第十一話: 女子高生探偵と優しい人
言わずもがな大学に立ち入るのは初めてで得も言われぬ緊張に襲われた。
門を入ってすぐ広がる中央広場を囲むように四つ棟が建っていて、奥まで石畳が続いている。
右手にはレンガ調の建物とその隣に白色の真新しい建物が、左手には四階建ての奥行きのあるオフィスビルにも似たものが建っており、正面にはアーチ状の入り口を備えた大きな建物が構えていた。
構内図によるとそれぞれ図書館と当大学の二号館、本館、そして講堂らしい。
この大学は講堂などの特別館を除き五棟からなっており、今回待ち合わせした三号館のカフェは敷地内の右手奥に構えているらしい。敷地はもちろんの事、どの建物もスケールが大きく圧倒される。
去年の夏、何校かオープンキャンパス参加の募集はあったが、進学するつもりのない俺は参加を見送っていた。今年と来年の夏も募集はあるかもしれないがやはり行く事はないだろう。
となるとこれが最初で最後の大学ツアーになる可能性が高い。
目的はカフェだけとはいえ雰囲気だけでも堪能していこう。
そんな事を思いながら、行き交う学生やサークル活動の勧誘を避けながら待ち合わせ場所へと歩く。土曜日とはいえ学生の姿が多いのは少し驚いた。
思いの外賑やかな広場を抜け、講堂を横切って右手の奥へ入っていくと一気に緑が増え自然に囲まれた。
その道を石畳に沿って歩いているうちに三号館が現れた。
自動ドアに招かれて入ると、正面に奥行きのあるお洒落なカフェ空間が広がり、右手の細い通路の先に階段とエレベーターがある。各階の教室にはそちらから行けるらしい。
カフェの内装も自然豊かに彩られており、椅子やテーブルは見たところ全て木製で、観葉植物が至る所に置かれている。落ち着きのあるいい雰囲気だ。
広さとしては軽く見積もっても百人以上滞在できるだろうか。今は六割ほど埋まっており、グループで駄弁る学生や一人で読書や勉強に勤しむ者、レポートを書いているのかパソコンに向き合う者もいれば誰かを待っているのかスマホを眺めて時間を潰す人など多くの人が席を使っていた。
その中を歩きながら
昨日聞いた特徴によると長谷海よりさらに高身長で髪は長く、よく好んでパーカーを着ているらしい。
おそらく一人でいるだろうと予想を立てて一人で滞在している学生を目で追っていく。
そのうち、ふと一番奥の四人席で本を読んでいた女子学生が顔を上げた。
澄んだ目が俺達を見据えたかと思うと、スッと立ち上がって呼びかけてきた。
「あなた達かしら、昨日虹歌ちゃんが紹介してくれたのは」
目尻の下がったその女子はヒールの入っている靴を履いているのだろうか、ほとんど俺と変わらない高さに目線がある。肩まで伸びた髪はそのまま流していて、後部は淡い紫色のパーカーについたフードに収まっている。
パーカーが悪いとは言わないし俺がファッションに疎いから思うだけなのかもしれないが、もっと大人びた服の方が似合うんじゃないかと思った。
しかしその服装をしてもなお有り余るくらいのおっとりした優しげな雰囲気を纏っている。
長谷海の言った通り、身長も相まって包容力が高いというイメージそのままだ。
「有宮玲奈さん、ですか?」
松笠が問い返すと「えぇ」と有宮玲奈は柔らかく微笑んだ。上品な落ち着いた笑みだ。
「わざわざ来てくれてありがとう」
「いえ、こちらこそお時間いただきありがとうございます。それに、その……」
「構わないわ」
言い淀んだ松笠の言葉を切って、有宮は落ち着いた笑みを浮かべる。
「とりあえず座って。あと飲み物を買ってきたらどう? 私だけあるのはなんだか申し訳ないから」
「なら俺が行こう。二人ともホットコーヒーでいいか?」
二人の首肯を受けて俺はレジカウンターへと向かった。
話がどれくらいのものになるか分からないから無難にミドルサイズを購入。トレーに乗せて席へと戻る。
その間に自己紹介は終えていたのか、松笠と宮子は名字で呼ばれていた。
