第一章 初夏、小さなドーナツ屋さん
小さなドーナツ屋
若葉が眩しい五月の中頃。
澄んだ紺碧の空の下、見渡す限りに清水の水田が広がり、正面に荘厳な山々を頂く緑豊かなこの村の名は──「神ノ郷(かみのごう)」
神ノ郷村は南大阪郡のさらに南端に位置する。古くはあの世とこの世の間にある神様が集う村として栄えていたという神ノ郷村には、いまだにふと神様が佇んでいそうな深い自然が息づいている。
田植えが終わったばかりの瑞々しい水田が左右に見える国道を、私は赤い小さな車を運転して走っていた。開け放した車の窓から爽やかな風が吹き、肩まで伸びた黒髪を靡かせた。
青々とした山並みを背負った広大な水田の合間にぽつんぽつんと古い日本家屋が建つ。そんな長閑な景色は、東京コンクリート街育ちの私にとってまだまだ見慣れず新鮮だ。
水田通りを抜けて、車が一台通れるだけの細い道を入ると集落がある。田舎は人の住む整地された場所と、人のいない手つかずの自然との差が激しい。
平成生まれの注文住宅と、昭和生まれの木造住宅、日本家屋。流れた時間が混在する集落の中を通る。
入り組んだ細道をそろりそろりと車をぶつけないように進むと、竹林に挟まれた土道に出た。土道を奥まで行けば、瓦屋根がどっしりとした平屋造りの古民家が現れた。私はその家の前で車を停める。
車を降りて、栗皮色をした木材の風合いと漆塗りの壁が大正生まれの趣を感じさせる古民家をじっくりと見つめた。
この築百年、瓦屋根の平屋古民家が本日開店する私たちの夢の店だ。
「よっし、がんばるぞ!」
私はふんと鼻息を荒くしてから、カラカラと耳に心地よい音を鳴らす木の引き戸を開けて古民家の玄関をくぐった。
玄関を入れば吹き抜けの土間だ。吹き抜けには百年の時を生きた梁が際立った存在感を放っている。梁の重厚感と包容力は古民家にしか出せない味。
鳶色の古い下駄箱に履物を仕舞い、三和土の左側から二段の段差をのぼるとそこが、私とお母さんの「小さなドーナツ屋」である。
リノベーションを施した店の床は畳ではなく、外壁と同じ栗皮色の木製フローリング二十帖。庭に面す一面の硝子窓からは一本の桜木が覗き、店内に木漏れ日が満ちる。
天井に梁が走る日本家屋らしい和の空間に、無垢材の丸テーブル席に、モケット生地が滑らかなグリーンのソファ。それぞれが違和感なく共存するインテリアには、心癒す和モダンへの深いこだわりがある。
「ツクモ君、開店初のドーナツを揚げるから食べてくれる?」
私は店に上がってすぐ右手のキッチンに入った。一緒に車に乗っていたはずだが、すでにカウンター席の一番奥に座っているツクモ君に声をかけた。
「我が結子の作ったものを拒否することは、永遠にない」
ツクモ君の王様のようなお言葉が静か店に響く。
「ふふっ、ツクモ君ならそう言ってくれると思った」
くすくす笑いながらキッチンの冷蔵庫を開けて、中からすでに成形済みの米粉ドーナツの生地を取り出した。一番奥のカウンター席で肘をつき、拳の上に形良い顎を乗せるツクモ君をチラリと見る。
キッチンの正面カウンターは四席。L字に曲がった奥の一席を、ツクモ君は専用席と決めたようだ。私がキッチンにいるとき、彼は常に奥の一席に座っている。
「ドーナツ、入りまーす」
米粉ドーナツを熱した米ぬか油に優しく落とすと、じゅわぁと油が弾ける音が高い天井に響く。耳の奥が心地良い。私は油の中で踊る米粉ドーナツと、カウンター席のツクモ君を交互に見る。
短い黒髪が艶やかなツクモ君は、おそらく百八十センチメートルはありそうな大柄。仕立ての良い濡黒羽の袷を着こなす二十代の男性のように見える。二十三歳の私と同じくらいに見えるので、親しみをこめてツクモ君と呼んでいる。
ツクモ君の圧倒的な特徴は「顔が全部、隠れている」ことだ。
彼の顔の前には、漆黒の布が一枚垂れている。その布には括り紐がついていて、後頭部で結ばれる。布版の簡略な面だ。歌舞伎では「
だが、ツクモ君の顔の前に垂れているのは紙ではなく布だ。漆黒無地の布。この布は横からチラと目を見せるような隙が全く無い。たまにツクモ君が蔵面の端が風に揺れると形の良い顎元が微かに覗く程度だ。
どういう理屈かは不明だが、あの布の防御力は高い。正確には違うが、私は彼の顔を巧妙に隠すその布を、仮に「蔵面」と呼んでいる。
正直、漆黒の蔵面の中身が見たくてたまらない。ツクモ君はスタイルが良くて、チラ見した顎元は涼やかで男前な雰囲気がある。しかし、顔のことに触れてはいけないのだろう。隠しているものを暴いてはいけないのだ。
「良い色になってきたよ」
私は米ぬか油の中で狐色に変化する愛しいドーナツを箸で回しながらツクモ君との出会いを思い返す。
彼と出会って一緒に過ごし、一年以上がたつ。初めてツクモ君に出会った葬儀会場での自己紹介は、いまだに忘れられない。
「我は付喪神の王。結子に憑く」とこれだけだ。
あの時、「お母さん」の葬儀を終えた私は脱力するようにソファに座り込んでいた。がらんと人のいない葬儀会場のホールで遺骨を抱えて。そんな人気のない場所で、妙に近い隣に突然現れたツクモ君。
私は顔を全部隠した怪しい人物にひどく狼狽した。
失意の中でも防衛本能で「きゃああ!誰この人!警察呼んで!」とパニックを起こした。私の叫び声に飛んできた葬儀会場の警備員さんは「誰もいませんが?」と私が葬儀の悲しみでおかしくなったのだろうと、哀れみの視線を向けた。
その視線のおかげで、ツクモ君が私にしか見えない存在であることが証明された。
「付喪神」の単語を調べたところ、九十九年以上生きた「物に宿る神様」であやかしの類だという。ツクモ君が最低でも九十九歳以上なのが発覚した。ツクモ君呼びは親し過ぎたかもしれないと遅い後悔をしたものだ。
あやかしなんて聞くと、おどろおどろしい妖怪を思い浮べて怖く思う。実際、顔を隠して、私に取り憑くなんて宣言したツクモ君は不気味だ。
けれど、ずっと私の近くに佇んで自称王様らしく偉そうにするツクモ君に、私は救われたから。今では一緒に手作りドーナツを食べる間柄である。
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