第9話 アンは、ふれた

 家の裏手に広がる、陽だまりの草地。

 

 朝露がまだところどころに残る緑の上を、アンとティムは並んで歩いていた。

 小さな囲いの中では、数頭の羊と牛たちがのんびりと草を食んでいる。柔らかな鳴き声と、風に揺れる草の匂いが、心をふわりと和ませてくれるようだった。


 「じゃあ、僕はみんなのお世話してくるから、ここで見ててね!」


 ティムは嬉しそうに駆け出し、一頭ずつの元へと手際よく向かっていく。

 

 羊の足元に溜まった草や藁を掃き清め、牛の桶には新しい飼葉を足す。

 餌をやりながら、それぞれの動物たちに優しく声をかけ、背を撫で、時折ぎゅっと抱きしめては、「今日もありがとう」とそっと囁いていた。


 その姿を、アンは静かに見つめていた。

 風に揺れる髪の間から、ふとこぼれた声は、ごく小さく、それでも確かだった。


 「……ティムは、……優しいね」


 その声に、ティムは嬉しそうに振り返る。


 「昨日ね、街の広場でおじいさんに教えてもらったんだ!」


 アンが小さく首をかしげると、ティムは胸を張って続ける。


 「そのおじいさんが言ってたんだけど、アシェリラ様って、村の誰かに宿っててね。

 それで、ぼくら人間が動物とか植物とか、他の命にちゃんと優しくできてるか、見てるんだって!」


 ティムの瞳は、まっすぐに輝いていた。


 「だから僕、今日からはいつもよりもっと、ありがとうって言おうって思ったんだ!」


 アンはその話を聞いて、胸の奥がほんのりと温かくなるのを感じた。

 ティムの素直な心と、まっすぐな優しさが、じわじわと沁みてくる。

 

 「アン姉ちゃんも、羊さんや牛さんたちに挨拶してあげて!」


 ティムはアンの手を引きながら、囲いの中の動物たちに声をかけた。


 「みんな!昨日、アン姉ちゃんが帰ってきたんだよ!」


 アンは少し戸惑いながらも、羊たちの間を抜けて、じっとこちらを見ていた一頭の牛へと近づいた。

 その牛の視線は強く、まっすぐで――どこか懐かしさすら感じるような不思議な眼差しだった。


 「あっ、それ……その牛は一番暴れやす……!」


 ティムの声が言い終わる前に、アンの細い手がその牛の額に触れた。


 すると牛は、まるで安心したように、すうっとその頭をアンの胸元に預けてきた。

 ごつごつした体からは想像もつかない、驚くほど穏やかな動き。

 まるで、母に甘える子供のような、または、自分の頑張りを認めてほしそうな――そんな仕草だった。


 「アン姉ちゃん、すごい……すごいよ……!こいつ、いつもやんちゃで全然言うこと聞かないのに……!」


 その感嘆の声と同時に、アンの身体がふらりと揺れた。


 「……っ」


 膝から力が抜け、草の上へと崩れ落ちる。

 顔は青ざめ、額にはじんわりと汗が滲んでいた。


 「アン姉ちゃん!大丈夫!?」


 ティムが駆け寄り、肩を支える。

 アンは苦しそうに息を整えながらも、かすかに笑って、首を縦に振った。


 「だ……大丈夫」


 それでも、その細い肩の震えは隠せなかった。


 「お母さんのところまで、連れてくね!」


 そう言って、ティムはしっかりとアンの肩を抱えながら、家へと戻っていく。


 そして、玄関先に現れたアンとティムの姿を見て、マーサが駆け寄った。


 「アン……!大丈夫!?だから無理しないでって言ったのに!」


 その言葉にティムが申し訳なさそうにうつむくが、アンは力弱く首を振った。


 「だ、大丈夫……私が、行きたかったから……」


 その目が、ティムのせいじゃないと静かに語っていた。

 マーサは小さく頷き、アンに肩を貸してベッドへと連れて行く。


 やっとの思いで身体を横たえると、マーサは額にそっと手を当てて言った。


 「貧血かしらね……あまりご飯も食べられてないもの。今日は、ゆっくり休んでいなさいね」


 その声に、アンは小さく目を閉じて頷いた。

 ティムはアンの顔を心配そうに見つめながら、玄関へ向かって駆け出す。


 「お母さん、水汲みしてから、そのまま学校行ってくるね!」


 「うん、行ってらっしゃい。遊んできてもいいけれど、森には気をつけるのよ」


 「うん、わかってるよー!」


 そう言い残し、ティムは光の中へと走り去っていった。

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