第17話 不動




 テントが立ち並ぶ小さな国の『暁星ぎょうせい』にて。




 ッドッドッドッドッドッ。

 心臓が耳へと移動しては巨大化してしまったのではないだろうか。

 それとも未だ生きている聴覚が心臓の音を過敏に聞き取っているのだろうか。


(あの、時と、状況が)


 紫宙しそらは動いてくれるなよと身体に強く強く、念じ続けた。

 あの時と、状況が同じなのだ。

 死にかけた自分の傍に立つ愛しい人という状況が。

 死にかけた自分の身体が血を、命を強く強く欲しているという状況が。


(また、同じ過ちを、犯してしまう)


 血を吸い上げてしまう。

 血を吸い尽くしてしまう。

 命を喰らい尽くしてしまう。


(だめ。だ。だめだだめだだめだっ)


 この場から一刻も早く逃げ去りたい。

 殺してしまう前に早くはやくハヤク、


(さっさと俺自身を。いや。死ぬわけには。今。俺が俺自身を殺したとしても。坊ちゃんはどうしたって俺を殺したと思ってしまう。絶望してしまう。殺害したという罪の意識を一生抱えて生きていかなければならなくなる。そんな事をさせるわけには………けど。だったら。俺。俺は、どうしたら。どうしたら。いいんだよっ)


 殺すか、逃げるか。

 二者択一ならば、逃げるしかない。

 肉体は動かない。逃げられない。逃げられないのならば、このまま動かずにいたらいい。石のように固まっていればいい。


ふじ………藤を。呼んでもらえたら。処置してくれる。この状況を打破してくれる。藤。藤を呼んでくれと。言えたなら………狼の姿だったら、数時間で行って、連れて戻って来る事は可能。なはず。それまで。ここで動かずにいたら。解決する。藤に鎮静剤を打ってもらって、猛毒も処置してもらったら。そうしたら………どうしたらいい? 逃げてもまたこうしてかち合ったら。そうだ。藤のところに居ればいい。ずっと、死ぬまで。そうしたら、もし兄ちゃんたちが来たとしても対処してもらえる。そうだ。そうしよう。ずっと藤のところに居よう。その為にもまずは藤を連れて来てもらわねえと)


 感覚としては言っているような気がするが、現実問題、言葉を発しているのかどうかは分からない。

 分からない。

 分からないのだ。

 いつの間にか聴覚も欠落した。

 嗅覚も。

 感覚がすべて欠落した。

 現状が把握できない。


 こわい。


 どうなっているのか分からない事が途轍もなく怖い。

 どうなっている。

 悲鳴を上げ続ける。

 どうなっている。

 無事なのか。

 二人は無事なのか。

 殺してしまっていないのか。

 殺して、

 もしも、殺してしまっていたら。


(………藤を連れて来なくてもいい。まずは。俺から逃げてくれればいい。俺から距離を取ってくれればいい。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。俺は何で、)




『あなたはお父さんみたいな恋をするのかしら? それとも、お父さんのお兄さんみたいな恋をするのかしら?』




(俺だって、父さんと母さんみたいな恋がしたかった。伯父さんのような恋をしたかった)




 憧れを抱いていたのだ。

 父と母。

 伯父と伯母。

 二組の恋の話を聞かされた時からずっと、

 浮き立つような甘やかな恋に憧れていた。

 世界が美しく見えて生きる気力が増幅し続ける恋に憧れていた。

 自分よりもずっとずっとずっと大切にして慈しんで愛しむ恋に憧れていた。




(けど俺は、どうしたって。どうしたって。同じ過ちを繰り返してしまう)




 ほしいほしいほしい。

 頑是ない子どものように喚き散らかす。

 喰らい尽くしてこの身に堕とし込んで意のままに操りたい。

 そう、




(俺は、どうしようもねえクズ野郎だっ)











(2025.4.30)



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