有宮の正面には松笠が、横には宮子が座っている。俺はいつも通り松笠の隣に腰掛けてコーヒーを二人の前に置く。
今は有宮が好きなのか都市伝説の話で盛り上がっている。
陰謀論だとか宇宙人とか、人々の中に溶け込んでいるレプティリアンとか、そして四年ほど前東京に出没し主に男性を狙った吸血鬼の話とか。
和やかな雰囲気だが、宮子だけ笑みが引きつっているように見える。
無理もないがどうしようもない。
口を挟まず聞きに徹しているうちにその話も一段落付いたらしい、カップに一口付けた有宮が切り出した。
「それじゃあ準備も出来たところでお話しましょうか。沢峰さんと幸恵の事よね?」
「はい。ですが、あの……話をしに来た私が聞くのもなんですが、お話していただいても大丈夫なんですか?」
「ふふっ、おかしな事を聞くのね。大丈夫じゃなければこうして呼んでいないわ。なんでも遠慮無く聞いて」
「そう、ですよね。ありがとうございます。ではそうさせていただきます」
ふんわりとした笑顔を向けられ、松笠は背筋を正して問いかける。
「有宮さんは沢峰紫莉さんが自殺されてどう思われましたか?」
「……うふふっ、松笠ちゃん、本当に遠慮無いわね」
有宮はいっそ楽しそうにも見える笑みを浮かべた。
その言葉通り一切迷いも遠慮も無い問いだ。
有宮が沢峰に対して恨みを、そして殺意を抱いていたのか――つまり、もし殺せる立場にいたなら、沢峰を殺す事に肯定的だったのか。言い換えればこれはそういう問いだ。
無言で答えを待つ松笠を見つめ返すと歪んだ口元のまま、優しい声で言った。
「もちろん、スッキリしたわ」
あまりに声色とかけ離れた言葉に、一瞬俺は何を言われたのか分からなかった。
「あらっ、九尾岐君。そんなに意外かしら?」
「いえ、別にそういうわけでは……」
「うふっ、隠さなくてもいいわ。でも当然でしょう? 親友を殺したも同然の人が死んだんだもの、スッキリしない人の方がいないんじゃないかしら?」
そう俺達、主に松笠に問いかけた。
それはそうかもしれないが、それにしても落ち着き払った態度が少し怖い。
声からは一切の怒気は感じられず、感情の起伏も見えない。
ただただ優しくあるがままを口にしている、そんな様子だ。
そんな有宮を松笠は口を開かず、肯定も否定もする事無く見つめ返す。
有宮も答えを待っているのか、優しげな表情のまま言葉を紡がない松笠を眺めていた。
しかし諦めたらしい。
残念そうに眉をひそめて続けた。
「あぁそう、勘違いして欲しくないのは、今はもう沢峰さんを恨んだりはしていないの。彼女が死んだからじゃないわ。確かに幸恵が自殺した直後は強く彼女を恨んでいたし、しばらくそれは消えなかった。どうして幸恵が死ななきゃいけなかったのかって、ただ虐めを止めようとしただけの幸恵がどうして、ってね」
そう、有宮は温かみのある声で当時のことを話した。
どうやら沢峰は最初、別の人間を虐めていたらしい。それを知った蓮山が虐められていた生徒を庇った結果、今度は蓮山が標的になってしまったという。
有宮も蓮山の力になろうとしたが、正義感に溢れた蓮山は伸ばされた有宮の手を取らず、一人で戦う事を選んで負けてしまった。親友を巻き込むくらいなら一人で抱え込んで死ぬ事を選んだわけだ。
「だから最初は恨んで憎んで、呪ったわ。沢峰さんを、そして何もしなかった自分を、心の底からね」
そう話す有宮は、やはりずっと穏やかに笑っていた。まるでペットの愛犬が駆け回る姿を見る様な目で、憎しみなんて全く滲まない声で語っていた。
大切な存在を理不尽に失う辛さは俺にも分かるつもりだ。
何の前触れもなく起こった悲劇に対する怒りも、目の前で死んでいく様子をただただ見ていることしかできなかった無力感も、自分が生き残ってしまった後悔も、その全てを俺は知っている。骨の髄まで理解している。
両親を失った日に俺の中で生まれて膨れ上がった憎悪は、二人のいない生活に慣れた今でさえ、日々俺の心を蝕み、その中で膨らみ続けているのだから。
