拝啓 先輩

めい

 先輩、お元気ですか?


 あれからもう8年になりますね。毎年1月末になると私は先輩と過ごした夜を思い出します。朝5時半の駅の刺すような寒さ、覚えていますか?人目もはばからずに泣く私を慰めてくれましたね。

 

 あの日、先輩がどこまで考えていたかは分かりません。もしかしたら最初からそのつもりだったのかもしれないし、お酒の勢いにまかせただけだったのかもしれません。送別会の締めのつもりが二軒目になり、店を出たときにはもう終電に間に合うかどうかという時間でした。タクシーで帰ることもできたのに、どうしてついていったのか自分でもよく分かりません。気が付けば目の前にホテルがあって、でも不思議と嫌な気分にはなりませんでした。

 

 初めてのラブホはいろいろ衝撃でした。パネルから部屋を選ぶこと、ピンクとオレンジの妖しいライト、真っ赤なハート型ソファの狭さ、ボディソープの甘い香り、そして何より浴室のガラスドアにはびっくりしました。こんなの丸見えじゃん!って思ったけど、本来は見られてもいい人と泊まるのだから当然ですよね。フロントでクールな先輩が珍しく手間取り、おじさんが出てきたのは少し微笑ましかったです。結局私のラブホ経験は今日までこの一回だけです。

 

 二人きりになっても安易に触れようとしなかった先輩は紳士でした。でも私はどうしても一線を越えることができませんでした。それは先輩が結婚していたからだけではありません。ずっと先輩と同期の河村さんが好きだったからです。私の視線がいつも彼を追いかけていたこと、気付きませんでしたか?「何でだめなの?」と聞かれてはっきり答えられなかったのは、彼の顔がちらついたからと二人の関係がこじれるのが怖かったからです。


 なのに先輩は私の意志を尊重してくれました。朝まで何もせずに過ごしてくれました。私は目はつぶっていたけれど一睡もすることができませんでした。緊張で隣にいる先輩を見ることさえできませんでした。一度帰宅していつもどおり出勤しましたが、仕事中もどこか上の空だったのを覚えています。先輩はその頃、もう神戸へ向かう新幹線の中でしたね。


 帰り道で涙がこぼれてきたのは、お別れが悲しかったからではありません。先輩の優しさに応えられなかった自分が情けなくて、申し訳なかったからです。当時の私は河村さんが婚約の話をするたびに辛くて、なのに嫌いにもなれなくて苦しい思いでいっぱいでした。そんなとき先輩から好意を向けられて、帰りがけに突然電話がかかってきて嬉しかったんです。でも寂しさから中途半端な気持ちでついていってはいけなかったと思います。「何で泣くんだよ」と言われましたが、泣きたかったのは先輩の方だったかもしれません。


 今となっては店の名前もホテルの名前も覚えていません。でもあの数時間は私にとって大切な思い出となっています。あんなに好きだった河村さんより心に焼き付くなんて不思議なものです。それはあの夜、何もなかったからだと思います。何もなかったからこそ、こうして素敵な思い出になっているのだと思います。歳を重ねるごとにあのときの先輩の温かさが身にしみるようになりました。


 新卒の私にとって恵比寿は大人の街でしたが、今では行きつけの店ができるほどになりました。西口のバルでいつもの!と言えば隠しメニューが出てくるのはちょっと自慢です。プライベートでは男の子のママになり、日々仕事と育児に奮闘しています。先輩の息子さんはもう中学生ですね。きっと先輩に似てすらりと背が高くなることでしょう。


 春に赴任してくる課長が神戸出身で、ここ何日かまた先輩のことを考えていました。先輩が会社を去ったのはもう4年も前ですが、いつだったかシンガポールにいるらしいと風の便りで聞きました。職場がどこだろうと相変わらず颯爽と働かれていると思います。連絡先は削除したけれど、社内便でいただいた名刺は今も大事に机の奥に保管してあります。


それではくれぐれも身体に気を付けて下さい。

特に深夜の日本酒は次の日残りますよ。

遠くから今後の活躍を心よりお祈りしております。

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拝啓 先輩 めい @meimei139

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