……」

 おれの隣の生徒が一言。ほぼ虫の羽音に等しい声量だったが、壇上の学年主任は超人的聴覚で生徒の声をしっかり拾った。生徒を指差す。二名の警備員が、音もなく生徒に接近すると、その両脇に手を入れた。

「いやだ! ごめんなさい! 許して!」

 生徒は咄嗟に床に腰を下ろして粘ろうとするも、簡単に引き剥がされ、あっという間に、体育裏に連行されていく。

 冷や汗が噴き出る。おれも「ひでぇ」と口に出してしまったような気がしたのだ。

「さて、大神崎陽夏さん。今の気持ちをお聞かせ願おうか」

「うう……こんなの酷すぎます」

「そうか、酷すぎるか。今回ばかりは、さすがの貴様でもこたえたようだな。無理もない。散々痛ぶられた上に、みんなの晒し者になっているのだからな。前を見たまえ、みんな見ているぞ。君の汚い顔面を」

「酷すぎます。あたし、女の子ですよ?」

「脱走者に男も女も関係ない」

 学年主任が集った一年生に向かって声を張る。

「脱走者は問答無用でボクシング部に入部だ。我が部の顧問はプロライセンスを所有している。したがって、形だけのボクシング部ではない。本格的指導をもって脱獄者を出迎える用意がある」

「あたし……泣いちゃいそう……うう……うぇ〜ん!」

 その泣き声はキッズアニメの幼女が発するような、どこか作り物じみていて、現実感に乏しいものだった。まるで嘘泣きのようだ。しかし、おれははっきりと見た。大神崎さんの頬を流れる涙の筋を。

 殺してぇ。

 下腹あたりに、黒い激情が渦巻く。

 あの学年主任、今すぐ殺してぇ。

 学年主任は、涙を流す大神崎さんを、ニタニタと満足げに眺めていた。

 殺意で自我がぶっ飛びそうになる。おれはいつものようになんとか自制し、「それはダメだ」と頭の中で言い聞かせた。

 人殺しはだめだ。

 それでは魔親や兄達と同類になる。

 殴ろう。

 あいつをぶん殴ろう。

 おれは学年主任に同害報復することを決めた。

 今からあいつを、三発ぶん殴りに行く。ああいうバカは自分が同じ目に合わないと、人の痛みがわからないのだ。

 このときばかりは監獄高校に来てよかったと心底思った。ここでは教師を殴っても退学にならない。人を殺しても退学にならない。というより、絶対に退学できない。

 おれが生徒の列を抜けようとしたとき、 

「あははははははは!」

 底抜けに明るい高笑いが壇上で起こった。

 突然、大神崎さんが笑い出したのだ。

「うぇ〜ん、だって?! あははははははは! あたし演技下手すぎでしょ!」

 おれは大神崎さんの豹変ぶりに、度肝を抜かれ、列を抜け出すことができなかった。彼女の隣にいる学年主任はおれ以上驚きを見せた。

「き、貴様!?」

 まるで亡霊と対面しているかのような驚愕が、深い皺となり、口、眉間、額に出現している。

「あれだけの仕打ちを受けて、まだーー」

「ていうか、せんせ」と、大神崎さんがかわいい猫撫で声で、学年主任に笑いかける。

「ボクシング部紹介するなら、ちゃーんと紹介しなきゃダメじゃないですかぁ。このままじゃ、新入生の子たち、誤解しちゃいますよぉ」

 新入生のみんなー、と大神崎さんは保育園の先生のようにおれたちに手をあげた。

「あたし、ボコボコにされてるけどー、顧問の先生達は、この比じゃないからね?」

 しーん、と静かな体育館がより一層静かになった気がした。

「あたしって見た目はお嬢様系アイドルっぽいけど、ちょー喧嘩強くてね。さっき、顧問の先生を二人ノックアウトしちゃいました〜。てへ」

 言い終えると同時に、大神崎さんは壇上のステージを両手でぶっ叩いた。バン!という打音が『新入生よ、目を覚ませ!』と言わんばかりに鳴り響く。

「おい、新入生! 君たちに一つ問いたい! 君たちは一度でも自分の人生を生きたことがあるか!?」

「貴様! 黙らんか!」

 学年主任と警備員が、大神崎さんの口を押さえようとしと手をのばす。捕まらない。さすがは『顧問を二人ノックアウトした』だけのことはある。細身の体格からは想像できないパワーで、警備員の束縛を振り払いながら、さらにはおれたちに叫ぶ。