でも、だからそれを語る有宮の精神状態は分からない。
なぜそうも落ち着いて語ってしまえるのだろうか。
「でも今はもうね、思ったの。あれは仕方なかったんだって」
その答えは酷く冷たく他人事で、しかし温かみのある声で語られた。
「どういう、ことですか?」
それまで静かに見つめて聞いていた松笠も探るように口を開いた。
本来の調査内容からは離れていくが、不気味な有宮の言葉に引き込まれたのだろう。
「簡単な話よ。虐めなんてものはこの世界のどこでも起こっていて誰もが不意に巻き込まれ得るものだもの。あの時は偶然沢峰さんが虐める側になって幸恵が虐められる立場になった。不幸にも虐めの図式の中にはまってしまった、それだけなの。だから誰が悪いというものじゃない。沢峰さんも幸恵も、そして私もね」
「どうしてそんな風に割り切れるんですか? いえ違います。割り切っていいんですか?」
「良いも悪いもそういうものだもの。強いて言うのなら悪いのはこの世界、いえ、人間という存在そのもの。違うかしら?」
「……性悪説の立場なんですね、有宮さんは」
「いえ、そういうつもりはないわ。私は人間そのものが悪だとは思わないわ。ただね、人間の行動、社会的行動が悪の側面を作り出すと思っているの」
「…………」
言葉の意味を噛み砕いて飲み込もうとしているのか、松笠はニンマリとした笑顔を黙ったまま見つめた。
さっきまでは和やかな雰囲気の良い笑顔だと思っていたが、今はもう印象が百八十度変わって見える。粘り着くような宮子のそれとはまた違う、底の見えない忌避感がある。
言葉が返ってこないと判断したのか、有宮が促すように問いかけた。
「逆に聞くけど、松笠ちゃんはどうしたら虐めがなくなると思う?」
「虐めは悪ということを全ての人が理解できるような教育環境を作る事だと思います」
「うふふっ、松笠ちゃんは素直な良い子なのね。でもそれじゃいつまで経っても無くならないわ。2:6:2の法則って知っているかしら?」
「働きアリの法則、ですよね」
「うふふっ、なら話は早いわね」
松笠の返答に有宮は嬉しそうに頷いた。
まずい、俺はその法則を知らない。
横目で宮子を見ると興味深そうに二人を眺めている。どうやら分かっていそうだ。
このままだと俺だけ話について行けなくなりそうだが聞けるような雰囲気でもない。
なんとか話の流れで理解できる事を期待するしかないか。
そんな俺の内心を見透かしたのか、有宮は微笑んで言った。
「ある集団にいる個体は2:6:2の割合で性質事に分けられる。例えばあるアリの集団は働きものが全体の2割、普通程度に働くものが6割、そして全く働かないものが残りの2割で構成されているの。人間社会でも同じ事が言えるのよ。でね、九尾岐君。その中の働かない2割が消えたらどうなると思う?」
えっ、俺か。
まぁその法則を分かっていないのは俺だけみたいだから仕方ないか。
「そう、ですね……良い集団になるんじゃないですか?」
単純に考えれば怠け者が消えれば2割の働きものと6割の普通なもの達が残るのだから、集団全体の質は上がるだろう。
「だそうよ。どう、松笠ちゃん?」
この感じだと違うらしい、有宮は微笑んだまま松笠に視線を向けた。
思った通り松笠は首を横に振った。
「違うよ或斗君。そうはならないの」
「というと?」
「残った8割がまた2:6:2に自然と調整されていくの。つまりそれまで働いていたアリたちの中から怠け者が生まれるって事」
「なるほど……」
だがなんでそんな話を……と思ったが、これは人間社会にも適用されると言っていた。
つまりそれは教室内の環境にも当てはまり、働くという性質を別のものに変えたって成り立つ事になる。
例えば。
「だからね、人間が集団を作っている、つまり社会を形成している時点でどう頑張っても虐めは無くならないの。2割の苛めっ子と6割のどちらでもない人たち、そして2割の苛められっ子っていう比率が生まれて維持され続ける事になるのだから」
そういうことになる。
