浴衣

 翌日、誰も来ない店を早々に仕舞いにした私は、自宅側、畳の寝室で姿見の前に立っていた。


「えっと、右が下だから」


 お母さんから譲り受けた浴衣を引っ張りだしてきて、夏祭りに向かう準備中だ。浴衣なんて着慣れないので、スマホで着方を検索して見ながらの作業中である。なかなか進まない。


 白い肌襦袢の上に浴衣を羽織って、不格好にも着丈を合わせた。だが、腰紐を結ぶがおはしょりが上手くいかない。もう何十分たったか。


「やっぱり浴衣やめようかな。このままじゃ間に合わない」


 レトロな壁時計を確認すると家を出る時間が迫っていた。松浪姉さんと約束した時間に遅れたくない。浴衣を諦めて腰紐を解こうとすると、手首をパシンと大きな手に掴まれた。掴んだのはツクモ君だ。私は前に立つツクモ君をきょとんと見上げた。


「ツクモ君、どうかした?一応お着替え中なんだけど……」


 ツクモ君は唐突に現れる。あやかしなので壁抜けし放題の出入り自由だが、普段ならお着替え中には寄って来ない。


「我が着せるなら諦める必要もないだろう?」


 私の前でツクモ君が畳に両膝をついた。見慣れないツクモ君の頭頂が私の腹のあたりにあって、ツクモ君の手が私の腰紐をスルッと解く。


「ちょっとツクモ君?!解いちゃダメ……!」


 私が慌てて一歩、足を後ろに引く。ツクモ君が一歩、膝を前にずらす。ツクモ君が寄ってきて離れられない。ツクモ君の蔵面に下からジッと見上げられる。


「結子、動くな。手元が狂う」


 王様の命令にふと止まると、その一瞬を見逃さずツクモ君の両手が迷いなく動き、私の腰紐をキュっと結び直す。


 私が腹あたりにあるツクモ君の頭頂部をぽかんと見つめているうちに、ツクモ君の大きな両手が、私の背中や脇腹に大胆に触れた。こそばゆくてつい身が捩れる。上背のあるツクモ君の頭が腹あたりにあると、跪かれているようで緊張した。


 ツクモ君が触れるたびにソワソワしてしまうのだが、浴衣を整えるツクモ君の両手は止まらない。


 ツクモ君が立ち上がり、私が用意していた帯を手に取り、私の体に巻き付けた。あっという間に重なる羽根が可憐な撫子結びが完成した。早かった。さすが普段から和服の愛用者である。私は鏡の中の自分を二度見する。


「わあ、すごい!綺麗に着せてくれてありがとうツクモ君!」


 翡翠色の浴衣には大柄の椿が描かれている。帯は椿と同色の紅を基調として差し色となった金が華々しい。ツクモ君が撫子結びにしてくれたのでさらに豪華だ。自分でも似合っているのではと思ってしまう出来栄えに、つい浮かれた声が出た。


 ツクモ君は鏡の横に立って浴衣の袖に両腕を突っ込んで蔵面で私を見る。


「ツクモ君どう?私の浴衣姿、可愛い?」

「……」


 無言だ。調子に乗った問いかけが恥ずかしくなる。お世辞でも頷くくらいしてくれてもいいのに。もしかしたらそんなに可愛くないけど、首を横に振るのはさすがに哀れだから不動にしてくれたのかも。これ以上掘るのは止めよう。


「な、なんてね!やっぱり答えなくていい!」


 感想は頂けなかったが、ツクモ君が私のために何かしようとしてくれるのはそれだけで嬉しい。私は笑みが溢れた。


「せっかく着せてもらったから、髪もまとめたいな!そうだ!アレもつけさせてもらっちゃお!わーもう時間ない!」


 バタバタ忙しく動き始めた私をツクモ君はずっと見つめていた。


 店に出るときは適当に一つに結んでいるだけの黒髪を高くまとめあげると、うなじに風が通り涼しかった。後れ毛をコテで軽く巻いて、磨き上げた鈴姫ちゃんの簪をまとめた髪に刺すと身支度は完成だ。


 用意に時間が押してしまったので、慌てて下駄を履いて家を出た。


「行こうツクモ君!」

 

 夏祭りが行われるのは村の中心にある日根神社だ。私は神社を目指してツクモ君とと共に早足で歩き始めた。


 小さなドーナツ屋さんの古民家は村の端だが、今日は車移動はダメだと松浪姉さんから聞いた。日根神社の近くの駐車場は今宵だけ、関係者専用となる。


 日が傾き始めた夏の蒸し暑い夜。住宅地の電柱と電柱の間に吊られた提灯にぼんやりと赤い灯が入っている。この提灯を伝って行けば神社にたどり着く。私は提灯を見上げながら歩いた。