「ないだろう!? 子供の頃からずっと魔親の言いなり! 勉強ばっかやらされて、自分の意志で行動したことなど一回もない! 君たちにはやりたいことはないのか! あたしはあるよ! たくさんある! あたしはアニメが大好きだ! 愛しているといっていい! それで、いつか映画館で『銀河帝国のおんち歌姫』の劇場版をみたいと考えている! オンチちゃんのヘタかわな歌声を映画館で聴いて、萌え尽きたいのだ! それから、海でくたくたになるまで泳ぎまくって、焚き火の前でカップヌードルシーフード味を食べて、星の下で寝るのだ!」

 大神崎さんが止まらない。自分の欲求を連呼していく。たしかにどれもくだらないと言えばくだらないが、この監獄高校に囚われた生徒にとっては夢のような話だった。

「君たちは魔親の操り人形だ!」

 いつのまにか、先輩が一年生を煽り始めていた。

「どいつもこいつも人形みたいな面しやがって! キモいんだよ! 悔しかったら、何か言い返してみろ! どうした!? ビンタが怖いのか! ほんっと、お前ら、情けないなぁ! 少しは人間になれよ!」

 ここで、一人の生徒が静かにブチギレた。

「貴方、ムカつきますね」

 絶対に怒らせてはいけない要注意人物、大佐渡怪人だ。彼はおれの兄達と同類の人間だった。中学生のとき、殺傷事件を三回起こしている。それでも、少年院行きにならず、ここにいるのは、彼の親もまた、上層階級に属する魔親だから。都合が悪いことは全てなかったことにできる。一年の誰もが、いや、全校生徒が彼を恐れていた。

「貴方、殺しますよ」

「殺す? え? は? うわぁ〜、何? 君、怖いんですけど」

 大神崎さんのテンションがガクリと落ちる。

 大佐渡が言う『殺しますよ』はマジだった。人を殺したことがある奴の言葉は重みが違う。

「いますぐ前言を撤回しなさい。殺しますよ」

 大佐渡が言い切る。その右手にはいつのまにか、銀色のものが握られていた。手品かよ、とツッコミたくなる。折り畳み式のナイフだった。どうやって持ち物検査を掻い潜ったのか。今にも壇上に上がりそうな動きをみせたところで、警備員五名と教師一名が大佐渡に近づいた。

「抵抗はやめなさい」

 と教師が、渋い声で諭す。大佐渡は、ナイフを手元で素早く回し、射るような視線で警備員らを睨んだ。たったそれだけで、六名の動きがピタリと止まる。まるで、拘束魔法にでもかけらたかのようだ。

 ナイフを持つ大佐渡の右手が動いた。ナイフが矢のように飛ぶ。それは「抵抗はやめなさい」と諭した教師の胸に、突き刺さった。教師が倒れる。

「あなた、たしか下層出身の教師でしたよね? ボクに命令しないでください。バカがうつります」

 ここで、ようやく警備員らが動き出した。

 五人がかりで、大佐渡を組み伏せる。

 大佐渡は警備員に両腕をがっちりロックされ、体育館裏へと連行されはじめた。刺された教師もタンカで、保健室へと運ばれていく。

 血生臭い刺傷事件が起きたのにもかかわらず、他の超進学校生は一声も発しなかった。まるで、命令を待つアンドロイドのように、その場に整列している。

 やはり、大佐渡はヤバい。

 噂通りだった。

 今のナイフ捌き。只者ではない。もしやあれが、大佐渡家に伝わる『暗殺術』なのだろうか。あんな風にナイフを投げられたら、おれですら避けられるかどうか怪しい。

 ここで、大神崎さんが叫んだ。

「この人殺し!」

 正気かよ!? と、おれは壇上を見る。あとで、大佐渡に復讐されるとか、考えないのか。

「先生に謝れ! お前は、最低の人間だ! 人間のクズだ!」

「女、今から、貴方を殺します」

 大佐渡がキレた。二本目のナイフを懐から取り出すような動作をみせたが、警備員の束縛は強かった。大佐渡はまったく身動きできず、仕舞いには、その場でバタバタと脚を空回りさせ、小学生のように悪口を吐き始める。

