指輪

 大盛況の蚤の市を終えて、私は打ち上げもそこそこに小さなドーナツ屋さんの古民家に帰宅した。記憶の靄が消えてから、ふわふわして足元が覚束なかった。


 帰宅するともうすっかり夜で、一日中元気だったチリくんははしゃぎ過ぎたのか、すぐに布団で寝てしまった。私は何か言いたげにずっと見つめてくる蔵面と向き合わないわけにはいかなくなった。


 寝室にチリくんを寝かせた私は、ツクモ君を誘った。


「ツクモ君、チリくん寝ちゃったから。店で夜コーヒーしようか。その……話もあるから」

「そうしよう」


 居間の窓辺近くに片膝を立てて座っていたツクモ君が、すっと立ち上がる。待ってましたと言わんばかりの動きに胸がそわそわする。ツクモ君は知っているのだ。私があの日のことを思い出したと。


 私が自分からツクモ君に「私を全部あげるから、帰って来て」と願った。


 そうして指輪のツクモ君は私の手の中に帰って来てくれた。「私をあげる」と約束したのだ。その約束を、ツクモ君はどう捉えているのか。


 もしかして、フォアグラのように美味しそうに太らせてからガブッと食べてしまうのかも、と考え始めると止まらなかった。


 二人で店へと移動して、ツクモ君はいつもの指定席に座って、私はキッチンへ入った。私は落ち着くために常に同じ味を極めるコーヒーと、元祖プレーン米粉ドーナツも揚げてしまった。


 店のオープンの日から何百回と揚げ続けたこのドーナツは私の勲章のようなものだ。作業に没頭して多少は落ち着いた。


 私はツクモ君用の金青のコーヒーカップと私のコーヒーカップ、米粉ドーナツを載せた輪花皿を二つ御盆に載せてキッチンから出た。カウンター最奥に座るツクモ君を呼び寄せる。


「ツクモ君、ゆっくり話したいからソファで食べよう?」


 私の声に反応して立ち上がるツクモ君は、私がソファ席に座るのを確認してから隣に座った。


 私は逸る気持ちを抑えてコーヒーを一口飲む。庭に面す大窓の外には満開の桜の木だ。夜にも花を散らす。私が夜桜に目を奪われているうちに、ツクモ君がコーヒーを口に運んだのが音で伝わる。


 私はコーヒーカップを静かにテーブルに置いてから、隣のツクモ君を見上げた。


「あの、私が高校生だった冬……私、川の中でツクモ君に『私を全部あげるから』って言った?」


 ツクモ君の蔵面が微かに上下に動き肯定を示した。


「結子が我と交わった日を思い出すのを待っていた」

「そっか、お待たせしちゃったね」


 私はゴクリと唾を飲んでから、恐る恐る疑問を口にする。


「全部あげるって、ツクモ君はどういう意味に取ってるの?お、美味しそうに育てた私のこと、ガブッて頭から食べるとか……」

「ブッふ」


 ツクモ君が吹き出した。思わず笑ってしまうほど、見当ハズレだったようだ。


「わ、笑わなくてもいいのに……」


 私は可笑しくて肩を震わせるツクモ君にふうと息をついて、緊張を解き放った。


「じゃあどうやって、私を全部あげたらいいの?」


 私はうーんと首を傾げる。笑いを収めたツクモ君が大きな左手を動かして、私の右手の、指輪に触れた。ツクモ君にすれば自分で自分に触るようなものだろうか。


「指輪が、どうかした?」

「我はこれの位置が、前から気に食わんかった」


 私がきょとんと見上げると、ツクモ君の長い指が私の右手から翡翠の指輪をするっと外してしまった。ツクモ君が今度は私の左手を取って、左手の薬指に指輪をはめてしまう。私は激しく瞬きを増やした。


「あの、ツクモ君は知らないかもしれないけど。この指に指輪をつけるのは人間にとって」

「永劫、共に在る証(あかし)となるのだろう?」


 まっすぐにこちらを向く漆黒の蔵面の向こう側から、ツクモ君の低い声が届く。


 どこかで怯え続けていた。両親が亡くなって空いた寂しさの穴は埋まることがなくて、人ならざるツクモ君もいつかふっと、いなくなるんじゃないかって。


「結子がもつ時間は全て、我と共に。それが結子を全てもらうということだ」


 指輪の位置が変わった。ただそれだけのことで、寂しさの穴の周りがあったかくて丸い気持ちで包まれた気がした。それってまるで、ドーナツみたい。


「それって……ずっと一緒に」


 私はふわふわしまらない顔でツクモ君に笑いかけた。私は左手の薬指にはまった指輪を優しく撫でる。


「小さなドーナツ屋さんを営んでくれるってこと?」


 ツクモ君の蔵面が微かに揺れる。蔵面の向こうで、彼が優しく微笑んだような気がした。いつか笑った顔を、見てみたいな。


「結子の望みのままに、いついつまでも我は共に在ろう」


 隣に座るツクモ君の肩にこてんと頭を寄せた。なんだか嬉しくて、こうしたくなってしまった。肩に預けた私の頭に、こてんとツクモ君の頬が乗った感触。


 一人に怯え悲しんだ苦い日々を越えて、安堵にまるく包まれた幸福に今、触れた。


 窓の外で花びらの雨を降らせる桜に、呼ばれるように視線を向ける。


 ひらりひらり、夜に薄紅の花弁が舞い落ちる。

 桜が散る。また丸く巡り、花は咲く。

 


 私は今日も小さなドーナツ屋さんのキッチンに立ち、米粉の計量から始める。カウンター最奥の指定席には肘をついたツクモ君が座っている。


 多く稼ぐわけでなく、有名になるでもなく、何者になることもない。


 好きなドーナツを作って村のみんなと笑い合い、それをツクモ君が見守り続けてくれる。これ以上何もいらない。


 私の満ち足りた、小さな暮らし。


 熱した米ぬか油に、米粉ドーナツを投入すると、ジューと美味しい音が天井の梁の上まで届く。いい香りに呼ばれて、チリくんが自宅側から飛んできた。


「ゆいこ!ドーナツ!いい匂い!」


 待ちきれないチリくんが、カウンター前の椅子の上でぴょんぴょん飛び跳ねる。


「座れ、チリ」


 ツクモ君の蔵面が微かに揺れて命令が飛び、チリくんのお尻が椅子にひっつくと、チリくんがむっと唇を突き出す。私は何度でも見たいその光景の前で、朗らかに笑ってしまう。

 

 そんな私たち家族の小さなドーナツ屋さんに、今日もお客様がやってくる。


 カラカラと引き戸が開く音。今日はどんなお客様がいらっしゃるだろう。


 私はこの小さなドーナツ屋さんで、つい素直になってしまう米粉ドーナツをご用意して、彼らが来るのを待っている。


 まーるいドーナツ、まーるいご縁。 

 私は今日もまーるいご縁を結んでいく。



 了

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