桜の下
私は和也君の店を後にして、物との別れと出会いを繰り返す蚤の市の熱気を受けながら、神社の境内の傍らにある大きな桜の木の下へと移動した。
出店者たちの裏側になる場所で人がいない。私は背中にくっつくチリくんを地面に下ろした私は、チリくんの前に膝をついて視線を合わせた。ツクモ君は桜の木にもたれて、私たちを見守っている。
「あのねチリくん」
「なーに、ゆいこ」
チリくんの頭上に薄桃色の桜の花びらが舞う。チリくんの前に膝をついた私は金青の愛らしい瞳に語り掛けた。
「チリくんの言う通り、人間は後先考えずに物をつくって、買って、愛さずに捨てるを繰り返してる。それは事実」
私はチリくんの小さな肩を抱いて、古いものを愛でるために集まった人々をその金青の瞳に見せるように向きを変えた。
「でもね、物を大事にしたいと思ってる人が、ここにはこんなにたくさんいるんだ」
チリくんは私の背中に乗って、和也君の話も聞いていた。和也君は物との付き合い方を改め、さらに物を大事にする人が増えるようにと蚤の市に中学生たちを誘って、張り切って人を集めてくれた。
「物と向き合って、変わっていく人がいることも、チリくんに知って欲しい」
「かわって……いく?」
「今とは違うようになっていくってこと」
しゃがんだ私と小さなチリくんの低い視界に桜雨が降る。桜雨の向こうには、次の持ち主と幸せにと物を送り出す人と、大切にすると約束して譲り受ける人のやり取りがいくつもあった。
「人間、変わっていく?」
「そう、そうだよチリくん」
物が大切に扱われ、笑顔が交わされる景色を瞳に映したチリくんは凛と静まっていた。私はチリくんの頭を引き寄せて、私のこめかみとチリくんのこめかみをこっつんこさせる。
「私たち人間はバカなことをするけど……変わっていくこともできるの。だから、本当に申し訳ないんだけど。良かったら長い目で見てくれないかな」
チリくんが桜のように切なく微笑み、こくりと頷いてくれた。
この蚤の市が、小さな身体の中に恨みを飼いならすチリくんの一助となってくれたら嬉しい。私は小さなチリくんを正面から見据えた。
「それにね、チリくんが私の前に現れなかったら、私は蚤の市をやろうだなんて思わなかった」
私はチリくんの頬を優しく撫でて、心を伝えた。
「私、チリくんに笑っていて欲しいの。チリくんがね、チリくんの存在が私を動かした。私を変えたんだよ?」
僕はいらない、と何度も言う彼に最も知って欲しいことがある。
「だからね。チリくんは絶対、いらない子なんかじゃない」
チリくんがぎゅっと顔をしかめて、金青の瞳の中にまんまるの雫を溜めた。次の瞬間、桜雨のようにはらはらと大粒の涙は舞った。私は彼の涙を指で拭って、チリくんに笑いかけた。
「私とツクモ君にとって、チリくんは大事な家族」
ツクモ君が彼に「チリ」と名付けた意味を、いつかはチリくんに理解してもらいたい。塵(ちり)のような恨みを積み重ねて塚となり山となり、暴走してしまわないように、小さな塵のままでいなさいという教え。
千里(ちり)のように、心は大きくありなさいという想い。
ツクモ君はチリくんが、幸せでありますようにとその名をくれたのだ。
「私たちね、チリくんとずっと一緒にいたい。チリくんに幸せでいてほしい。だから……ずっと子どものままで、小さなチリくんのままでいてね」
チリくんは私の首にぎゅうと抱きついて、ぐずぐず鼻水まで垂らして素直に泣いた。私はあったかくて小さいチリくんを抱きしめ返す。
「うん……僕も、ずっと、かぞくがいい。ぼくね、ゆいこと顔ナシ様だいすき」
「私も大好き」
私にできることは小さいけれど、チリくんが恨みを大きく育ててしまわぬように。私はできることをやる。彼が理性のない大人にならないように、こうやって彼を抱きしめて育て続けていきたい。
チリくんは涙を拭い、明るい顔でぱっと笑った。
「ゆいこ!僕、のみのいちも好きー!遊んでくる!」
「気をつけてね」
「うん!ゆいこ、だーいすきー!」
「ふふっ、ありがとう」
蚤の市を気に入ったチリくんが、市松模様の着物を翻してタープテントの上を飛び跳ねていくのを手を振って見送る。光の塊のような元気と愛らしさを弾けさせる私の可愛い家族につい顔が緩んでしまう。
ふと影が揺れて、立ち上がって顔を上げた。頭の上に、手が触れる感覚。
「どうしたの?ツクモ君」
私が首をこてんと傾げると、ツクモ君が私の頭の上で指を動かした。ツクモ君の指には桜の花びらが摘ままれている。頭に付いていた花びらを取ってくれたようだ。
「チリはきっと……我らの側でなら、塵のままいられるだろう」
ツクモ君が指で摘まんだ花びらを手放す。花びらは春風に乗って、遠くへ舞って行った。
私は花びらの行方を目で追いながら頷いた。
「うん、三人でなら、きっと」
私が花びらを見送って微笑むと、背後から私を呼ぶ声が聞こえた。春奈ちゃんの声だ。
「結子さん!おった!」
「春奈ちゃん、どうかしましたか?」
先程会えなかったからか、春奈ちゃんが探しに来てくれたようだ。私の腕に春奈ちゃんが飛びつく。
「ちょっと聞いてよ、結子さん!うちが桜ドーナツいっぱい買うてもうたから、和也買われへんかってんて」
「後で店に来てくれたら、いくらでも揚げますよ?」
「私もそう言うたんやけど、今食べたいってごねるから。ほな、私のを『全部あげるから』って言うたらな」
春奈ちゃんがその言葉を言った瞬間。
私の頭の中はその言葉だけになってしまった。
春奈ちゃんはまだ話を続けていたのに、私はそれっきり何も耳に入らなかった。「全部あげるから」の響きに頭が支配されて、靄がかかっていたような部分が急に晴れたようだった。
頭の靄が晴れた私は、まだ春奈ちゃんが私の腕にくっついているにも関わらず、隣に立つツクモ君を見上げて口をぱくぱくさせることになってしまった。
「も、もしかしてツクモ君に、私を全部あげるって……言った?」
「何言うてんの、結子さん。うちは私のを全部あげるって言うたんやで?私を全部あげるやったらその……なんかいやらしいで?」
「い、いやらしい?!」
「そら、私を全部って言うたら……体、全部やろ?」
春奈ちゃんの的確な指摘により、私の顔は桜色を通り越した赤味で火照った。ツクモ君が相変わらずの蔵面で、私を見ていた。
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