「そこから、下りてこい女! この負け犬女が! ブス! 死ね!」

 さらに他の生徒にも同意を求めた。

「君たちはどうですか!? ボクと同意見ですか!? 同意見ですよね?! 負け犬女! ブス! 死ね! ですよね!!!」

 大佐渡の声とともに、アンドロイドのように静止していた生徒らが、急に動き始めた。肩から上だけを大佐渡の方に向ける。その動作は人間味がなく、不気味だった。

「そうです!」

「負け犬女! ブス! です!」

「ブス! ブス! ブス!」

 狂気のブスコールがはじまった。

 まず大佐渡の所属するクラスが、やがて、あまり大佐渡とは関わりのないはずの他クラスの生徒までもが「ブース! ブース!」と、叫び始める。万が一にでも大佐渡に目をつけられることはあってはならないと、皆、たちまちのうちに周りに同化していった。

「「「ブース! ブース! ブース!」」」

 それにしても、なんと不気味なブスコールだろう。これだけの人間が同じ単語を叫んでいるのに、感情が感じられない。バグったAI音声の集合体のようだ。

 側壁に整列していた他の警備員と教師らが、騒動の鎮圧に動き始める。「黙れ! 黙らんか!」と怒鳴りつつ、それぞれの位置から近い場所にいる生徒を、手当たり次第に制圧していったが、生徒らはまったく口を閉ざす気配がない。大佐渡による同調圧力は強大だった。生徒たちは、教師に逆らえばビンタで済むが、大佐渡に逆らえば刺されかねないから、彼に従う、というような、理性的選択すらしていないように思えた。ただ、大佐渡の意思に染まり、その意思のままに動く、完全なる自動人形と化している。

 おれはこの状況を肯定的に捉えた。

 どうやら友達をつくる絶好のチャンスが到来したらしい。

 おれはブスコールを傍観しながら、警備員に連行され始め大佐渡が、おれの付近に通りかかるのを待った。ここぞというタイミングで一言。

「いや、大神崎さん、めっちゃ、かわいいだろ」

 普通の人間なら聞こえるはずもない、独り言だが、大佐渡は学年主任以上の超人的聴覚をもって、しっかりおれの所感を耳に入れてくれた。

「君ィ!!!」と、甲高い声でおれを指差す。

「大金丸君! 今、なんて言ったのです!?」

「いや、だからーー」

 おれは大きく息を吸い込み、思いっきり叫んだ。

「大神崎さん! 超かわいい〜!!!」

 ブスコールが一瞬で静まる。それから、おれは大佐渡に笑いかけた。

「って、言ったんだよ。聞こえちゃった?」 

「大金丸君! 貴方! 殺しますよ!?」

 脅し文句とともに、大佐渡から殺気が放たれた。ガチ殺気だった。兄達との付き合いで、こういうのには慣れているはずのおれですら少しビビった。何か黒い光のオーラが見えた。それは瞬く間に体育館一杯に伝搬し、さっきの刺殺事件で動じなかった無感情な超進学校生たちですら、「ああっ」と声を漏らしたほどだった。

 皆の注目が大佐渡とおれに集まる。

 今や全ての状況は整った。

 大勢の生徒が大神崎さんに敵意を向けてる中で、その味方をすれば友達になってくれるはずだ。

 完璧な計画。

 おれは壇上の大神崎さんに向き合う。

「大神崎先輩! おれ、先輩のことがーー」

 友達になってください。と言うつもりだった。

 実際に、おれの口から出たのは違う言葉だった。

「好きです!」 

 しーん。

 体育館が真空になったような気がした。 バクバクという自分の心音すらも遠のく。

 ん? おれ、何やってんだ? まずは友達になる予定だったんじゃ?

 たしかに、おれは大神崎さんに一目惚れしていた。

 その自覚はあった。

 なので、まず友達になり、おれのことを知ってもらい、いずれ告白できればいいなぁ、とぼんやり考えていた。

 何やってんだ、おれ!?

