吾輩は『ねこ』である

墨猫

第1話

 吾輩わがはいは猫である。名前はまだない・・・訳ではない。(有名な猫様のセリフを言ってみたかっただけだ)

 というか、自己紹介的にはそのままなのだ。吾輩の名前は「ねこ」である。いい加減な飼い主が付けた名前だ。


 吾輩は、朝帰り途中の飲んだくれ親父おやじに拾われた。

 とても寒い朝だった。薄汚れたタオル一枚が敷かれただけのダンボール箱の中で、震えていた吾輩。飲んだくれ親父おやじはタオルと同じくらいボロボロの吾輩を抱き上げ、ふところに入れながら何かつぶやいていた。

 その時はまだ人間の言葉を理解できず、親父おやじが何を言っているのか分からなかった。だけど、震えていた吾輩の身体にゆっくりと、親父おやじの体温が伝わってきた感覚は今でも鮮明に覚えてる。




「父さん、母さんが亡くなってもう何年経ったと思ってるの。そんなんじゃ私、結婚も出来ないじゃない!」


 飲んだくれ親父おやじには2人の子供がいる。23歳の娘の友紀ゆき、19歳の直也なおや。吾輩が拾われて来たのは5年前。その半年前に2人の母親は交通事故で亡くなったらしい。

 親父が運転する車の助手席側に、居眠り運転のトラックが突っ込む形だった。助手席には親父の奥さんが座っていた。奥さんは即死、親父も事故の後遺症で左手と左足が不自由になった。

 トラックは大手建設会社のもので、慰謝料や見舞金さらに保険金と充分過ぎるほど手厚い補償を受け、親父おやじは働かずとも家族3人生活できる状態になったようだ。

 その事故をきっかけに親父の日常は変わってしまった。お金と引き換えに最愛の妻と健全な身体を失った親父は、毎日浴びるほど酒を飲むようになった。


「父さんが悲しいのはよく分かるけど、私だって直也だって生きてるんだよ!母さんの分まで生きていかないといけないんだよ!しっかりしてよ!」


 友紀ちゃんは大学時代から付き合っている彼氏の海外赴任について行くべきか悩んでいる最中さなか、今日は特にイラついているようだ。


「うるさいな、酒が不味くなるだろ」


「もう!直也だって父さんのそんな態度にキレてこの家出て行ったんじゃない、私まで居なくなったらどうするの!父さんご飯だって作れないでしょ!」


「うるさい、うるさい、あー!うるさい。みんな出て行けばいいだろ、俺はご飯を作って欲しいとも、一緒に住んで欲しいとも言ってない!」


「あー、もう知らない!分かった、私も彼のとこ行くって決めたから。昔の・・母さんが生きてた頃の父さんに戻ってくれるって信じてた私がバカだったよ。荷物まとめたら今週中にも出て行くから」


 友紀ちゃんはリビングのドアを激しく閉め、階段を勢いよく登って行った。



 それから2日後、友紀ちゃんは迎えに来た彼と一緒に大荷物を持って家を出て行った。


「もうこの家にも帰って来ないから。お酒ばっかり飲んでいないで、ちゃんと忘れずねこにエサあげてよね。それじゃ、今まで育ててくれて


 友紀ちゃんはそう言うと、吾輩の前にしゃがみ込んだ。


「ねこ、ごめんね連れて行ってあげられなくて。元気でね、バイバイ」


 そう言って吾輩の頭を撫でると、ゆっくりと立ち上がり背を向けた。 

 吾輩は一生懸命「友紀ちゃん、待って、行かないで」と言ったけど、吾輩の口から出たのは


「ニャー、ニャー」


だけだった。玄関の扉が閉まり家の中は静まり返った。


 親父は仏壇の写真に向かってひとり呟いていた。親父の丸まった背中を見て、吾輩は拾われて来た頃を思い出した。いつも親父はひとりになった時、仏壇の写真に向かってぶつぶつと独り言を呟いていた。

 あの頃の吾輩には理解できなかった親父の言葉、でも今なら分かる。


「友紀が出て行ったよ。これで友紀も幸せになれるかな。こんな俺と一緒にいちゃダメになるもんな。俺はお前が居ないと、どうしていいのか分からないんだ。何でお前が死んで俺が生きてるんだよ。何でだよ」


 笑顔の写真の奥さんに親父はいつも話しかける。何も語らない、その写真に。


「親父、吾輩とならお喋りできるぞ。それに、吾輩は一緒に遊んでやれるぞ」


 吾輩は親父の動かない手や足をふみふみしながらいっぱい話しかけた。


「どうした?ねこ」


 親父は吾輩を見つめ力なく笑うと、優しく頭を撫でてくれた。




 友紀ちゃんが家を出て行ってから、親父おやじが飲む酒の量は益々増えていった。最近、親父は食事もほとんどとってない。吾輩のエサも忘れ気味で、吾輩は常にお腹を空かせていた。


