第九章
第九章
1
目を覚ますと、そこは見知らぬ部屋のベッドの上だった。
「ここはどこだ?」独り言が勝手に口から漏れ出す。
身体を起こしても、まったく知らない場所だ。
ベッドから這い出て、部屋を出る。ざっと見渡した限り、おそらく四十平方メートルほどの広さの部屋は、自分が先ほど出てきたいわゆる寝室と呼べる部屋と簡易で狭いリビングルームがある程度だった。
ここはどこなんだろうか。バタンと部屋の外側から扉の開閉する音と誰かの足音が聞こえる。慌てて部屋の扉を開け、外に出てみると、本当に見たこともないアパートの中の部屋のようだ。
しばらく目をぱちぱちとさせながら、混乱する頭をかいていたが、ようやく整理がついた。高校時代に戻って悟と二人で彩花を説得したことで、T2サービスは消滅。元々、そんなものが存在しない世界に作り変えられたのだ。正確にいえば、本来あるべき世界になったとでもいうべきだろうか。この部屋もタイムトラベルが実現しない世界の隆也の自宅なのだろう。前の世界とは異なり、この部屋の広さとなんの飾り気もない殺風景な部屋から、結婚していないどころか彼女すらいないのではないだろうか。だが、そうなることも想定のうえの計画だ。悲観などしない。
一つ気がかりがあるとするならば、身近な人の安否だ。悟や京子、彩花はどうなっただろう。ふと沙奈の顔も思い浮かべ、頭を振って切り替える。彼女のことはもう忘れようと心に決めたのだ。かなりリアルな夢だったと思うことにする。
悟は無事にタイムトラベルから帰れただろうか。帰れたのであれば、きっと今の隆也と同じように見知らぬ部屋にいるんだろう。頭ではわかっているとはいえ、この世界とは初対面のはずだ。混乱しているに違いない。すぐにでも会って話がしたい。
京子はどうだ。心配なのは、彼女以上に彼女の母親だ。春野智子さんは今どうなっただろう。彼女の母親は、沙奈とは異なり、タイムトラベル関係なしに事故現場にいたわけだから、事故に巻き込まれてしまう史実は変わらなかったかもしれない。
ポワンという音が聞こえた。先を見ると、スマートフォンが置いてある。これはチャンスだと思った。スマートフォンは個人情報の宝庫だ。自分のことがなにかわかるかもしれない。期待を胸にスマートフォンを開く。意外にもパスワードは前の世界と同じ、自分の誕生日に設定していたようだ。タイムトラベルがあってもなくても、俺という人間は前の世界でもこの世界でも俺であって、すべてが変わるわけではない。この世界で自分の行動や性格をまるっきり変える必要はないのだ。それがわかってほっとする。
それからしばらくスマートフォンを手にこの世界のこと、自分のことをリサーチした。他でもない自分自身のことなのに、次第に明らかになっていく自分の姿を客観的に見るのは新鮮な感覚だが、面白いものだった。わくわく胸を弾ませながら調べていた隆也だが、メッセージアプリを開いたとき、心がざわざわと騒ぎ立てた。そうか、そうだったのか。隆也は再びベッドに身を委ねると、胸の内から込み上げてくる熱い感情を吐き出すように叫んだ。そして心から強く信じた。正しい選択ができたのだと。
2
世界を変えてから約三ヶ月の月日が流れた。はじめは戸惑うこともあったが、この世界にも、この世界の自分にも、ある程度慣れてきた。
「笹川くん、優希ちゃんの件、どう?っていうのと、あなたやりすぎよ」
間違った道に歩んでしまいそうな三島を見て、過去の自分と重なったのか、つい声を荒げて追い返してしまった。ぽかんと口を開けて放心状態になっていた彼女を、上司の桜井さんは見逃していなかった。立ち上がった拍子に椅子が倒れたせいで、やはり注目を集めてしまっていたようだ。
「すみません。少し熱くなってしまいました」
「まあ、ああいう親御さんには拳でぶつかりあわないといけない場面もあるわよね」
桜井さんは椅子の背もたれに身を預けて腕組みをした。そんな桜井さんに、彼女の前に座っていたナンバーツーの
「でもそれ、昭和のやり方ですよ。戦争の名残りっていうか、死こそ美しい、死こそ正義みたいな」
「たしかに、今の時代にはあってない発言だったわね。ごめんなさいね」
桜井さんが謝るのを「いえいえ」と制して、報告をした。
「まだ、だいぶ大人を怖がっていますね。僕ら職員のことも、ご両親と重ねてしまうみたいで」
