第29話 「誰と居たいか」


「ねえ、聞いた? またあのふたり、裏の物置で一緒にいたらしいよ」


「えー、マジ? 白河先輩ってそんなキャラだっけ?」


「ていうか、あの綾瀬って子、ちょっと調子乗ってない?」


 休み時間。

 教室の片隅で、小さな声が重なる。

 笑い混じりのヒソヒソ話。

 その場にいない人を対象にした、いつもの“誰かの暇つぶし”。


 そこへ、ガラッと扉が開く音。


「――あー、いたいた」


 声をかけてきたのは、白河千春だった。

 笑っている3人の女子の机の前に、堂々と立つ。


「えっ、白河……先輩?」


「うん、こんにちはー。さっきの話、ちょっとだけ聞こえたんだけどさ」


 一瞬で空気が張り詰める。

 笑っていた子たちの顔から表情が消え、気まずそうに目を逸らす。


 千春は、笑っていた。

 でも、その目は少しも笑ってなかった。


「“また物置で一緒にいたらしい”とか、“あの陽真って子、調子乗ってる”とか……言ってたよね?」


「い、いや、別に悪気はなくて……」


「そっか。じゃあ悪気がなかったら、何言ってもいいんだ?」


 静かな声だった。

 でも、その一言で、空気が一気に変わった。


「私ね、陽真くんと話してるの、すごく楽しいんだよ」


「……」


「毎日が忙しい中で、気を張ってばっかりで、でも、物置でちょっと喋るだけで、疲れが取れるぐらい笑える時間があってさ。そういう時間、私にとってはすごく大事なんだよね」


 千春は、ゆっくりと周囲を見渡す。


「……だから、もしそれが気に入らないなら、言えばいいよ、私に。直接さ。でも、本人のいないところでヒソヒソやってるのは、カッコ悪いよ」


 誰も言い返せなかった。

 いや、言い返せるような隙を、千春は与えなかった。


「私がどんなふうに誰と過ごすかって、私が決めるから」


 それだけ言って、千春は微笑んだ。


「じゃ、またね」


 そう言って教室を出ていく。

 彼女の背中を見送るしかなかった3人の顔は、しばらく何も言えなかった。





 ******



 

 放課後のチャイムが鳴って、教室が一気にざわめき出す。

 カバンに教科書を詰めながら、俺は少しだけ、落ち着かない気持ちだった。


 ちゃんと自分の気持ちを話せて、先輩の想いも聞けて――

 正直、気持ちは楽になっている。というより、救われた。


 でも、どこかでまだ、ひとつ引っかかっていたことがあった。


「……白河先輩、マジでかっこよかったらしいよ」


 後ろの席の女子二人が、そう話しているのが耳に入った。


「え?なにそれ」


「今日の昼、三組の女子がさ。まだあの噂の話してて。それに白河先輩が来て、『それ、本人の前で言える?』って言ったらしい。マジで静かになったってさ」


「うわ、それは強い……」


 ――静かに、心がざわついた。


 もう少し詳しく聞こうと思って教室を出ると、廊下でちょうど顔見知りの男子が話していた。


「え?白河先輩の話? 俺も聞いたよ。昼休み、あの三組の女子が教室でコソコソ言っててさ。『一年の男子と仲良すぎじゃない?』とか、またそんな感じで」


「うわ、またか……」


「でもさ、白河先輩が『私が誰と一緒にいて、何を話すかは私が決める』って。『言いたいことがあるなら本人に言ってよ』って。めちゃくちゃ静まり返ったってさ」


「それ言えるの、ほんとすごいわ……」


 俺は、黙って聞いていた。


 目立つのが嫌な先輩だ。

 きっと、本当はああいうの、面倒だったと思う。

 それでも俺のために、言ってくれたんだ。


「……マジかよ、白河先輩……」


 そう呟いた瞬間、自分でも気づいた。

 胸の奥が、じんわりあったかくなってる。


 物置であれだけ真っすぐにぶつかってくれたこと、

 その後で、わざわざ噂にまでちゃんと向き合ってくれたこと。

 たぶん俺が聞くなんて思ってなかっただろうに。

 それでも、誰かに対して、はっきりと俺の味方をしてくれてた。


 ……やっぱ、あの人、すげえよ。


 その場からふらりと歩き出して、人気のない校舎裏に向かう。


 物置の前で、ちょっと立ち止まる。

 今は、何かを言葉にする前に、ひとつ、ちゃんと気持ちを受け止めたかった。


 カバンからスマホを取り出して、ぽちぽちと打ち込む。


「噂のこと、聞きました。ありがとう、先輩。」

 

