3rd

 真水くん以外の人とキスをした。

 付き合ってはいないのだから、裏切りにはならないはず。

 でも――。

 その事実が傷のように残り、もう二度と彼の前には顔を晒せないと思っていたのに。


『……真水、です』


 電話越しに彼の声を聞いた瞬間――会いたい、と願ってしまった。

「だれでもいいから」と勝手な提案をして、それに乗ってくれた彼。

「2回目も私と」、となぜか願ってくれた彼。

 でも――。

 文化祭前日に2回目をした後、『もう1回』と口走った時。彼は応えてくれなかった。

 彼が私をどう思っているのかは、正直分からない。


『オレも、だれでもいいから』


 夏に聞いた彼の言葉を、私は「思い出作り」と解釈していた。

 真面目な気質の中に、秘めた情熱を燃やす彼のことだから、非日常的な体験に惹かれたのかもしれない――そう、理解していた。

 なのに。

 友達づてに連絡先を聞いてまで、私に電話をしてくれたのは、どういうわけなのか。

 それも、『3回目はいつする?』――なんて。

 淡い期待と鋭い痛みを胸に抱え、「会いにいってもいい?」と口にしたところ。


『オレがそっちに行くから』


 電話越しの彼は、慌てて『じゃあ』と小声で言った。

 もう21時過ぎ。自分から言いだしておいてなんだが、電車もあまりないし、どうするのかと思えば――待ち合わせ場所は、ここから徒歩1分のところにある森林公園だった。

 言われた通り、15分ほどしてから家を出ると。公園の青白い街灯下には、初めて見る私服の彼がいた。白い息がこぼれている。

 緊張で、冷えた指が震える。

 それでも、声をかけないと――。


「真水くん、だよね?」


 彼はパッと顔を上げ、コートの端を揺らした。

 濃い赤のマフラーが解けかかっている――急いで来てくれたのだろう。


「こんな時間にごめん。走ったら、10分くらいで来れた」

「えっと……意外と家、近かったんだね」


 真水くんは「あ」、と声を漏らすと、マフラーを差し出してくれた。


「お風呂上がりだったんだよね。夜は寒いですから……」

「あ、ありがとう」


 細やかな気遣いに、罪悪感の抜けない胸が締め付けられる。

 最初の時に貸してくれたタオルと、同じ匂い――マフラーをそっと首に巻きつけると、洗剤の香りに混じる彼の匂いが濃くなった。


「……あっち、座ろうか」


 誰もいない公園のブランコに誘導され、並んで座ると。街灯の灯りで月も星も見えない空を、真水くんは静かに見上げた。


「こんな近くに住んでたとか、驚いたよ」


 本当に。

 何だか、これまでの学生生活がもったいない気がしてきた。

 もっと早く彼と話せていれば――胸にしまっておく思い出が、今よりずっと増えていたかもしれないのに。


「ここで一緒に遊んだこととか、あったりして」

「……あったかも。小中は違ったよね。この辺学校多いし、選べるから」


 寒いけど、彼と話していると胸が温かくなる。

 あんなに罪悪感で潰れそうだったのに、いつの間にか自然と呼吸ができるようになっていた。


「大学、どこなの?」

「T大。受かったらだけど。遠いし、あっちで一人暮らしする予定だよ。真水くんは?」

「県内……実家から通う予定」


 真水くんは地元、私は家を出る――。

 ずっと怖くて聞けなかった。

 真水くんも上京するかも、なんてどこかで期待していた自分がいた。

 でも、これではっきりした。

 何の約束もない2人の道は、やっぱり交わらない。


「もう、滅多に会えないね」


 わざと声の調子を上げると。


「うん……」


 真水くんの手元で、ブランコの鎖が鳴った。

 彼も、私と離れることを惜しんでくれていれば良いのに――かすかに白い息を吐き出し、無理やり口角を上げる。


「キスする相手、探し直さなきゃだね」

「え? オレは……別にいらないけど」


 冗談に対しすぐに返ってきたのは、はっきりとした声だった。

 また、あの目――少し怒ったような顔が、こちらを向く。


「真水くんも……だれでもいいから、したかったんじゃないの?」


 目蓋がかすかに動いた。

 無言で見つめてくる彼を、真顔で見つめ返す。

 それでも真水くんは答えない。


「あのさ……」


 声色が低くなった。


「電話してた時の声、元気なかったけど。何かあった?」

「え……?」


 忘れかけていた痛みが、再び胸を締め付けた。

 偀くんとのキスが、頭をよぎる――。

 私は最低だ。

「だれでもいい」なんて嘘。もうとっくに、「彼がいい」に変わっていると分かっている。

 それなのに真水くんの優しさを、そして自分の心を裏切ったのだ。


「私……」


 真水くんとの、この関係を終わりにしよう。

 もう再来月には、互いの道を決める重大な試練が待っている。

 それに、次の春からは別々の環境で暮らすのだから――彼とはもう、道が交わることもないはずだ。


「私ね」


 もう、終わりにしないと――。

 安心する匂いのマフラーから手を離し、乾いた唇を指でなぞった。