「回覧板持って来たよ、ありゃ、ねこちゃんガリガリになってるじゃないか。あんた、ちゃんとエサあげてるのかい?動物飼うならちゃんと面倒みておやりよ」


 隣のおばちゃんは自分の家からキャットフードと猫缶を持って来て、吾輩の皿に入れてくれた。


「残りはここに置いとくからね。飲んでばかりいないでちゃんとエサやるんだよ」


「うるせえ、くそババア、早く帰れ」


 親父は回覧板ごとおばちゃんを追い返した。吾輩は久しぶりのまともなエサに興奮して、頭を皿に突っ込んで夢中になって頬張ほおばった。


「ねこ、すまん。今度からちゃんとエサやるからな」


 親父は吾輩の頭を撫でながら、弱々しい声で呟いた。



 最近、親父は咳き込む事が多くなった。吾輩のエサは毎日くれるようになったが、親父はいつご飯を食べてるんだろう。顔色も悪く常にふらふらしてる。昨日、吾輩のエサを買って帰ってくると、しばらく玄関から動けない程だった。


「親父、ちゃんとご飯食べてる?」


 吾輩の声に、無言で頭を撫ででくる親父の手がいつもより頼りなげに感じた。




 吾輩が目覚めると、今日も朝から親父は仏壇の写真に話しかけてた。


「なあ、昔家族でピクニック行ったの覚えてるか?お前が弁当作ってさー、どデカいおにぎりに子供達はしゃぎまくって。俺は塩味の卵焼きがいいって言ったのに、『甘い卵焼きじゃないと友紀や直也が食べれないでしょっ』ってお前が言ってさ、俺、本当は甘い卵焼きの方が好きだったんだよな。でも、お前があんまりにも子供達の事ばかり言うもんだからさ、ヤキモチ妬いてたんだよ。俺、バカだよな。あー、また家族皆でお前の作った甘い卵焼き食いたいな・・・なんて、な。今はもう俺の側には誰もいないけどさ・・・」


 親父が今にも消えて無くなりそうに見えた。


「親父、大丈夫か?ちゃんと寝てるか?ご飯食べてるか?」


 吾輩はいっぱい、いーっぱい親父に話しかけた。でも、吾輩の言葉は親父には伝わらない。


「ん?どうしたねこ、エサが欲しいのか?」


 違う、違うよ親父、吾輩は一生懸命親父の動かない左手に頭を擦り付けた。




 今朝は親父が布団から出て来ない。空の皿にはいつまでもエサを入れてもらえない。


「親父、もう朝だよ。起きないの?親父?」


 親父はぴくりともしない。親父の顔に頭を擦り付けても、胸の上に乗っかってみても親父は全然起きてくれない。吾輩は怖くなった。誰か呼んで来なくちゃ!


 吾輩は小窓から外に出ると隣のおばさんの家に行った。


「おばちゃん、親父がおかしいんだ、ねえ、おばちゃん来てよ!」


 吾輩は何度も叫んだが、おばちゃんの家のカーテンは全部締め切ってて中に人気ひとけは無かった。

 

 吾輩は道行く人に何度も何度も叫んだ。


「ニャー、ニャー、ニャー(誰か、誰か来て!お願い、誰か助けて)」


「何だ、この猫。俺はエサは持って無いぞ。しっ、しっ、あっち行け」


「ニャー、ニャー、ニャー(親父が動かないんだ!誰か親父を助けてよ)」


「ママ、猫ちゃんいるよ」


「触っちゃダメよ、病気持ってたら大変だからね。さあ、猫ちゃんにバイバイして早く行こうね」


・・・・・・・吾輩の声は誰にも届かなかった。



 家に帰っても親父はそのままだった。親父の側に駆け寄り、顔に手に身体に擦り寄ったが、いつものように優しく撫でてはくれなかった。


「親父、吾輩を見てくれよ。頭撫ででくれよ・・・」


 吾輩は、どんどん冷たく固くなっていく親父を、ただ見ている事しかできなかった。





 吾輩は知ってるよ、親父が本当はお酒なんて嫌いだって。

 吾輩は知ってるよ、親父が本当は寂しがりやだって。

 吾輩は知ってるよ、親父が本当はとても優しい人だって。

 吾輩は知ってるよ、親父が本当は子供達のこと大切に思ってるって。


 吾輩は知ってるよ、親父が本当は動物を飼うのは嫌だったって。

 命を育てるのが怖かったのに、吾輩をほっとけなくて拾ってくれたんだよね。

 でも、(ねこ)なんて名前はセンス無さすぎでしょ。まあ、吾輩は自分の名前好きだけどね。


 吾輩は知ってるよ・・・親父はもうひとりじゃ無いって。

 吾輩がずっと一緒にいるからね。



 吾輩は、冷たくなった親父の身体に寄り添いながら、初めて吾輩を胸に抱いた時に親父が呟いた言葉を思い出していた。


「お前もひとりで寂しかったんだな」





 隣のおばちゃんが異変に気付いて駆け付けた時には、ひとりと一匹の死体が横たわっていた。




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