 それだけ送るのに、何回も打っては消して、やっと送信を押した。


 すぐに返信はなかったけど、それでよかった。

 伝えたかったのは、ただ感謝の気持ちだったから。


「……白河先輩、すげぇな」


 誰にも聞こえないように、小さく笑って、俺は空を見上げた。


 青くて、広くて、どこか清々しかった。





 ******




 

 放課後。

 教室に残っていた数人の声が、徐々に遠ざかっていく。


 スマホを見つめながら、俺はまだ、昨日送ったメッセージに既読がついたまま、何も返ってこない画面を眺めていた。


 千春先輩らしいと言えば、らしい。


 でも、なんとなく……少しだけ、もやもやする。


「……行ってみるか」


 つぶやいて、カバンを肩にかけた。まぁ、来いってことか。

 向かう先は、いつもの物置。俺と千春先輩だけの、ちょっと秘密の場所だ。


 校舎裏を抜け、フェンスの影をくぐる。

 ひんやりとした空気と、夕日が差し込む光景。

 変わらないそこに、俺は一歩、足を踏み入れた。


 カラリ、とドアを開ける。


「……先輩?」


 薄暗い室内に、ぽつんと佇む人影があった。


「……ん。おお、来たか少年!」


「……来てました?」


「あったりまえだろうが!」


 千春先輩は、何かを隠すように、ちょっとだけそっぽを向いた。


 その動きがどこか照れているみたいで、俺は少し笑いそうになる。


「昨日のメッセージ、見てくれたんですね」


「見たぞ。見たけど、返信はしない主義なんだよ」


「いや、なんすかその主義……」


「ふふ、かっこいいだろ? 返信のいらない女、白河千春」


「ただの既読スルーじゃないっすか……」


「うっ……! ち、違うし! 一応ちゃんと考えてたし!」


 そう言ってから、少しだけ真面目なトーンになった。


「でも、ありがとう。お礼言ってもらえると思ってなかったから、ちょっと、嬉しかった」


「あ……いや、俺のほうこそ、ありがとうございました」


 言いながら、俺は隣に腰を下ろした。

 沈黙が一瞬だけ流れる。でも、不思議と居心地は悪くない。


「……あんなふうに、言えるの、すごいですね」


「何が?」


「噂のことです。怖くなかったんですか?」


「怖いさー。そりゃあね」


 千春先輩は、天井を見上げて、肩をすくめた。


「でもさ、噂で何かが勝手に決められてくのって、むずむずするじゃん。だったら言っとこうかなって。私が誰といるか、私が決めるって」


 その言葉に、俺の胸の奥が、また少しだけ熱くなった。


「……ほんと、強い人ですね、先輩」


「いやいや、むしろ少年のほうが強いと思ってたぞ?」


「え?」


「だってさ、あんな噂立って、それでもちゃんと向き合ってくれてさ。逃げないで、話しに来てくれて。あたし、それが一番うれしかったんだよね」


 俺は返す言葉が見つからなくて、ただ無言で頷いた。


 その沈黙を埋めるように、千春先輩がまた口を開いた。


「ここ、なんか落ち着くよな」


「そうですね。最初は自分だけの場所って思ってたけど……今は、先輩がいるほうが自然かも」


「おー、少年、なんか告白っぽいこと言ったな?」


「ち、違いますって!」


「冗談だってのー!」


 はははと笑う先輩を見て、ようやく俺の中の緊張が、完全に解けた気がした。


 気まずさも、噂の後ろめたさも、なんだか全部、風に流れていったような。


 そうして、物置の窓から差し込む夕日を背に、ふたりでしばらく黙って座っていた。


 ……この沈黙が、なんだか心地よかった。

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