新フレーバー

 松浪姉さんは残りのコーヒーを口に運びながら、マスカラばっちりの目で私をジッと見つめた。


「こだわってるメニューなんはわかるんやけど、さすがにもう数種類くらい違うフレーバーのドーナツを店に出してもええやろ?他のお客さんも言うてない?」


 松浪姉さんは窘めたいわけでなく、純粋に疑問だという口調だ。


「中学生の春奈ちゃんから、同じことを言われたことがあります。違う味はないのと」

「春奈ちゃんな。イマドキで感度高い子やから本質を突いてるわ」


 小さな村の中で、顔の広い松浪姉さんに名前を出せばどこの誰かはすぐに伝わる。和也君と来店する幼馴染の春奈ちゃんは、違う味も食べてみたい!オマケのドーナツもうないの?とキラキラの目で言ってくれた。


 やんわり笑ってごまかしていたが、まさか松浪姉さんからも同じことを言われるなんて。


「プレーンなドーナツがすでにめちゃ美味しいから。結子ちゃんが違うフレーバーを作ったら美味しいやろなって期待してしまうねん。実際美味いのが非売品でわかってる。むしろこっちは買わせて欲しいって話や。この需要を逃すのは商売人としてあかんで?」

「……光栄なお言葉で、すごく嬉しいんですが」


 口ごもってしまう。私は趣味で毎日新しい米粉ドーナツを作っている。趣味の段階なのでまだ売り物の域ではない。もちろん研究さえすれば新フレーバーを店に出すのは可能だ。だが私は、やりたいとは思えなかった。


「ここはシンプルな米粉ドーナツとコーヒーだけの店。お母さんと決めたんです」


 松浪姉さんの眉がハの字になった。私の眉も情けなく下がる。


「私、お母さんに約束したんです。お母さんを忘れないって。お母さんと決めたことを変えてしまうと、お母さんを忘れていくような気がして。だからこの店の何も、変えたくなくて……」


 静かな店に、私の小さな声が響いて消えた。松浪姉さんが喉をゴクリ鳴らしてからゆっくり息を整える。気を使わせたことが、わかった。松浪さんは私の肩にとんと手を置く。


「結子ちゃん、お母さんのこと大事にしてんねんな。余計なこと言うて、ごめんやで」

「いえ、そんな。私のことを心配して助言してくれているのに、わがままでごめんなさい」

「そんなんわがままとちゃうよ」


 松浪姉さんは荷物をまとめて立ち上がった。


「けどな、結子ちゃん。これだけは覚えといてや」


 松浪姉さんはまた私の肩に手を置いて、少し皺のある笑い顔を優しく向けてくれる。松浪姉さんとお母さんは同級生だ。同じ年の頃の女性がくれる柔和な笑顔に、まるでお母さんが笑いかけてくれているような錯覚が起きる。


「結子ちゃんが何をしてもな。結子ちゃんがお母さんを忘れることなんて、絶対ないんやで」


 松浪姉さんの優しい声色に、私の中の柔くて敏感なところが包まれた。鼻の奥がツンとするのをぐっと我慢する。


「コーヒーの味。お母さんが淹れたのといつも一緒や。コーヒー淹れるときに思い出すんやろ?ドーナツを作る時に、夕飯を食べる時に、暮らしの端々にお母さんとの習慣が残ってるんやろ?結子ちゃんがお母さんを忘れるわけないやん」


 松浪姉さんは俯いて声が出ない私を荒っぽく撫でた。松浪姉さんがカラッとした声で切り替える。


「明日は夏祭りや!しっかり浴衣着て私の店に遊びに来てや。約束やで!ほなな!」


 松浪姉さんは私の目に涙が溜まっていることを指摘することなく、帰って行った。

 松浪姉さんが帰宅したあと、私はふらふらとソファ席に吸い寄せられた。お母さんが選んだグリーンのソファに身を委ねる。


 お母さんがいれば、新しいフレーバー開発なんて楽しくて仕方なかったはずだ。毎日研究して試食して二人で意見を言い合って、ケンカなんかしたりして。新商品ができるまで諦めない。そんなありもしない日々を想像して、嗚咽が漏れた。

 

 ふと気がつくと店の大きな硝子窓の外、庭の桜木に夕日が差していた。


 随分長い間、めそめそしてしまったみたいだ。腫れた顔をあげると、いつもの指定席ではなくソファ席。私の隣にツクモ君が座っていた。袷の袖に両腕を突っ込んだまま、蔵面のツクモ君はじっと動かない。


「ツクモ君……ありがとう」


 お母さんの葬儀の日から、ツクモ君は私が泣いていると静かにやって来ては隣に居てくれた。そういう時、ツクモ君は何も言わない。


 けれど、何時間でも。何日でも。結局、一年間も。


 泣き続けた私の側、ずっとそこにいてくれた。ツクモ君が隣にいると安心してしまって、私の目からまた涙が流れた。

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