優希ちゃんのこちらを見る目は思っていた以上だった。本来五歳の女の子はもっと柔らかく可愛い目を向けるものではないだろうか。彼女が俺に向けたのは世界の冷たさを知ったような、警戒感を露わにする目だった。
「相当な期間に渡って育児放棄されていたんだろうね」
桜井さんはいたたまれない表情で溜息をついている。
五歳の優希ちゃんは、つい最近この児童養護施設にやってきた女の子だ。母親の三島菜々子はアルコール依存症のために酒にふけり、娘に満足のいく食事を与えなかったことで、現在は離れて暮らしている。三島は娘を返してほしいと訴えていた。こうした親は、はなから子どもがいなくなったことで負担が軽くなったと笑う者もいるが、三島のように子どもを求める者も一定数いるのは不思議な現象だ。愛情を注ぐ対象がいなくなったことから来る飢えなのだろうか。
しかし、優希ちゃんを彼女の元の生活に戻すには当分時間がかかりそうだ。三島の育児放棄癖はまだ治っていない。優希ちゃんと別に暮らしていても、それは態度からよくわかる。もっとも、彼女がちゃんと自分の症状と向き合い克服をしたとしても、優希ちゃんの精神が安定していないため、どのみち三島の元には戻せない。
彩花と同じように、虐待を受けて児童養護施設に入所した子どもは多い。年間二十万件強の相談件数が届いているのが日本の現状だ。相談に至っていないケースもあるため、実際のところは不明だが、この数だけでも、日単位に換算すると、全国で一日に約五五〇件ほどの相談が届いていることになる。恐ろしい国だと思うだろうか。しかし、これが日本の現実なのだ。
この世界の俺は、小さな広告代理店ではなく、児童養護施設で心理療法担当職員として日々、優希ちゃんのような、ネグレクトや虐待を始めとした子どものメンタルケアや、保護者との面談、必要な機関との連携を行っている。
彩花と話をした俺は、この時代に戻ったが、彩花を救いたいという気持ちと意志は、高校生時代の自分にも受け継がれ、それは親の愛情を満足に受けられない子どもを守りたいという気持ちへと移っていった。大学で心理学を専攻するのは自然な流れだった。
子どもの成長は目まぐるしい。環境一つで考え方や性格も変わってしまう。できることなら優希ちゃんをはじめとした子どもたちが安心して健やかに生活できる環境を整えてあげたい。そうして子どもたちがなに不自由なく、笑って毎日を過ごせることが目標だ。今、この仕事に強い誇りを持っている。
突然手元で電子音が鳴る。スマートフォンに入った着信音だった。今日は夕飯を食べに行くことになっているので、その相手からだろう。案の定だ。簡単に集合時間と場所を話すと、電話は切れた。
その日の十八時、都内のレストランに向かった。時間に余裕を持っていたが、店の前にはすでに親友たちが集合していた。
「遅いよ隆也」
「隆也、お疲れー」
「隆也くん、待ってたよ」
悪いと言いながら、両手を合わせる。
店内に入り、会話を弾ませながら、各々の顔を見て回った。タイムトラベルから三ヶ月の間に、俺としては初めて親睦を深めた。はじめこそ、涙を誤魔化すのに必死だったが、今はなんてことなくなった。それでも、心の奥底では皆が幸せそうに笑っているのを見て、やはりなんの後悔もない。いや、むしろあの日の思い切った自分の行動を賞賛したいとさえ思っている。それくらい意味のあることをした。
京子は家族で仲良く暮らしている。自身の子どもはもちろん、母親である春野智子さんも元気だ。なぜ彼女が自動車事故に巻き込まれなかったかというと、元々彼女が事故現場を訪れた理由が、孫即ち京子の娘が欲しがったアニメのキャラクターのグッズがそこにしか売っていなかったからだということで、そのアニメは悟の開発したT2サービスをもとに考案されたアニメだったらしい。タイムトラベルの開発そのものがなくなったこの世界では、そのアニメも存在せず、当然グッズをねだられること自体がなくなったというわけだ。これは悟から聞いた。これにはもちろん安堵したが、俺にとってのもう一つの朗報は、この自動車事故は電柱にぶつかっただけの単独事故に終わったことだ。もしかしたら、沙奈もこの世界のどこかで生きているのかもしれない。そう思うと心の底から安心した。