「どれが提灯お化け三兄弟の提灯だろうね?」

「もう通り過ぎたが?」

「え?!言ってよツクモ君!」


 私はわざわざ少し戻って、提灯お化け三兄弟に手を振った。提灯お化け三兄弟は三つ並んでぼんやり灯り、自慢げに身体を揺らしていた。


「ゆいこたん!」

「祭りの夜は特別なのじゃ!」

「楽しんでくるのじゃ、ゆいこたん!」

「ありがとう、みんな」


 祭りの夜に顔なじみと交わす挨拶ひとつ、心躍るものだ。三兄弟に見送られて、細い田舎道を下駄をコロンコロン鳴らして歩いた。


 小さな村なので日常であれば夕暮れを過ぎると人気など全くなくなる。だが、今日は村のどこにでも人の気配がある。祭りの夜のざわめきに高揚する。


 誰もが提灯に導かれて、日根神社へと田舎道を歩いて向かう。私も村人たちと同じように歩いていると、簪の鈴が揺れてチリンチリンと軽やかな音を鳴らした。私が簪を頭に飾ったことを、鈴姫ちゃんが喜んでくれているといいな。そんなことを考えながら隣のツクモ君を見上げる。


 提灯の光の下でよく観察してみると、ツクモ君の衣は普段と違う色だ。


 普段は濡れた鴉のような濡羽色を着こなすツクモ君だが、今日の浴衣は金青。ツクモ君用マグカップと同じ色彩だ。ツクモ君はその色が気に入っていると伝わってきた。背が高くて立ち姿のスタイルが異様に良いツクモ君に、金青の浴衣がよく似合う。


「ツクモ君、今日はいつもと違う色の浴衣だね」


 私が話しかけると、ツクモ君は隣を歩きながら蔵面をこちらに向ける。


「かっこいい」

「……我は全ての質量を統べるものだ。質量が我を称えるのは必然」

「ふふっ、わかりにくいけど、それって褒められて嬉しいってことでいい?」


 両腕を胸の前で組んで歩くツクモ君の歩調が心なしか速くなった。照れたのかな、なんて邪推してみる。ツクモ君はお洒落しちゃうくらい夏祭りを楽しみにしていたのだ。なのに、私が浴衣をやめようとしたから着せてくれたのか。


 私が想像できないくらい長い時間を生きるツクモ君でも夏祭りは楽しみなのかと思うと和んでしまう。私は歩きながら一人でクスクス笑ってしまった。


「あの子やで、村はずれの古い平屋の。ほら、呪いのチラシ!」

「あー!余所もんの!」

「一人で笑ってるで」

「気味悪い子やなぁホンマに」


 日根神社が近づき人が増え、斜め後ろを歩く妙齢のおばさまたちのヒソヒソ話が耳に届いた。私は急いで顔を引き締める。


 私にはツクモ君が見えているからつい油断してしまった。呪いのチラシのせいで地に落ちた店の信用である。一人で笑う変な女店主の噂でさらに評判を地獄に落とすのは愚策だ。


 私は周囲に変に思われない程度の小声でツクモ君に話しかけた。


「そういえばナギ君、最近見ないね。忙しいのかな?お祭りとか好きそうだから呼んであげたら?」

「ナギは三種の神器として、夏の催事から秋の催事、新年の催事まで出払う。冬まで来れないようにしてある」

「催事って、三種の神器のお仕事的なものだよね?ツクモ君は行かなくていいの?」

「我は我のしたいことだけをする」

『こんなに偉そうで何でもできるくせに、こーんなに何にもしないあやかしを自分は他に知らないでっす!』


 ナギ君のいつかの台詞を思い出して、私は苦笑いした。


 提灯道の果てに朱色の大きな鳥居が現れた。昂然たる鳥居についた風化し始めの痕跡が、ここに立ち続けた長い時を感じさせる。


 私は日根神社と名前の入った鳥居の手前でふと立ち止まった。ヒソヒソおばさまたちは私を追い越して先に行ってしまった。


 鳥居を通る時は端っこを通りなさいとお母さんに教えられた。参道の真ん中は「神様が通る道」だからだ。私が立ち止まったことに気づいたツクモ君が鳥居の真下、鳥居の柱と柱のど真ん中で立ち止まり、私をふり返った。


「結子、離れるなよ。我から離れたら他の質量たちが祭りの夜に一斉に消えることになるぞ」

「いちいち冗談が過激だよ、ツクモ君ったら」


 お得意の王様ジョークに私は笑ってしまう。だって私が一番失礼を繰り返しているはずなのに、私にはお咎めがないのだから。ツクモ君は優しいのだ


「我は冗談など言ったことはないが」


 蔵面が夏の夜風になびき、端正な顎元がわずかに覗く。唐紅の鳥居の下で金青の衣をまとった神様が私を見つめる。堂々と参道の中央を突き進もうとするツクモ君に笑みが漏れた。彼は付喪神様なので真ん中を通るのが正解だ。


「ツクモ君は神様だもんね。そこが似合うのすごい」

「我の隣は結子のものだが?」


 私はふふっと笑いながら、私を待つツクモ君の隣に進み、鳥居をくぐった。私たちは別の生き物だけど、隣を歩けるのが嬉しかった。

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