第18話 変化




 テントが立ち並ぶ小さな国の『暁星ぎょうせい』にて。


 不満を抱いている場合ではない。

 ぎゅうぎゅうぎゅうぎゅう。

 身体を丸めては縮こまらせている紫宙しそらを前に、琉偉るいは思った。

 自分たちの為に吸血行為を必死に抑え込んでいるだろう紫宙を前に抱くべき感情ではない事は重々承知しているものの。

 紫宙が言っているように早くふじをここに連れて来るべきだとも重々承知しているものの。

 ここまで。

 こんなにも。

 こんな瀕死の状態で。

 藤の名前を必死に呼び続けるなんて。

 必要な事だとは重々承知しているものの。


(紫宙さん。兄様が居るのに。兄様の名前を呼ぶべきじゃないでしょうか。そりゃあ、藤さんが必要だって分かるけど。ぼくの猛毒の処置も、吸血衝動も、もしかしたらアルコール依存症の禁断症状も出ているのかもしれない。全部を処置できるのは、藤さんだって。分かる。けど。こんなに藤さんの名前しか言わないなんて。藤さんしか呼ばないなんて。やっぱり、紫宙さんと藤さんは、特別な関係。なんじゃ。ないのかな。だって。何か。藤さん。基本的に誰に対しても、つっけんどんな態度だけど。紫宙さんに対しても、そうだけど。やっぱり、他の人とは少し違うような気がする。硬質な空気がやわらかくなっている。ような。そりゃあ。疑ってない。紫宙さんの運命の相手は兄様だもの。ぼくには分かる。そもそも藤さんだって。ぼくにこっそり教えてくれたし。でも。やっぱり。ううん。もやもやする。ううん! こんな事を考えている場合じゃない! 兄様と一緒に藤さんを呼んで来るべきだよね! ぼくも兄様も今は一刻も早く紫宙さんから離れた方がいいはずっ! 紫宙さんを助ける為にも!)


「兄様」

「琉偉」


 羅騎らきの到着と紫宙の藤の名前連続呼びによって、混乱していた頭に冷静さを取り戻した琉偉。狼の姿から人間の姿に変化し、強く握りしめては上下左右に大きく揺さぶり続けた紫宙のタイロッケンコートの背面から手を離しては素早く立ち上がって、隣に立つ羅騎を見上げた時だった。

 いつの間にか狼から人間の姿に戻っていた羅騎に頼まれたのである。

 藤殿をここに連れて来てもらえませんか。


「兄様はどうするのですか?」

「紫宙殿の吸血衝動によって被害が出ないように見張っています」


 羅騎は琉偉へと身体を真正面に向けると手を伸ばしては肩を掴み、自分から琉偉に近づいては強く抱擁した。


「琉偉。私の愛する弟。君を一人で行かせる事はひどく心苦しい。ですが、君は一人でも無事に藤殿の元に行き、そして、ここまで連れて来る事ができると、私は知っています」


 自分よりも紫宙を選ぶんだ。

 琉偉は咄嗟に浮かんだ思考をぎゅうぎゅうに固めては遠くへと投げ捨て、羅騎を強く抱きしめ返した。

 スースースースー。

 胸に開いてしまった小さな穴は無視をする。小さな穴を行き来する乾燥した冷たい風も。

 藤に紫宙と羅騎の事情を聞いた時に。

 覚悟をしていたはずだ。

 覚悟はしていたはずだ。


(大丈夫。大丈夫。大丈夫。兄様には幸せになってほしい)


「兄様。兄様の言うように、ぼく一人で大丈夫です。行ってきます」

「琉偉」

「はい」

「琉偉に対する私の愛は何があろうと不滅です。不変ではありません。何故ならば、日々、愛が大きくなるばかりですから。深くなるばかりですから。愛しくなるばかりですから」

「っはい! ぼくも兄様に対する愛は日々変化していますっ! 大きく、深く、強くなるばかりですっ!」

「ええ。もちろん知っています」

「はいっ!」

「気を付けて行ってきなさい」

「はいっ!」


 琉偉は自分が先に羅騎から離れると、人間の姿から狼の姿へと戻っては勢いよく駆け出したのであった。











(2025.5.1)



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