悟は官僚になった。彩花の件で同じように、虐待やネグレクトに苦しんでいる子どもを救いたいと思ったようだ。仕事内容は違えど、俺は心の観点から、悟は制度の観点から、深刻な問題の解決に取り組んでいる。
そしてもう一人、俺の前に座って、京子と一緒にメニューを眺めている親友、彩花はちゃんと生きている。俺と悟が現代へ帰宅した後、すぐに勇気を振り絞って、眠りから目覚めた高校生の俺と悟に事情を話したようだ。それからは早かった。京子を巻き込み、教師を巻き込み、警察を巻き込み、その日のうちに虐待を解決したというのだから驚きだ。近所の住人の証言もあり、彩花の父親は暴行容疑で次にの日の早朝には逮捕されたという。あまりのスピード解決に、十五年ぶり、いや数日ぶりに再会した彩花は、最初からもっと皆を頼ればよかった、本当にありがとうと何度も口にした。
悟、京子、彩花の四人は高校生時代のあの頃と同じように、今も幸せそうな表情を浮かべている。それがなによりも嬉しい。
「なあ、隆也もなにがいいか選んでくれよ」
「おう、なんでもいいんだけどな」
「おい、真剣に考えろよ」
「私は今日のお昼にナポリタン食べちゃったから・・・・・・」
「私もダイエット中なんだよね・・・・・・。炭水化物はやめておくか」
「あ、ワイン飲むか。せっかくだし。ポリフェノール豊富だし」
「どれくらい摂取した方がいいのかな」
「あ、ちょっと待って。調べる」
「・・・・・・」
一つ心残りがあるとするなら、代償というほどではないのかもしれないが、メニューを一つ選ぶのにも真剣に考えすぎて、なかなか決まらない、優柔不断な集団が出来上がってしまったことだ。諭されたわけではない京子までもが、他の二人と平然と渡り歩いているのだから、彼女は元々決められない性格だったのだろう。この四人でご飯を食べに行くのは今日で三回目だが、過去二回とも、店員にラストオーダーの時間を告げられると、「え、もうそんな時間!?」といった会話が繰り広げられる。それだけメニューを選ぶのに時間がかかっていれば当然だろうと思うのだが、この単純な現象に気づく者はいない。かつて研究者であった悟すらも解明できない究極に謎で馬鹿げた会話は、おそらく今日も起きるだろう。
そんな彼らを見ていつも胸がほっと暖かくなる。
それから二時間後、ちゃんと予想通りの会話が広げられ、店を出た。高校時代のあの日々と同じ、くだらない会話をしながら並んで歩く。
きっとこの先も、俺たちはずっと一緒にいるだろう。ただそれがコース料理のように、ごく自然かつ当たり前に用意された現実ではないことを常に念頭に置いておかなければならない。壊れるときは一瞬で壊れる。だから、一回一回の行動を真剣に考えて、後悔のないように生きねばならない。そうして、六十年か七十年か経って、心から思い残すことはない、いい人生だったと笑って死にたいと思う。目まぐるしく変化するこの地球という星で、どんな世界になっていても、どんな環境が自分を取り巻いていたとしても、そう思える人生でありたい。
俺はきっと大丈夫だ。もう知っているから。タイムトラベルはもう無いし、仮にできたところで、それが人を幸せにする道具とはなり得ない。幸せとはそんな道具と一瞬の行動で叶えるものではない。
「そういえば隆也、鞄は?」
突然悟に訊ねられ、自分の手元を見る。さっと血の気が引いた。
「鞄・・・・・・あ!ない!」
まったりと考え事をしていたせいで、今の今まで鞄を持っていないことに気づいていなかった。さっきの店に忘れたのだろうか。すでに五分ほど歩いてきてしまったが、これは戻らなければならない。
「ごめん、先行ってて」そう言おうとしたそのとき、
「あの!」
背中に向けられて発せられた声があった。
「これ、忘れていませんか?」
振り返ると、ぜいぜいと肩で息をしながら、膝に手をつき地に顔を向ける女性がいた。そして、彼女の手にはたしかに俺の鞄があった。
「わざわざ走ってきてくださったんですか。すみません。ありがとうございます」
お礼を言うと、「いえいえ、そんな大したことでは」と言って、息を整えた女性が顔を上げた。
肌の白い黒髪ボブの彼女は、俺の目を真っ直ぐに見て微笑んだ。
クロノスの審判 小西一誠 @issei2000918
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