 遅れて後悔がやってくる。どう考えても、頭がおかしいやつと思われたに決まってる。

 おれは大神崎さんの顔を見れなかった。一礼した動作のまま、フリーズし、自分の上履きのつま先に視線を固定させていた。

 永遠とも思える間。それをかき乱すように教師らの足音がおれに接近してきた。両腕を掴まれたおれは、大佐渡と仲良く、体育館裏に連行された。


 

 友達を作るはずが、告白してしまった。

 大神崎さんに向き合った途端、脱獄計画の為に友達をつくるという打算的考えが消失した。

 ただただ、自分の心の声を曝け出してしまった。

 この日の授業はまったく集中できなかった。ずっと学年集会での出来事を反芻しながら、時を過ごした。

 大神崎さんはおれのことをどう思ったのだろう?

 いつも同じ結論に行き着いた。

 大神崎さんは、おれにガチ惚れしたに違いない!

 壇上の大神崎さん視点からはおれはどんな男に見えていたか。

 周りの同調圧力に屈せず、堂々と自分の気持ちを叫んだハートのある男。殺人生徒大佐渡に歯向かってまで想いを叫んだ勇者のような男。

 大神崎さんがおれを好きにならない理由が見つからない。

 二十二時、ようやく全授業が終了したところで、おれは大神崎さんを学生寮前で待ち伏せし、改めて告白した。

 そして、振られた。

「ごめんだけど、無理」

 そこでようやく我に返った。

 今朝の体育館のおれ、イタすぎる!

 なぜ授業中のおれは、あれをイタいと認識できなかったのだろうか。すぐに原因にたどりつく。中学の時読んでかっこいいと思ったラノベ主人公をおれ自身に当てはめて、回想していたからだ。アレは、あの主人公だからこそかっこよく見えたのだし、そもそもアレがかっこいいと思わせるエピソードが積み上げられていた。おれという男を主人公に置き換えて、あのシーンを脳内再生する。そこにはラノベ主人公の行動を背伸びして真似をする陰キャのイタさが濃縮されていた。

 ハズカシィいいいいい!!!

 今すぐに爆散したい。

「君って、大金丸君だよね」

「そ、そうです。あれ、なんで?」

「そりゃ知らないほうがおかしいでしょ?」

 ですよね。

 嫌な間が空く。どうやって会話を繋ごうか頭を高速回転させるも、何も思い浮かばない。口をもごもご動かしているうちにタイムアップとなった。

「それじゃ、もう、話しかけないでよね」

 大神崎さんは、学生寮の中へと立ち去っていった。

 おれは顎に強烈なパンチをもらったときのように、変な気持ちよさを感じながら、膝から崩れ落ちた。

 なぜか、笑えた。笑いごとじゃないはずなのに、黒い笑いが込み上げてくる。

 なんだ、この感覚は?

 これが失恋のショックか? 失恋ってたしか、すぐにはショック受けないんじゃなかったか。最初は現実感がなくて、徐々に、フラれたことに気がついて、寂しさが身体に染み込んできて、ある日突然自覚し、涙する。と、師匠(エロゲーの巨乳恋愛マスター)が言っていたのは嘘だったのか。

 いや、たぶん人によるのだ。

 重い。

 ただただ重い。

 ずっしりと、身体が重く、周りの彩度が一段階下がったような気がした。

 ああ、今日はいい日だったなぁ、と突然、暗い頭に真昼の心情が蘇ってくる。授業中。勝利を確信したおれは、何度も頭の中で先輩と脳内デートをしていた。『銀河帝国のおんち歌姫アンコール』を見た後に、海で泳ぎまくりカップヌードルシーフード味を何百回と食べた。

 ああ、あのときは、よかったなぁ。

 人生で初めて、確かな幸福感を感じた。虚無主義傾向のおれが、はじめて人生が有意味だと確信することができた。おれは二次元の女の子以外は好きになることなどできないと思っていた。でも、好きになれた。そのことがなぜかたまらなく嬉しかった。

