血臭

古野愁人

本文

 おれは必死に手を延ばした。横たわる彼女に向かって。冷たい鉄の棒に顔を押しつけ、肩が外れるほど力をこめても、彼女の体には指先ひとつ触れることができなかった。

 手を握りさえすれば——彼女がすでに事切れていて、その四肢が胴体から切り離されていようと、構いはしない。この手に彼女を掴みさえすれば、おれは生き延びられるのだから。


 彼女の死を悼む気持ちなど、とうに忘れてしまった。残っているのは復讐心と生への執着だけだ。生きて檻から出ることができれば、やつらに復讐を果たす機会も得られるだろう。

 しかし、その復讐心さえも徐々に消え去りつつあった。おれは復讐のために生を求めているのではない。ただ死ぬのが怖いだけだ。彼女を犠牲にしても、自分だけが助かればそれで充分だ。


 冷たくなった彼女の死体に向かって、おれは何度も手を延ばした。届かないとわかっていても、そうせずにはいられなかった。

 やつらはそんなおれの姿を眺めてにたにたと笑っていた。言葉はわからなくとも、そいつらの考えていることは手に取るように理解できた。

 単純な話だ、置き換えてみればいい。檻から出ようともがく死にかけの豚を見て、あんたはなにを思う? 


 気まぐれか同情か、やつらのひとりが彼女の腕を持ち上げて檻の目前に放った。

 久しぶりに握った彼女の手は堅く、ぞっとするほど冷たかった。おれは彼女が死んだことをこのとき初めて実感した。

 おれは彼女の肌の感触を懐かしみもせず、すかさず前腕部に齧りついた。

 やつらの哄笑が聞こえたが、そんなことはどうでもいい。おれは彼女の手を言葉どおり骨までしゃぶりつくした。

 おれにはそれが必要だった。


 おれはすっかり骨だけになった彼女の手を檻の外に放り投げた。やつらは指の骨が一本欠けていることには気付いていないようだ。

 気が付くはずがない。やつらは犬畜生にも劣る低脳な人喰族なのだから。

 そして、おれはそんな人喰族どもの足下に這いつくばって命乞いをしている。今のおれよりも惨めな存在といえば、彼女くらいのものだろう。

 やつらに人としての尊厳を踏みにじられた挙句、生きたまま解体された彼女。

 彼女の肉を喰らったことで、燠のように燻っていた復讐心がふたたび身を焦がした。

 おれはやつらを許しはしない。絶対に。


 その晩、やつらは彼女を食った。おれに見せつけるでもなく、単なる食事として、どこにでもある日常の一部として彼女を消費した。

 おれは彼女の肉体が手際よく切り刻まれ、やつらの臓腑におさまっていく様をただ黙って見つめていた。

 その調子だ。喰らえ、腹いっぱいに。おまえたちの最後の晩餐を。


 闇が訪れた。月光は厚い雲に遮られ、広場の中心に置かれた焚き火は今にも夜に押しつぶされようとしている。

 やつらはいびきを立てて眠りこけていた。何人か起きている者もいるかもしれないが、この機を逃がす手はない。

 おれは隠し持っていた彼女の指の骨を使って、檻の錠をこじ開けた。続けて、音を立てないよう狭い檻から慎重にすべり出る。

 まだだ。このまま人喰族の集落を抜け出すなど造作もないが、おれには為すべきことがある。


 かたく強張った全身をほぐしつつ、やつらの許へ忍び寄る。誰でもいい、手近なやつから始末していくだけだ。少し前のおれと彼女が、やつらにとっての手近な獲物であったように。


 こいつの寝床の傍には、骨を削って作られたであろう短刀が置いてあった。あつらえ向きだ。おれは短刀を手に取り、ひといきに喉を切り裂いた。そこに感慨はない。為すべきことを為すのみだ。


 四人を仕留めたところで、おれは密かな欲情をおぼえた。噎せかえるような血の匂いを嗅ぐと、抑えがきかなくなる——幼い頃からの悪癖だ。

 いいだろう。相手は忌わしい人喰族だ。なにを構うことがある?

 欲望の赴くままに、やつらを蹂躙してやろう。

 やつらが彼女にしたように。おれがこれまでしてきたように。


 おれは五人目の喉を裂くと、そいつをうつ伏せに転がした。慰みものの性別に興味はない。男だろうが女だろうがやることは変わらないのだから。

 肛門に怒張を捻じこみ、力任せに腰を振る。死体もまたいいものだ。悲鳴を味わえないのは物足りないが。


 今まさに果てようとしたとき、後頭部で爆発が起きた。この感覚にはおぼえがある。不意打ちだ。

 おれはまたしくじった。おそらく次はないだろう。

 怒り狂った人喰族どもが、獣じみた雄叫びをあげている。了

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血臭 古野愁人 @schulz3666

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