「他の人とキス……したんだ」


 嫌な音を立てる胸を、ぎゅっと押さえつける。

 視線を膝に落としたまま、非難の言葉を待つ。

 しかし隣からは、呼吸の音すらも聞こえない。


「本当に、『だれでもいいから』したいだけだったんだよ」


 笑って嘘を吐く。


「でも安心して! もう満足したの。現実に戻る気になったから、受験が終わるまでは、もうだれとも――」


 ふと影が降りたのを感じ、顔を上げると。

 目の前には、いつの間にか真水くんが立っていた。

 私の座るブランコの鎖を掴み、こちらを見下ろしている。


「……真水くん?」


 怒り、呆れ――違う。

 見たことのない顔だ。

 街灯の明かりを映した瞳は、静かに私を捉えている。その瞳に見惚れるうちに、彼の顔が近づいてきた。


「えっ、ちょっと」


 ひとつ前も、その前の初めての時も、「いい?」と聞いてきた彼が、何も言わずに肩を掴んでくる。


「ちょっと待って! だから、もう終わりだって――」


 ふいと顔をそらすと、鎖の鳴る音が響いた。

 冷たい手が頬に触れ、強引に彼の方を向かせようとする。


「いや、ダメだから……!」


 真水くんは何も言わない。

 ただ、彼の暗く真っ直ぐな瞳に射抜かれた瞬間――腕の力が抜けた。

 同時に唇へ熱が灯る。

 深い。

 浅く優しいこれまでのものとは、まるで違っていた。

 離れても執拗に重なる唇に、短い吐息がかかる。

 熱の塊が唇の隙間をなぞる。

 前と違って偶然じゃない――強引に、中へ入ろうとしている。

 肩と頬に触れていた手が、いつの間にか頭と腰を引き寄せている。逃げられないように、強く。

 真水くんが、「私」を求めている。

 私も、もっと彼に近づきたい。

 深いところに触れたい。

 もう一生、この特別を忘れないように――。

 でも。

 強く胸を押し、深く追い求める唇から逃げた。


「はぁ……」

 

 頭と身体が分離したみたいで、すぐに動けない。

 溶けそうなほどに熱くなった目で見上げると、彼は口元を押さえ、必死に息を整えていた。

 声が出ない――。

 やがて息を整えた真水くんは、目元を前髪で隠したまま、こちらに向き直った。


「……家まで送るよ」


 まだ熱の残る手を、真水くんのもっと熱い手が包み込む。

 まだ、声が出ない。

 無言のまま、手を繋いで夜道を歩く間。私の意識は、繋いだ手に集中していた。

 真水くんの手は大きくて、暖かい。

 安心するのに、心臓が速くなる。

 でも、これで最後なんだ――。

 隣の真水くんは、まっすぐ前を向いたまま口を閉じたままだ。ただ、繋いだ手だけは、力強く熱を伝えている。


「……遅くにごめん。家の人には、オレから謝る」

「え、いいよ、元々呼び出したの私だし」


 家に着くまでにした会話は、それが最後。

 そして。


「勉強、頑張って。オレも、間に合うように完成させるから」

「え?」

「……なんでもないよ」


「バイバイ」でも「おやすみ」でもなく、真水くんはそう言って去っていった。

「何を完成させるのか」と訊く間も与えられず、早歩きの背中が、あっという間に遠くなっていく。


「……真水くん」


 あの3回目のキスで、彼の中に「私」が一生残ってくれたら良いのに――。

 彼の姿が完全に消えた後。

 頭の中には「明日からのこと」が浮かんだ。


「私も自分の道……進まないと」




 12月に入ってからは、毎日が本当にあっという間だった。

 受験の日まで、休日は1日8時間自主勉強する日々。私には後がないのだから、「絶対に受からなければいけない」――その強い意志の中に、他のものが入り込む余地はなかった。

 たまに廊下ですれ違う、彼でさえも。

 そして前より頻繁に家へ来るようになった偀くんとは、関係がすっかり戻っていた。

 あんなことがあったのが嘘のように、ゲームをしたり食べ歩きに連れ出してくれたり――。

 たぶんあの時は、真水くんへの罪悪感が膨らんでいただけ。偀くんに対して、家族以上の気持ちはなかったのだと、再確認できた。

 そうする間に年が明けて、元旦だけ勉強をサボって友達と初詣に行って――高校最後のお正月を有意義に過ごした。

 その後、共通テストが始まってからは、更にあっという間だった。学校も完全に自由登校になり、友達とも決まって会えない生活が続く。

 美術準備室のある旧校舎に、時々視線を向けることはあっても、彼に会いに行こうとは思わない。

 たったの一度でも振り返ってしまったら、戻れないと分かっているから。それは私にとっても、彼にとっても良くないことだから。

 彼は、真水くんは、「未来」ではなく一生大切な「思い出」だ。

 そう自分に言い聞かせ続けなければ、おかしくなりそうだった――。


「……真水くん」


 こうして未練がましく見上げるあの部屋に、今すぐ駆けて行きたくなる衝動を抑え、校門を出た。

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