同じように成績が良い人の比率、スクールカーストの比率、好かれる人の比率。そういう性質もまた2:6:2に近づいていくのだろう。まるで何かに操作されているみたいに。
「幸恵は一人の苛められっ子を減らそうとした結果自分が苛められっ子になってしまった。そういう人間社会のシステムの一部として機能した結果、命を落とす事になってしまった。その証拠に幸恵がいなくなった後、沢峰はどうしたと思う?」
「……他のターゲットを見つけた、ですか?」
「ご名答、流石松笠ちゃんね」
それ以外答えようのない松笠の解答に、有宮は満足そうに頷いた。
「だからね松笠ちゃん。松笠ちゃんの理想論を実行して、もし上手く苛めっ子を減らせたとしても、またどこからか苛めっ子は出てきてしまうの。そしてどれだけ続けたところでそれの繰り返しになるだけよ。そうでしょ? どの学校だって虐めはダメだって、何年も何年も言い続けているはずだもの。なのに虐めがなくなる事はない。それが答えよ。だからこれは個々の人間が悪いわけじゃないの。人間が社会的行動をするために集団を作る事が悪いの」
有宮の言葉を吸収するかのように、松笠は一つ大きく深呼吸した。
彼女の主張を受け入れながらも落ち着こうとしているのかもしれない。
ゆっくり時間をかけて全ての息を吐ききったらしい松笠は有宮を見つめ直した。
「なら有宮さんはどうすればこの世から虐めがなくなると思いますか? わざわざ聞いてきたという事は何か意見があるんですよね?」
「んふっ、そうね」
有宮はテーブルの上で組んだ手に顎を乗せていった。
「全人類が他者とのコミュニケーションを止める。もしくは苛めっ子を片っ端から全員死刑にする、とかどうかしら?」
「…………」
流石にこれには松笠も、そして宮子も絶句した。
あまりにも過激すぎる発言に、しかし依然として柔らかい声に俺も思考がフリーズしかけた。
その温度差が気持ち悪い。
「……でも、有宮さんのご意見だとそうやって苛めっ子を排除しても結局はまた元に戻るんじゃないですか?」
「それはないわ」
「どうしてですか?」
「問題は取り除く方法よ」
「取り除く方法?」
えぇ、と有宮は優雅に頷いた。
「苛めっ子の2割を取り除く時、ただ単に卒業まで隔離するか別の学校に転校させるかという処置をしたならきっと新たな苛めっ子が生まれるでしょうね。なぜなら苛めっ子になることによるリスクが無いのだから。でも、もし全員を死刑という方法で取り除いたとしたら、苛めっ子になる事によって殺されるのだという恐怖を植え付けられていたとしたら?」
「それが抑止力として働く、だから虐めは消えていく、ということですね」
「そういうこと。よくできました」
有宮は組んでいた手を外して肘を付けたままパチパチと手を鳴らした。
明らかに馬鹿にするような言動だが、その柔らかい声と表情が素直にそう言っているように思わせてくる。
それに対して松笠は指を口元に当てて考えるように固まった。
すれ違う知らない人にさえ手を差し伸べる様な博愛精神を持つ松笠にはおそらく到底受け入れられないような考え方だろう。
それを受けた松笠は果たして何を思い、何を口にするのだろう。
十秒程度経っただろうか、指を離して有宮を見た。
「ところで最近、東京二十三区内で未成年の自殺が続いていますが、思う事はありますか?」
どうやら今までの会話と調査を絡めて話を進める事にしたようだ。
「思う事? そうね……。みんな余裕がないのかしらね」
しかし有宮は急に話題が変わったと思ったのか、不思議そうな表情を浮かべて首を傾げた。
どうしてそんな事聞くの? という心の声が聞こえてきそうだ。
でも話は変わっていない。
今起こっている事件は有宮の語っていた理想と合致しているのだから。
「自殺しているのが苛めっ子だったとしたら? もっといえば、本当は自殺じゃなくて他殺だったとしたらどう思いますか?」
「えっ、本当なの……?」
有宮は今日初めて驚いたような顔をした。
