第19話 小さな背中が背負ったもの

 夕焼けが照らす静寂。

 何秒なのか、何分なのか、どれだけその時間が続いたかは分からない。

 もしかしたら1秒も経っていなかったのかもしれない。


 しかし、どんな時間が経過していようとも、その小さな背中が背負っていたを私が

 その事実を双方が認識するのには充分な時間だった。




「──────だ」

踏み台これ、ここに置いておくから。出る時に使いなさい」


 私は視線を下に向け、踏み台を置き、ベルギアを見ないようにして家へと戻る。

 それを見てベルギアがどんな顔をしているかはわからなかった。






 家に戻り、座って手で目を覆う。


 ……ショックだった。

 気づけなかった。

 あんなにも痛々しいものを背に受けて尚も私と共に居てくれた。

 楽しいと、幸せだと言って微笑んでくれた。

 …………あの子の優しさに隠れていたものを私は気づいてあげられなかった。


 反面、納得した部分もあった。

 言葉を話せても話さなかったこと。

 異常に怯え、震えていた身体。

 目を見張る程の物覚えの良さ。

 自己肯定感の低さ。

 全てを諦めたかのような目。


 ベルギアの持つそれらはものなのだろう。


 何かを発言すれば叩かれ。

 何もしなくても叩かれ。

 命令されたことが遂行できなければ叩かれ。


 そんなことが用意に想像出来てしまう。


 ……つまるところベルギアは、一度奴隷になり、そこからまた奴隷商人に買われ、再び私に買われたという訳だ。


「…………ベルギア……」


 思えば、初めてここに来た時の夜。


『あの……あまり……痛いのは…………』


 あの言葉はどれほどの勇気を振り絞っていたんだろう。

 所有者に意見をする。それにどれだけの覚悟があったのだろう。

 怖かったに違いない。恐ろしかったに違いない。

 それでもその恐怖を振り払ってまで言葉にしなければいけない程に…………どれだけの苦しみを受けてきたんだろう。


「…………ッ……!」


 それを思うと心臓が縮んだように苦しくなる。

 手で強く目を押さえ必死に堪える。

 そうしなければ涙が止まらなくなりそうだったから。








 ペタペタと廊下を歩く音がした。


「………………旦那様」

「……ベルギア」


 気づけばベルギアがそこに居た。

 初めてここに来た日と同じように。

 髪を濡らしたままそこに立っていた。


「……おいで」


 送風具ブロワーを手に持ち、ベルギアを招く。

 ベルギアは俯いたまま、私の元へと寄ってきてくれた。


「…………」

「…………」


 いつものように髪を乾かしていく。

 送風具ブロワーの音だけが部屋に鳴り響く。

 私はどうするべきだろうか。

 素知らぬ顔で接するべきだろうか。言及するべきなのだろうか。

 今のこの態度がこの子を傷つけていないだろうか。

 それとも話すことで傷つけないだろうか。


 そんな堂々巡りを繰り返しながら私はこの長く綺麗な白い髪を乾かしていく。






「ベルギア、顔を上げて」


 前髪を乾かそうという時だった。


「…………」フルフル


 ベルギアは首を振った。


「ベルギア……」


 手で髪をかきあげ、少しだけこちらを向かせる。

 そうして、ベルギアと目が合った。

 綺麗な水色の目。その瞼は赤く腫れていた。


「……!」


 何度も何度も目を擦ったのだろう。

 私が去った後、泣き続けて、腫れて、擦って、やっと治まったからようやく出てきたのだろう。

 それでも今も零れ落ちそうで、それをこらえるために必死に我慢をしているのだろう。


「ベルギアッ…………!」


 思わず抱きしめる。優しく、力強く。

 この子が安心できるように。

 泣いてもいいんだとわかるように。

 もう痛い思いはしなくていいんだと示すように。

 私はただひたすらに抱きしめた。






「…………ご……ごめん……なさい」


 ベルギアが口を開く。

 その声は震え、潤んでいた。


「黙っていてごめんなさい……! 

 旦那様に…………! 嫌われたくなくて……捨てられたくなくてっ……!」


 それは不安と恐怖の発露。

 ずっと溜め込んできた思いが溢れ出し、叫びとなって言葉となる。


「嫌うものか、捨てたりなんてするものか……!」

「ごめんなさい……ごめんなさい……!」

「謝らなくていい……辛い思いをしてきたんだ。もうベルギアが辛い思いをすることなんてない……。辛いことなら全部私に吐き出していいんだ……」

「旦那様…………!」


 その言葉を受け、私を抱きしめる手が強くなる。


「痛かった……怖かった…………! 

 ずっとずっと辛かった……!!」


 辛い過去が吐き出されていく。


「いっぱい叩かれて……すごく痛くて……

 苦しかった……!」


 苦しかったことが溢れてくる。


「この家に来た時も、ほんとは怖かった……また叩かれるって思ってた……!」


 不安だったことが明かされていく。


「うっ……ふっ……うぅ…………」


 ベルギアは私の肩に顔を埋め、啜り泣く。

 私には小さな身体をただ抱きしめることしかできなかった。


「それでも……それでも……

 旦那様は優しくて……ベルギアを大切にしてくれて……名前もくれて……!」

「…………」

「ずっと楽しくて……幸せで……」

「…………」

「だけど……だから怖くなって……!

 背中を見て、旦那様がベルギアを嫌ったらどうしようって! ずっと怖くてぇ……!」


 背負った傷跡はどうしようもなくベルギアをずっと蝕んでいた。その痛みをベルギアはずっとひた隠しにして過ごしてきた。

 自分のために。私のために。幸せで楽しい今を失わないために。

 その優しい心を傷つけながらずっと耐えてきていた。


「旦那様が……そんなことするはずがないのに……ごめんなさい……! 信じきれなくてごめんなさい……!」


 不安、後悔、恐怖、自責……ありとあらゆるものがこの子の中を渦巻いていたのだろう。


 私はそれを取り除いてあげたい。

 陰ることのない笑顔でいて欲しい。

 そう思うと言葉が心から溢れ出てくる。


「大丈夫だから……。私は離れない。

 ずっと傍にいる…………ベルギアがそう誓ったんだろう? 大丈夫だから………………必ず私が幸せにするから……!」


 私も誓う。

 この子にもうこんな苦しみを負わせないと。

 痛みを背負わせはしないと。

 辛い思いなど二度とさせないと。

 絶対に幸せにすると。



「…………! う……あぁっ……

 わあぁぁぁぁぁぁぁ……あああああ!!」


 ベルギアの堰が切れたかのように慟哭が止まらない。

 私を抱きしめる手はさらに強くなる。離さないように、離れないようにと。強く、強く。

 私もそれに答えるようにとベルギアの体を強く抱きしめた。



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