第十章 閉ざされる街────────

(1)

慈実めぐみの指先が、コーヒーカップの縁をなぞる。ひび一つない純白の磁器が無数にカウンターに置かれている。誰も手をつけず、少し前に綺麗に並べたまま動かない。

はらはらと数日間にホコリが舞い落ち、表面の光は失われている。埃を払い落とすわけでもなく、洗うわけでもなく、ただ手元無沙汰で珈琲カップの表面に触れる。

部屋は初夏の陽光が余り当たらず、まだ冬を閉じ込めたかのようにひんやりとしている。焦げ茶の木製テーブルも、カップと同じように誇りを被り、数日放置しただけとは思えない。

カウンターよりも外は足跡ひとつなく、均一に白いベールを被っていた。カウンター内も綺麗ではなく、僅かな足跡があるだけで時が止まっている────。

店の外は、もう完全に闇に包まれている。街灯のオレンジ色の光が、小さなショーウィンドウに反射し、店内を薄ぼんやりと照らしていた。

埃をかぶったジャズのレコードが。

使い込まれて傷ついた木製のカウンターが。背の高い本棚にびっしりと並べられた古い文庫本が。

彼女を今まで現実につなぎとめていた。だが、今はそれらも意味をなさず埃の部屋に閉じ込められている。空気もどこが曇り、霧がかかっているかのようだ。

喫茶店は、昼間は静かに光を吸い込み、夜はひっそりと佇んでいた。だが今はクラシックな外観も、磨かれたショーウィンドーも、全てがシャッター街に映えることなく澱み、沈んでいる。

しばらく前までは、この喫茶店を愛していた。この喫茶店経営が彼女の全てで、生きがいであった。

しかし、その全てが、今、慈実の手から零れ落ちてゆく。


数週間から、客足はぴたりと途絶えた。理由はわからない。商店街の人通りも、目に見えて減った。隣の八百屋はシャッターを下ろし、その隣の乾物屋も、人の気配がない。街全体が、日増しに死んでゆくのが分かる。

水道の蛇口をひねっても、水は出ない。電気のスイッチを押しても、店内に光は灯らない。

しばらく支払いをしていなかった。ふと、完全に抜け落ちていた考えが蘇る。埃に埋もれた携帯電話を手に取り、友人のスマートフォンにため死にかけてみる。契約が切れているようで、電話も繋がらない。


生活の基盤が、音もなく、足元から崩れていた。そんなことにも気づかずに、しばらく立ちつくしていた。自分が寝ていたかも分からない。食事はとっていたか。それも分からない。食慾はない。満腹という訳でもない。

そんな概念すら、失っていた。

通帳もいつのまにか底をついている。扉の方をふと見ると、家賃の催促状が、郵便受けに溢れていた。追い詰められてゆく感覚が、慈実の喉を締め付ける。しかし、涙は出ない。悲鳴も出ない。ただ、胸の奥で、鉛の塊が溶け出し、全身の血管を巡ってゆくような、冷たい感覚に支配されていた。感情が、摩耗し尽くしたかのように、どこか遠い場所へ行ってしまった。

壁にかかった古い振り子時計が、カチ、カチと単調な音を刻む。その音が、慈実の鼓膜に、まるで死刑執行のカウントダウンのように響く。

逃げなければいけない。ここに居たくない。その思いが、脳裏に雷鳴のように轟いた。

しかし、どこへ。

何を持って。

思考は混乱し、指先は震える。身体は、店の奥へと後ずさる。そこにあるのは、小さな裏口だ。錆びついた鉄の扉がぐるぐると渦巻いて見えるほど視界は歪んでいた。そこから外に出れば、もう二度とこの店には戻れない。なんとなくそう思う。戻っては、良くないことが起こる気がする。

初めてこの店を開いた日のこと。希望に満ちていた朝のこと。初めて焼いた珈琲豆の香ばしい匂い。初めて客に出した一杯のコーヒー。

その全てが、今となっては、遠い幻のようだ。カウンターに座っていた常連客たちの笑顔が、歪んでゆく。彼らの顔が、恨みがましく慈実を睨むように見えた。幻覚だ。しかし、その幻覚は、慈実の心を深く抉る。

慈実は、古い革のバッグを肩にかけた。中には、わずかな現金と、マイナスが並ぶ通帳、そして、一枚の写真だけしか入れられない。ものがあったら、逃げ遅れる。


ふとぐちゃぐちゃに丸められたあとのある、写真に目を落とす。二十年も前に死んだ夫と娘が笑っている。だがその微笑みも、嘲笑のように見えてしまう。この数日間で、ここまでも自分は歪んでしまったのか。理由は見当たらないが、歪んでしまった。

大切なものは、すべてこの店の中にあった。そんな幸せであった頃を思い出す。しかし、それらは、もはや彼女のものではなく、諦念が、慈実の全身を包み込む。

錆びついた裏口の扉を、軋ませながら開ける。冷たい夜の空気が、店内に流れ込んできた。一通り近辺の淀みを描き切ると、その冷たさが、慈実の心を刺す。

背後を振り返るが、絶望が深まるだけで、懐かしいという感情はもはやわかない。


暗闇に沈む店内が、慈実の目に虚しい残像として焼き付く。何も心をゆらさない。おってくるような感覚がするだけだ。

乱暴に扉を閉めると、足を踏み出す。アスファルトの冷たさが、靴の足の裏に直接伝わる。靴の紐は結べず、紐を投げ出した状態なため、今にも転びそうで、脱げそうだ。

夜の商店街は、異様なほど静まり返っていた。普段なら聞こえるはずの、居酒屋の喧騒も、車の音も、人々の話し声も、何も聞こえない。まるで、世界から音が消えたかのように、耳を澄ませても聞こえるのは呼吸と風の音だけだ。街灯の光が、慈実の長い影を地面に落とす。その影は、彼女の背後から迫る闇のように、どこまでも長く伸びてゆく。


商店街のアーケードを、一歩、また一歩と進む。歩く振動が体につたい、虚しくて涙が出そうで出ない。シャッターが下りた店々の前を通り過ぎるたびに、慈実の心は冷え込んでゆく。それぞれの店のシャッターに、それぞれの店主の絶望が貼り付いているように感じられた。それは、慈実自身の絶望と、深く共鳴する。まるで、自身が歩くたびに、過去の亡霊が次々と現れ、彼女の背後に並んでゆくかのように感じる。

街の端まで来た時、慈実は足を止めた。振り返ると、そこには、暗闇に沈む商店街が広がっていた。街灯の光が、遠く、まるで蝋燭の灯火のように揺れる。その光は、慈実がかつて持っていた希望の灯火のように、今にも消え入りそうだった。

「もう帰らないのかな……」

誰にともなく呟くが、声は、虚空に吸い込まれ、何の響きも残さない。

しばらく歩いていたためか、汗が肌を滑り落ち、アスファルトの上に吸い込まれてゆく。その一滴が、慈実に残された、最後の人間性の証のように思う。だが、それも吸い込まれ、消えてしまった。

振り返ることなく、慈実は暗闇の中へと足早に姿を消した。彼女の足音は、夜の闇に吸い込まれ、二度と聞こえることはない。商店街は、完全に静まり返った。残されたのは、投げ出され閉じずに開いたままの裏口と、冷え切ったコーヒーカップだけであった。

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