そこには困惑と怪訝、わずかな喜悦が混ざっているように見えた。
その顔に松笠が続ける。
「はい。そして殺人を犯している誰かはネット上で殺す相手を探しているようです。有宮さん、心当たりはありますか?」
問われた有宮はポカンと口を開き顎を震わせ始めた。
そして目蓋をピクピクと震わせながら口元に手を当てた。
「……嘘っ。いぇ、でも。あぁ、そう……そうだったのっ……! タイミングが良すぎると思ったわっ……! うふっ、あはっ、あははっ!」
呟くように叫ぶ有宮。その言葉の意味は分からない。
ただ嬉しそうに歪んだ目を、口から漏れる上品さを失った嘲笑を聞くに喜んでいる事だけは分かる。
しばらく堪えるように笑っていた有宮はゆっくりと言った。
「うふっ、うふふっ。凄いわね、松笠ちゃん」
「……何のことですか?」
有宮は質問に答えず「ねぇ松笠ちゃん」と問いかけた。
「呪いの掲示板っていう都市伝説を知っているかしら?」
「呪いの掲示板、ですか……?」
なんともいえないチープな名前だが、それがより一層都市伝説らしさを醸し出している。
だが、その響きから底はかとない嫌な予感がする。
有宮は頷いて続ける。
「そのサイトが出来たのは十年くらい前みたいなんだけどね、その掲示板に嫌いな人の名前を書くと、名前を書かれた人は呪われるっていうどこにでもありそうな都市伝説だったの。マイナーだから知らなくて当然だし、そこにたどり着く人なんて現実が上手くいっていない日陰者の集まりよ。でもだからそこにたどり着いた人はみんな嫌いな同級生や同僚の名前を書き込んでいたわ。本当に呪ってもらえるだなんてきっと信じていなかっただろうけどストレス発散が目的でね。そうやって知っている人なら誰もが面白半分に書き込める、肩身の狭い思いをしている人が身を寄せ合う小さな掲示板だったわ。少なくとも二年くらい前までは」
「二年くらい前まで……?」
「えぇ、その時くらいから名前を変えたの。なんだか分かる?」
「いえ、分かりません」
松笠の否定に穏やかな声で、恍惚とした表情でその名前は告げられた。
「死の掲示板」
やはりそのまま過ぎる安直な、でも分かりやすい名前だった。
冷たいものが背筋を駆け上がるのと、腹の底で苛立ちが煮えたぎるのは同時だった。
松笠はハッと目を見開き、宮子は逆に睨み付けるように細めた目を有宮に向けた。
俺はその掲示板を語った、その掲示板にたどり着いた有宮に強烈な嫌悪と怒りを覚えた。
「その掲示板に名前を書かれた人は死ぬっていうのは流石にちょっと嘘だけど……。でも、本当に効果があるのよ?」
「あるのよって、まさかっ――!?」
松笠が息を呑んで有宮を見た。
有宮は片手を頬に添えて微笑む。
「さぁ、どうかしら? でも、私が沢峰さんの名前を書いていたとしても不思議ではないんじゃないかしら?」
「それは……つまり、書いたって事ですか?」
「ふふっ、想像に任せるわ。でも、だとしても本当に書いただけかは分からないけれどね」
「…………」
松笠が誰かを睨むところを初めて見た。
十中八九、有宮は書き込んだのだろう。
いや、もしかしたらそれ以上の事をしている可能性だって否定できない。
ただ有宮は肯定も否定もせず、曖昧に誤魔化しているだけだ。
以前松笠が言っていた一番困るパターンだ。
「でも一つだけ言える事があるなら、私は死の掲示板を肯定するってこと。理由は分かるわよね?」
「……そうですね」
「ふふっ、流石松笠ちゃんね。賢い子は好きよ」
「…………」
松笠は目を閉じてゆっくり、とてもゆっくりと深呼吸を繰り返した。
丁度六回目を終えたところで目を開いて有宮を見た。もう眉間から力は抜けている。
「有宮さん、その掲示板のURL、教えてくれませんか?」
「松笠ちゃんが? 何に使うのかしら?」
「調べたいんです、死の呪いについて」
「ふぅん、そう……」
有宮はにこやかながら値踏みするような視線を松笠に向ける。
そして舐めるように眺めてから、有宮は「いいわ」と笑った。