「立て、立つんだジョー」

 顔を上げる。大神崎さんがいた。

「『ジョーって誰です?』って顔だな。あたしもしらん。でも、オンチちゃんが言っていたから、同じ言葉を君にも言ってみた」

 ぶふっ!と、無表情だった大神崎さんが突然吹き出し、おれを一目惚れさせた笑顔を浮かべた。

「あははは! 君、白くなってたよ! ジョーだったよ! 実際のジョー見たことないけどねー! あははははははははは!」

「大神崎さん、あのーー」

「ごめん、大金丸君。さっきの『ごめんだけど、無理』。ウソ」

「え?」

 つまり、それって、大神崎さんはおれのことが好きってこと!? 喜びが再燃したが、すぐに抑え込む。さっきのショックも相まって、そう断定するのが物凄く怖かった。

「あの、大神崎さん?」

「うん。えっと……だから」

 目を伏せ、顔を紅潮させる大神崎さん。朝、壇上で叫んでいた雄々しい彼女とは別の姿がそこにはあった。かわいさに全振りされているというか、乙女そのもので、とにかく、目を背けたくなるほどかわいかった。なので、そんな大神崎さんから、

「イエス」

 の返事を貰ったときは、嬉しさで昇天するかと思った。きっとこの一瞬が人生におけるピークなのだろう、と確信した。

 おれは、「ど、どうも」と、返した。眼前で展開している事態が非現実すぎて、頭がぼんやりし、そうとしか言えなかった。

 大神崎さんが大仕事を終えたように、ほっとした表情を浮かべ、にこりと笑う。

「朝のアレ、とってもうれしかったよ」

「ど、どうも」

「本当に、うれしかった。久しぶりに。生きていてよかった、て思えた。あたしって、ああいう、直球に弱くてだな……今日一日中、授業どころじゃなくて、それで、おしり、めっちゃ痛かったんだからな」

「ど、どうも」

「あと、さっきは、ごめん」

「さっき?」

「せっかく、真剣に告白してくれたのに……」

 大神崎さんの表情が、まるで人を殺めたみたいな深刻なものに変わる。

「告白ってすごく勇気がいることなのに」

「いや、そんな」 

 ほんとに、ごめんね。と、もう一度深々と頭を下げてくる。

「夕方までは、君のこと信じてたんだ。でもね、夜になったら、嫌なことばっか、考えるようになっちゃって。あたしね。中三のとき、サイコパスイケメンに騙されたことがあってさ。それでちょっとばかし恋のトラウマが蘇っちゃって。しかも、君が大金丸家の人間だってさっき知ってーー」

 ここで、大神崎さんが言葉を詰まらせた。おれに気を遣ったのだろう。『大金丸』に対するその認識は至って自然であり、むしろ警戒したのは良い判断だった、とフォローしたが、あまり効果はなかった。

「あたし、どうしても怖くて。君のことを信じきることができなかった。それで、君のことを確かめてしまった。そしたら……」

「ふふっ」と、嬉しさと申し訳なさを内混ぜにしたような複雑な笑いがもれる。脳裏にジョーと化したおれの姿が思い浮かんだのだろう。

「あんな、落ち込み方する人、はじめて見たよ。本当にあたしのことが好きなんだって、すっごく伝わってきた」

 大神崎さんがかわいすぎて、時が止まる。これはやはり夢なのではないか。

「ちょ、ちょっと! 大丈夫!? 呼吸して! どうしたのよ、突然!?」

 やばい、呼吸の仕方忘れそう。

「ていうか、陽夏って呼んでよ。あたしもさ、大神崎って苗字あんまし好きじゃないし」

「は、はい」

 そう答えたのも、いきなり呼び捨てはなんとなく気が引けた。とりあえず陽夏先輩と呼ぶことする。

 そうこうしている内に寮塾開始のチャイムが鳴る。今日ほど、チャイムが憎いと思ったことはない。

「大神崎さん、いや、陽夏先輩ーー」

 チャイムに急き立てられ、おれは昼間からずっと抱いていた、今一番成し遂げたい欲望を口にした。それは、きっと、陽夏先輩の欲望でもあるはずだった。

「おれ、ここを脱獄したいです。それで先輩とデートがしたい」

「くぅ〜っつ!!!」

 体を丸め、全身を震えさせる陽夏先輩。次に彼女の顔がおれに向けられたとき、おれは奇跡を目撃した。あんなにも痛々しかった先輩の顔の傷が、癒えていたのだ。錯覚であることを確かめようとしたがそれは叶わなかった。

 陽夏先輩の頬とおれの頬が触れていた。頬だけではなく全身が触れていた。抱きつかれていた。未体験のしっとりとした温もりに、『ふぇええ』というダサい声を漏らしてしまう。

「君は奇跡だ! もう絶対離さないからっ!」 

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