第10話 クラヴィールの記憶を、もう一度

 ティムが学校へと駆けていった後、アンはベッドの上で静かに目を閉じていた。


 眠っていたというより、まどろんでいた、というのが近い。意識は浅く、けれど夢のような感覚が何度も胸をかすめていた。


 ――あの牛に触れたとき、確かに何かがあった。


 あれは単なる動物との触れ合いではなかった。

 まるで、昔から心を通わせていた友と再会したような――いや、心はもともと一つで、ただ時間と場所が離れていただけだった、そんな不思議な感覚だった。


 その感触に包まれた瞬間、身体の力がふっと抜け、地面に溶けるように倒れてしまったのだ。

 けれど、睡眠は取れていたし、ひととき休んだだけでも身体は随分と軽くなった。


 アンは、静かに息を吐いて、ゆっくりとベッドから身を起こす。まだ多少のふらつきはあったが、足元はしっかりしている。


 リビングへと足を運ぶと、マーサの姿は見えなかったが、奥のまだ開けられていなかった部屋から、かすかな物音が聞こえた。


 アンは少し迷ったあと、そっとその扉へ近づく。


 少しだけ開いていた戸をゆっくり押し開けると――


 そこには、朝の光が斜めに差し込む静かな部屋。

 その光の中に、マーサが一人、背の高い椅子に腰かけていた。


 年季の入った木製の織機。その前で、マーサのほっそりとした指先が、呼吸のリズムとぴたりと重なるように、糸を導いていた。


 光に透ける経糸をひとつまみ取り上げ、滑らかに、慎重に、金属の綜絖へと通していく動き。そこには焦りも迷いもなく、ただ、長い年月に培われたやさしい確かさがあった。


 扉が開く音に気づいたのだろう。

 マーサは手を止めて振り返り、心配そうに、それでもほっとしたような微笑みを浮かべる。


 「もう身体は大丈夫なの?」


 アンは小さく頷き、かすかな声で返す。


 「……うん、大丈夫」


 マーサは微笑んだまま、織りの手をゆるやかに動かしながら言った。


 「座ってても大丈夫なら、そこの椅子に座って見てていいわよ。昼にこうして織っているときに、誰かがそばにいてくれるなんて、久しぶりね」


 アンは頷いて、マーサの横に置かれた椅子にそっと腰かける。


 「……マーサさ……あ、えっと……、お母さんは、毎日、織物をしてるの?」


 その問いに、マーサは糸を穏やかに通しながら、少し懐かしむような声で応えた。


 「そうよ。私の母も織物をしていてね。小さい頃からずっと教わってきたの。だから今は、こうして織った布を町に持っていって売ってるの。でもね、昔は織物が大嫌いだったのよ。たぶん、今のアンくらいの年の頃かしら」


 「……なんで、嫌いだったの?」


 アンが問いかけると、マーサはふと手を止め、どこか遠くを見つめるように言った。


 「私はね、動物といるのが大好きだったの。あと、音楽。昔はよく「クラヴィール」を弾いていたのよ。庭の近くに置いてあってね、私が弾いてると、動物たちが集まってきて聴いてくれてたの。それが嬉しくて……「クラヴィール」だけは練習を頑張っていたわ」


 そして、再び手を動かしながら、マーサはふわりと微笑んで続けた。


 「でも、今は織物も大好きよ。自分の作った服で、誰かが笑顔になってくれるのを見るとね……特に、大好きなリオンや子供達が自分の作った服を着ているときなんて、本当に幸せだわ」


 アンは黙ってそれを聞きながら、マーサの人となりに触れたような気がしていた。

 動物と心を通わせ、音楽を奏でる時間を何より愛し、そして今は、家族に愛を捧げている。


 そのまなざしは、見返りを求めず、ただ目の前の命を慈しむ、清らかな水のようだった。

 きっと子どものころからずっと、マーサはそんなふうに、純粋な眼差しで世界を見てきたのだろう――そう思えた。


 「……「クラヴィール」は、もう弾かないの?」


 アンがそう尋ねると、マーサは少し寂しげに目を伏せて、言った。


 「……もう忙しいからね。子どもたちも、あまり興味を持ってくれなかったし……」


 けれど、ふいにアンを振り返り、優しい瞳で見つめながら言った。


 「アン以外はね?」


 「……私?」


 アンが驚いて聞き返すと、マーサは微笑んだ。


 「そうよ。あなただけは、私がどんなに忙しそうにしていても、「また弾いてほしい」って言ってくれた。だから、よく弾いて聞かせてたのよ。でも――アンがいなくなってからは、弾けなくなっちゃったの。思い出しちゃうし……」


 言葉の終わりと共に、声が少しだけ震えていた。

 こらえようとする気持ちが伝わってきたが、それでも込み上げてくるものが、胸の奥から滲み出しているのが分かった。


 そして、軽く鼻をすする音とともに、マーサはふっと笑顔を取り戻した。


 「でも、本当に……アンが帰ってきてくれて、よかった」


 アンもまた、そっと微笑み返す。


 「……「クラヴィール」、まだ、うちにあるの?」


 マーサは頷きながら、手を止め、部屋の奥へと歩いていく。


 「ええ、そこにあるわよ」


 そう言って、掛けられていた大きな布をめくる。


 その下から姿を現したものは、光を受けて柔らかに輝いている。

 それは、木製の美しい、杏奈の知るところの「ピアノ」だった。


 アンが手を伸ばし、鍵盤にそっと指を置くと――押し込んだ先から、聞き慣れた音が静かに鳴った。

 それは、杏奈が現実で知っていた、まさに「ピアノ」の音だった。


 マーサは懐かしそうに微笑みながら言った。


 「昔は、アンに少し教えたりもしてたのよ」


 アンは黙って鍵盤を見つめたまま、小さな声で言った。


 「……ねえ、弾いてみても、いい?」


 マーサは、ほんの少し驚いたように目を見開き、やがて、ゆっくりと頷いた。


 そしてアンは、静かに、クラヴィールの椅子に腰を下ろした――。

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