「けど、一つだけ条件があるわ」
「なんですか?」
「間違っても私の名前を書き込むようなことはしないでね? 流石に怖いから」
「安心してください。私は他人の名前を書き込む気はありませんし、そもそも有宮さんの名前、漢字でどう書くか知りませんから」
「ふふっ、そう。それなら良かった」
「有宮さんも私の名前、書き込まないでくださいね?」
「うふふっ、大丈夫よ。私も松笠ちゃんの名前の漢字、分からないから」
松笠と有宮は真顔と笑顔を、そして連絡先を交わし、松笠は死の掲示板のURLを受け取った。
〇 〇 〇
大学を出て駅へと向かう。
その間、俺達はお通夜みたいな重い空気に包まれていた。
有宮への聞き込みは、松笠にとって大きな前進になったに違いない。
ただその分、大きなストレスを抱えたことだろう。
博愛主義と過激思想。松笠と有宮は相容れない。
そんな相手とずっと話していたのだ、色んな感情がわき上がったはずだ。
そして長谷海はそんな有宮を優しいと言っていた。
それを否定するつもりはないが、今日話した有宮から感じた優しさは穏やかな口調と雰囲気だけだった。少なくとも心の温かさのようなものはほとんど感じる事が出来なかった。
果たして長谷海は何をもって有宮を優しいと言ったのだろうか。
「……きっと有宮さんは優しい人だったんだろうね」
そんな俺の思考を読むように、松笠がポツリと呟いた。
「どうしてそう思うんだ?」
「じゃないと虐めを無くす方法なんて考えないよ」
「確かにそうだな」
言われてみればその通りだ。
他人をどうでも良いと思っているような人や冷たい人がそんな事考える事はない。
それでもあんな考え方にたどり着いたのは、優しさと言っていいのだろうか。
「でも間に合わなかった、もしくは無理だと悟った。そのせいで病んじゃったのかもしれないね」
「そうか」
そういう風に考える松笠こそ、やはり優しいのだろう。
俺は表と内心の温度差に畏怖の念を抱いている間、松笠は有宮の内側を覗き込んでいたのだ。
ただ、本当に彼女が優しいのかは俺には分からない。
そう疑ってしまう俺はやはり善人ではないのだろう。
そんな事を考えているうちに、いつの間にか東中野に到着していた。
改札を通ると松笠が「じゃあね」と手を振ってきた。
何のことか分からず見つめていると、松笠も不思議そうに見返してきた。
「えーっと……或斗君今からバイトだよね?」
「あぁ、そうだが」
「じゃあなんでこっちに来るの?」
「えっ?」
「ん?」
お互いに頭に?を浮かべて見つめ合う。
何かが噛み合っていない。
こっち、とは新宿方面のことだろう。
だがそれでいい。なぜなら俺のバイト先は新宿のバーガーショップだからだ。
なのに新宿方面の電車に乗ろうとしている事が不審な行動らしい。
どういうことか分からない。
「松笠、何か勘違いしていないか?」
「何かって?」
「それが分かればこの状況は起きていないな」
「あははっ、確かに」
松笠は一度口元に指を当ててから聞いてきた。
「確認だけど、或斗君のバイト先って中野のバーガーショップだよね?」
「いや、新宿のバーガーショップだが……どうして松笠はそんな勘違いをしていたんだ?」
「えぇっ!? どうしてって或斗君、初めて会った時そう言ってたじゃん! 嘘吐いたの!?」
「……あぁ、そういうことか」
確かに初めて会った日、バイト先の話をした。
その時に勘違いされたらしい。されたというかさせたという方が正しいが。
「別に嘘を吐いたつもりはないぞ。というかもし吐いていたら松笠の勘に看破されていただろう」
「そうだけど……いやいや、それこそ嘘だよ! バイト先がこっちの方って言ったよね!?」
「あぁ、言ったな」
「ほらっ!」
「それなら嘘にはならないぞ」
「……どういうこと?」
怪訝そうに目を細める松笠に説明してやる。
「中野にいる状態なら二十三区の東にある海見原から見て新宿は『こっちの方』になるだろ? だからだ」
「屁理屈!」
