顔ナシ様と小さなドーナツ屋さん~神ノ郷村のツクモ神~

ミラ

翡翠の指輪


 私は諦められなかった。


 師走の川に足首まで両足を浸けた私は、浅くて汚い川底の泥の中に両手を突っ込んでいた。私は「翡翠の指輪」にどうしても帰って来て欲しい。

 

 高校三年生になったばかりの麗らかな春の日。お父さんが交通事故で亡くなった。


 お母さんが肌身離さずつけている結婚指輪を見ては「この指輪は三種の神器!これホント!」なんて冗談を言うお父さんは、陽気で優しい人だった。


 お父さんがいなくなり、半身をもがれた喪失の痛みがお母さんを襲ったのは明らかだ。私もお父さんが大好きだったけれど、お母さんの落胆は私の比ではない。


 お母さんはみるみる弱っていった。やりがいをもっていた看護師の仕事は続けられず辞職。仕事を失い、生気をなくし、食が細くなったお母さんは同時に小麦アレルギーを発症してしまった。


 大好きなドーナツも食べられず、寝込むようになり、やせ細っていく。

 このままお母さんまで死んでしまったら───不安に駆られた私は、お母さんに元気になって欲しかった。


「お母さん、ピクニック行こう!ね!」


 秋の頃、私はお母さんを誘った。場所は近所の河川敷だ。大都市東京を流れる川なんて美しくない。けれど、心のダメージには自然が良いと聞く。川の端をコンクリートでがっちり固めた河川敷は、私にとって間近の自然だった。


 私がはりきってお弁当を作ると、お母さんは気を使って付き合ってくれた。薄曇りの天気だったが、小麦アレルギーに配慮したおにぎりと出し巻き玉子にほうれん草の胡麻和えだけの素朴なお弁当を河川敷で一緒に食べた。久々にお母さんの笑顔を見た。


 しかし、お母さんと河川敷を散歩し始めた時。ふいにお母さんの結婚指輪が地面に転がって、無情にもそのまま川の中に落ちてしまった。


 お母さんは痩せて指が細くなり、指輪がすり抜けてしまったのだ。私は夕暮れまで川の中を必死に探したけれど「翡翠の指輪」は見つからなかった。


「もういいよ、結子。探してくれてありがとう。川に落ちたら流れてしまうから、もう諦めよう。お父さんも許してくれるよ」


 お母さんは泣きそうな顔で私のために笑って、私の背を何度も優しく撫でてくれた。泣いていたのは私の方だ。


 どうしてこんなところに誘ってしまったのか。私が連れてこなければ、こんなことにならなかったのに。あの指輪はお父さんがお母さんに永遠の愛を誓ったものなのに。大事な、物なのに。


 私は私が許せなかった。

 

 その日から、私は毎日、河川敷に通った。セーラー服のスカートのまま、私は裸足で濁った浅い川に入って川底を漁る。川底は泥と石とゴミが混ざり合う。泥に埋まっただろう翡翠の指輪を見つけるのは不可能に近いとわかっていた。


 お母さんは「もういいよ」と何度も言った。けれど私は、諦められなかった。


 川底漁りを続けるうちに、冬がやってきた。川の水は冷たく凶器と化した。痛いほど冷たくて混濁した川の中で自分を痛めつけていなければ、後悔で息が止まりそうだった。


 そんなことを続けていた師走のある日。肌を刺し切りつける痛みを与える水の中で、川底を両手で漁りながら私はとうとう泣きじゃくっていた。


「あれは大事な指輪なの。絶対なくしちゃいけない物なの」


 厳しい冬風が制服のスカートに吹き付けた。


「あれはただの物じゃない……想いがこもって、命が宿ってる。あの指輪はお父さんとお母さんが一緒に生きた証なの」


 足先、手先は冷たさで疼き、痺れ、凍えていた。毎日ゴミ泥川に入り続けて、手足はあかぎれになり、どこも傷だらけ。でも、諦められなかった。


「お母さんは、お父さんも仕事も、健康までも失ったんだから……指輪までいなくならないで」


 しゃくりを上げるたびに白い息が私の周りを舞った。凍えて感覚の薄れた両手で川底を漁り続ける。指輪なんて、もう見つかるはずがない。絶望が耳に囁く。私は首を振った。


「お母さんに!もう何も失って欲しくないの!」


 私は堪らず泣き叫んだ。凍えた手はもう何も感じない。でも水の中に浸し続ける。

 日が暮れ始め、さらに寒さが増した。夕暮れ時の紅と冬空が混じり合った紫苑色の空の下。冷えすぎたのか急にふっと力が抜けてしまった私は、川底に膝をついて崩れ落ちた。


 吐く息は冷たく白く、涙も、尽きた。


 薄暗く淀んだ水の中に座り込み、スカートまでずぶ濡れになった私は、紫苑色の天を仰いでしまった。もうこれ以上どうしていいのかわからない。


「誰か助けて……指輪が見つかったら死ぬまで大事にする、何でもする……」


 弱々しい声で、天に請うた。


「私を全部あげるから。お願い……帰って来て」


 私の懇願は、紫苑色の虚空に霧散した。


 ついに希望を捨てて俯いたそのとき、突然右斜め前一メートル先の川底が光った。川底から光が浮き出して、ここだと呼び寄せられる。私は無我夢中でその光に縋った。光に導かれ川底を漁ると、いつの間にか、手の中に指輪が戻ってきていた。


 指輪の主役、楕円型の翡翠の宝石は、紫苑の空の下でも艶と照りが美しい。薄萌葱色の中に淡い黄緑が雲のように広がる色合いの濃淡。宝石を支える金色の石座は王冠透かしのレトロアンティーク。


 お母さんの「翡翠の指輪」だ。


 私は指輪を抱き締めて、川の中で咽び泣いた。

 奇跡、としか言いようがなかった。

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