(5)
アスファルトの冷たさが、ぺたりと背中に張り付いている。ガーデニング用の土の匂いが鼻腔をくすぐり、湿った空気が肺を満たす。毬子の意識は、深い泥の中から引き上げられるように、ゆっくりと形を取り戻した。全身を襲う倦怠感は、まるで何十年も眠り続けていたかのようだ。身体の節々が軋む。瞼の裏に、濁った赤が滲んだ。それは血の色か、あるいは夕焼けの色か。判別はつかない。
自分がどこにいるのか、なぜここにいるのか。その疑問が、脳裏を過る。
最後に覚えているのは、あの悍ましい光景だ。
紅葉の目。
迫りくる車の轟音。
鈍い衝撃。
肉が裂け、骨が砕ける音。
あの瞬間、それらが交差した時、確かに、全てが終わったはずだった。死。それが、毬子が最後に認識した世界だ。
しかし、今は、感覚がある。
冷たい感触。湿った空気。鼻につく土の匂い。そして、身体の奥底から湧き上がる鈍いが鋭い痛み。
左腕が、じんじんと熱を持つ。視線を向けると、服が破れ、アスファルトのざらつきで擦りむけた皮膚が見えた。血は出ていない。ただ、赤黒い擦過傷が、生々しくそこに広がっている。
毬子は、ぼんやりと身体を起こす。全身の筋肉が硬直し、悲鳴を上げる。まるで、錆びついた機械のように動くと軋み、ジリジリ痛む。視界が定まるまで、瞬きを繰り返す。そこにあったのは、見慣れたマンションの裏手の後継だ。毎朝ゴミ出しに来る場所だ。そして、目玉を見つけた道路は体の周囲に拡がっている。
死んだはずの場所に、毬子は確かに座っている。現実だ。紛れもない、現実の風景である。
「なんで…?」
声が、喉の奥から絞り出されるが、ひどく掠れ、自分のものではないような声に聞こえる。
死んだはずではなかったのか。
肉体が、完全に破壊され尽くしたはずではなかったのか。この身体は、一体何か。
あれは夢だったのだろうか。
いや、痛い。
あれも現実。
混乱が、嵐のように毬子の精神を揺さぶる。頭の奥で、無数の思考が渦を巻き、互いに衝突する。死の記憶と、現在の感覚。その矛盾が、毬子の存在そのものを深く揺るがす。彼女は、地面に手をつき、アスファルトの感触を確かめた。ざらざらとした、無機質な感触が指を刺激する。それは、夢ではない。幻でもない。
立ち上がろうとする。しかし、足に力が入らない。膝が震え、再び地面に崩れ落ちそうになる。地面に手を突き、よろめきながら、どうにか膝立ちになる。周囲の音が、気づけば耳に飛び込んできた。
遠くで響く車の走行音。鳥の鳴き声。そして、マンションの窓から漏れる、微かな生活音。
全てが、以前と変わらない。
自分は、生きているのか。
その問いが、毬子の脳裏に深く突き刺さる。しかし、生きているという実感がない。
身体は動く。感覚もある。だが、心に何の感情も湧き上がらない。恐怖もない。悲しみもない。喜びもない。ただ、深い空虚感が、彼女の内部を支配している。あの、死の瞬間に感じたはずの絶望すらも、今は曖昧な残像に過ぎない。
ふと、自分の身体を見下ろす。着ている服は、あの時のままだ。破れた部分も、汚れた部分も、全てが記憶と一致する。
では、時間は止まっていたのか。それとも、あの衝撃は、ただの幻だったのか。
いや、絶対に違う。
どれだけ時間が経ったのか。空は血のような夕焼けに染っている。
記憶を辿ろうとする。
車が迫る音。日毬の冷たい目。あの瞬間に閃光のように蘇った、忌まわしい光景。
自分が、日毬を突き落としたあの夜の駅のホームの光景が、それに混ざって蘇る。再び思い出しても、罪悪感はなかった。後悔もなかった。あの時と同じだ。今も、何もない。
何も感じない。
それが、何よりも毬子を不安にさせる。生きていながら、感情がない。まるで、中身を抜き取られた人形のようだ。皮膚一枚で覆われた、空っぽの器。その空虚感が、身体の奥底からじわじわと広がり、彼女の存在を希薄にしてゆく。
大丈夫だ。自分は元からそんなことで心は揺さぶられない。そう言い聞かせるが無駄だった。なにより生きていた事への喜びが無いのだ────。
視界の端に、マンションのエントランスが見えた。住民が出入りする姿が、ぼんやりと映る。彼らの顔には、感情が宿っている。笑い、話し、時には眉をひそめる。かつての自分も、そうであったはずだ。だが、今は違う。彼らの感情の揺らぎが、遠い世界の出来事のように感じられる。自分だけが、音のない透明な壁の向こう側にいるかのようだ。
「私は…何」
言葉も途中で途切れてしまう。自分が何者なのか、わからなくなった。死んでいない。しかし、生きているとも言えない。この存在は、一体何なのか。死と生の間をさまよう、曖昧な影であろうか。あるいは、日毬の呪いが、自分をこの世に引き留めているのか。
いや、呪いなど、あるはずがない。
永遠に、この空虚な状態のまま、さまよい続けるのか。
傾いた夕日が、マンションの壁を照らし始める。彼女は、アスファルトの上で、膝を抱えるように座り込む。身体を震わせる。けれどそれらは、寒さからではない。得体の知れない不安と、自身の存在の曖昧さからくる、本能的な震えなのを、自分でも知っている。
これが夢で、起きたらこの感覚が消えていたらどれだけ良いか。
かつて、夢に出てきた瑤や靖人の死の光景が、再び脳裏に蘇る。彼らもまた、死んで、そしてさまよっているのか。自分は、永遠にこの苦しみから解放されないのか。終わりもなく彷徨うのだろうか。だが、そんな曖昧な存在があろうか。本当は生きているのだろうか。事故の後で、おかしくなっているのだろうか。納得はできるが、本当にそうか、と疑ってしまう。
空を見上げる。薄い雲が、すーっと夕空流れてゆく。逃げられることの象徴のように、まりこを苦しめる。
身体は、まるで根が生えたかのように、この場所に縛り付けられている。このマンションに。この道路に。自分に。
毬子は、自分が死んでいないことに、喜びも悲しみも感じない。ただ、漠然とした、重苦しい空虚感がそこにある。このまま、何を感じることなく、どこへともなくさまよい続ける運命なのか。身体は存在する。しかし、魂は、すでにどこかへ消え去ってしまったのだろうか。
無機質な視線が、虚空を捉える。
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