松笠は頬を膨らませて睨んできた。
髪も逆立っている。
「なんで誤魔化したの?」
「当然だろ。初対面の相手に自分のことペラペラ話す人はいない。それに加えてあの時、いきなり自殺するつもりかなんて聞かれていたんだ。新手の宗教勧誘かと思って警戒したって不思議じゃない。違うか?」
「うぅっ、それは、そうかも……」
自らの奇行を自覚したのか松笠は「ごめん」と恥ずかしそうに身体を小さくした。立ったばかりの髪が萎れていく。
しかしすぐに萎んだまま顔を上げた。
「ならあの日、本当は何していたの?」
「それは、そうだな……」
言葉を濁して視線を外す。
そうくるとは思っていたが適した答えが見つからない。
黙っていると松笠は触れるほどの距離まで身を寄せて顔を覗き込んできた。
「言えないようなことなの?」
「そうだな。説明が難しい。萌のための行為だって事で分かってくれないか?」
「ふーん……?」
数秒ほど目を細めた松笠はすぐにいつものように目を見開いて詰めてくる。
「それは本当みたいだけど、詳しく聞きかせて欲しいな」
「どうして?」
「気になるから」
そうですか。
じーっと、真剣な視線が俺を射貫いてくる。
契約に関することなのだ、松笠にだけは話すわけにはいかない。
だが答えない限り松笠はここで粘り続けるだろう。
とはいえ下手に繕っても嘘になってしまう。そんな事をしても見破られ続けて後がなくなるだけだ。
さあどうする。
「ふふっ、菊凪。そろそろ許してやってくれないか」
どうしたものかと思考を回していると不意に右腕に絡みつかれた。
宮子がニヤけた面を松笠に向ける。
「或斗だって年頃の男の子なんだ、時には外に買いに行かねばならない事だってあるのさ」
「……どういうこと?」
松笠は本気で分からないような顔をしている。
俺も宮子が何を言っているのか分からない。
フォローしようとしてくれているらしいが、表情から嫌な予感があふれ出ている。
しかし話し始めた以上聞くしかないだろう。
「或斗は今、萌と二人暮らしをしている。通販という選択肢もあるが、両親がいないとなるともし自分が受け取れなかった場合、萌に開封される恐れが出てきてしまう。開封されなくても伝票に商品名が書かれていたら何を買ったのか萌にバレてしまう恐れもある。それは萌を溺愛する或斗にとっては致命的なんだ」
具体的な内容は意図的に避けているのか、未だに核心が掴めない。
松笠もいまいちピンときていないのか「はぁ」と漏らすにとどめている。
宮子はやれやれ、といった風に首を横に振って続けた。
「あの日、買い物のために或斗はあえて夜遅くに出歩いていた。帰った時には萌が寝ていて欲しかったからね。じゃあなんのためにそうしたのか。簡単さ、萌と鉢合わせして手に持っている物が何かと追求されないためだ。なら或斗は何を買って帰ったのか。決まっているだろう?」
そこで一度言葉を切り、ニタリと俺を見てきた。
そして、そのままの表情で楽しそうにウインクを添えて。
「アダルトグッズさ。ね?」
「おい」
やりやがったな宮子。
ね? じゃないだろ。
嫌な予感はしていたが流石にこれは酷すぎる。
松笠からすればドン引きどころではない。
今後ずっと冷めた目で見られるようになりかねない。
と思ったが。
「あ、アダッ!? アダダッダッダッ!?」
めちゃくちゃ取り乱していた。
松笠は真っ赤に爆発させた顔を両手で覆って「ぴゃー!」とその場にうずくまった。もちろん髪もすごい事になっている。
松笠はゆっくりと顔を上げると、作った指の隙間から俺を見て「ぴゃー!」目が合うとまた俯いた。
なんだその反応は。
恥をかかされているのはこっちなのだが。
というか輪姦屍姦って言葉には全く反応しなかったのに、なんでこんな過剰反応するんだ。
いや、そういえば前も宮子のホテルで休むという冗談に松笠は強い反応を示していたな。
推理中は気を張って集中しているから平気なのだろうか。
待て。
そんなことはどうでもいいがよく考えればこの状況、利用した方が良いんじゃないか。
誤解を解こうとしても逆に面倒くさくなるのは目に見えている。嘘を吐くのは得策じゃない以上、多少自分の尊厳を傷つけるだけで場が収まるならこのまま誤解させておく方がいい。
心の底から気に食わないが、この宮子のフォローを謹んで受け入れよう。
五分ほどぴゃーぴゃー鳴いていた松笠はようやく落ち着いてきたらしい、ふらふら立ち上がると恥ずかしそうに俺を見て……すぐに視線を彷徨わせながら言った。
「ご、ごめんね或斗君。そうだよね、その、男の子だもんね。本当にごめん」
「あぁ、なんかこっちこそすまなかった」
俺もまた目を合わせたくなくてそっぽを向くと代わりに宮子と合った。
ニタリと笑っている。
許しがたいが今は目を瞑ることにする。
「ふふっ、じゃあスッキリした事だしそろそろ行こうか。バイトに遅れると大変だからね」
新たな誤解を生んでおいて何言ってんだお前は。
とはもちろん突っ込めないまま、俺達は気まずい空気を纏って電車に乗った。
お通夜ムードよりはましかもしれないと自分に言い聞かせながら。
〇 〇 〇
バイトと野暮用を終えて帰ると、いつも通り萌は寝ているのか家の中は俺の部屋以外真っ暗だった。
起こさないように忍び足で階段を上り部屋に入ると、ベッドに座ってニタリと笑う宮子と目が合った。
「アダルトグッズは買えたかな?」
「手ぶらなのが見えないか?」
「手ブラ?」
宮子は両手で自分の胸を覆った。
無言で睨むと「ふふっ、冗談さ」と喉の奥を鳴らした。
「でも私としては感謝して欲しいところなのだよ?」
「……あぁ、助かったよ宮子」
宮子の冗談がなければ切り抜けられなかったのは確かなのだ。気に食わなくともその事実は変わらない。
苦々しさを必死に噛みしめながら、満足そうに笑う宮子の左に座った。
すると言葉もなく、促す事もなく慣れた動きで向かい合うように膝に座ってきた。
そしていつものように抱きしめられる。
視覚も嗅覚も触覚も、全て宮子に埋め尽くされた。
「或斗。まだ続けるのかい?」
聴覚に宮子の声が優しく触れた。
胸に顔を押しつけられたまま「あぁ、そうだな」と答えると、宮子は少しくすぐったそうに身をよじった。
「そうか」
身体を離してた宮子は俺の服を脱がし、左肩だけ露出させるとそこについた何本もの傷を撫でた。優しい手触りがくすぐったい。
目を閉じると宮子の手が離れ、代わりに痛みが走った。
傷が増えた。
しかしいつもならすぐに始まる吸血される感覚がいつまでもやってこない。
どころか膝に座った宮子が動く気配すらない。
不審に思い「どうかしたのか?」と目を開けた瞬間、押し倒された。
馬乗りになった宮子が見下ろしてくる。長い髪が重力に従って垂れ、カーテンのように視界を覆った。
宮子を見上げると真っ直ぐ見下ろされていた。
「私はね、そろそろ或斗には降りて欲しいんだ」
「乗られているのは俺なんだが」
「或斗」
「冗談だ」
真剣な声で短く名前を呼ばれて、俺は目を逸らす。
真っ黒な綺麗な髪が揺れている。
「菊凪はきっともうすぐ真相に届く。もうこれ以上は危険だ。分かっているだろう?」
「かもしれないな」
「危険なだけならまだいい。けどもしもの時、辛くなるのは或斗なんだ」
「そうかもな」
「…………」
らしくない沈黙に見上げると、宮子は泣き出しそうな顔をしていた。
そんな似合わない顔を見て思わず笑ってしまう。
「何故笑うんだい? 私は真剣だよ?」
「分かっている。でも俺は大丈夫だ」
「大丈夫とは思えないから言っているんだよ、私は」
そう小さく漏らして、宮子は顔を落としてきた。
そのまま口を俺の左肩に持ってくるとようやく血を吸い始める。
舐めては吸って、吸っては舐めて。
その感覚に俺は身を委ねる。いつも通り宮子が満足するまで待ち続けた。
今日の吸血はいつもより長かった。
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