雨の日のリボン①
――静かな雨音が、そっと鼓膜を揺らす。
長い髪を指に巻き付けながら、少女は優しい笑みを浮かべた。
「…最近、どう?」
会話の始まりとして定番の言葉とはいえ、この状況で問うにはあまりに場違いな言葉に、少女は苦笑を浮かべた。
…最近の様子なんて、見れば明らかなのに。
「…こんなこと言う資格、ないかもしれないけどさ」
そう言って少女は、フッと目を細めた。
目の前の彼女に、当時から大きく変化した想いを、伝えるために。
「――あたし、あんたのこと、ホントは好きだよ」
――昔から、色んな人にチヤホヤされてきた。
理由はいっぱいあったと思う。年の離れた兄がいたこととか、おしゃべりが好きでコミュニケーションを取るのが割と上手かったこととか。
でも、1番大きかったのは…多分、見た目だったんだと思う。
元々役者をやっていた父と、大学時代にミスコンで賞を獲った母。身内から見ても、2人の容姿は、隙がなく美しかった。
その2人の間に生まれたあたしと兄も――自分達については確証が持てないので分からないが――おそらく、それなりに容姿は整っていたんだと思う。
その証拠に、兄は毎年2月になると、部屋に匂いが染みつくほどのチョコを持ち帰ってきていたし、あたしも…兄ほどじゃないけど、異性に告白された回数は、他の人よりそこそこ多かったんじゃないかと思う。少なくとも、小学生の中で比べれば、頭1つ抜けていたんじゃないだろうか。
…でも、だからこそ、不満だった。
今まで”想われる”側だった分、いざ自分が”想う”側になった時、想像以上に自分が無力で。
見た目も社交性も、あたし自身の恋において、大した武器にはならないのだと気付いた時、酷く落胆した。
…でも、アイツは、まだ特定の誰かの方を向いてるわけじゃない。
あたしのことを特別視してくれてるわけじゃないだろうけど、それは他の子達だって一緒。
だから、焦る必要はないんだって…そう思ってた。
――あの子が、転校してくるまでは。
「…で、この数字をこの式に…――」
ある日の授業中。
あたしは、ぼんやりと窓の外の景色を眺めていた。
僅かに開いた隙間から、初夏の爽やかな風が流れ込んでくる。
――チョンチョン。
「!」
不意に肩をつつかれ後ろを見ると、クラスメイトの女子がスッと紙を出してきた。
小さく折りたたまれたそれを開くと、こう書いてあった。
『何見てるの?』
はっとして慌てて彼女の方を見ると、彼女はニヤニヤ笑ってこっちを見つめていた。
「~~~~~っ」
渡された紙に『何も見てない』と走り書きして後ろにつき返すと、彼女は不満気な顔で前に向き直った。
ったく、すぐにそういう目で見てくるんだから…!
後ろから気付かれないようにしながら、こっそりと視線を窓の外に戻す。
眼下には校庭。どうやら、隣のクラスが体育をやっているらしい。
体操着姿の生徒達が、次々にトラックを走っていく。
…そういえば、そろそろ運動会だな。
ぼんやりとそんなことを思いながら、あたしは無意識に1人の生徒に焦点を合わせていた。
身長はあたしと同じか、少し上。短めの茶色がかった髪。周りをよく見ている大きな瞳。
その場の雰囲気をパッと明るくさせる、朗らかな笑顔。
もしかしたら大袈裟かもしれないけれど、少なくともあたしの目には、彼はそんな風に映っていた。
今は、よく一緒にいる同じクラスの男子と談笑している。どうやら、彼らが走るのはまだ先らしい。
早く走らないかなー…そんなことを考えながら視線を移すと、トラックの中に1人の女子が立っているのが目に入った。
確かあの子は、先月隣のクラスにやってきた転校生だ。大人しくて、どこのグループにも属さず1人でいることが多い、という噂を聞いた。
…そういえば。
最近のことだが、どうもアイツが転校生によく絡みに行っているらしい。
まさか異性として意識しているなんてことはないだろうし、アイツのことだから、きっとお節介でも焼いているんだろうけど…少しだけ不安になってしまう。
アイツ自身がなんとも思っていなかったとしても、転校生の方がアイツに変な気でも起こしたら…そういう可能性だってないわけじゃない。
…これは、早急に調べなくては。
その瞬間、あたしは転校生について徹底的に調査することを誓い、ノートに目を落とした。
――しばらくして、校庭の方から凄まじい歓声が聞こえてきたけれど、あたしの頭の中はそれより転校生についてどう調べていくかでいっぱいになっていた。
﨑森黄乃。
それが、隣のクラスに転校してきた、彼女の名前。
普段は、かなり大人しめ。自分から言葉を発したりしないし、クラスメイトが騒いでる時も我関せず、って態度を貫いてるみたい。これは噂通りだ。
友達と一緒にいることも少なく(アイツはよく声をかけに行ってるけど)、休み時間も大半は1人で過ごしてる。
背は女子にしては高めで、少し癖のある茶髪を括っている。
前髪が長いから顔は良く見えないけど、割と整ってる顔…だとは思う。
ただ、普段からあまり自己主張をしないから、何を考えてるのか良く分からない…というのが、あたしの率直な感想だった。
それは彼女のクラスメイトも同じだったらしく、転校当初は色んな人が彼女に話しかけに行ったけど、リアクションが薄いから今は誰も声をかけなくなってしまったんだとか。
別に、いじめなんて大層なことが行われてるわけじゃないし、用があれば普通に話すことも出来るんだろう。
でも、1度孤立してしまうと、その状況を変えるのは意外と難しい。
多分アイツは、そんな現状を変えたがっているんだろうけれど…いくらアイツが社交的でも、今の状況を覆すことは、多分もう無理だろう。
それぐらい、彼女はクラスの中で、どこか異質な風にあたしには見えた。
これなら、あんま心配する必要もないかな…そう思った矢先、アイツが席から立ち上がり、転校生の方に歩いていくのが見えた。
「――っ!?」
驚いて、つい廊下で棒立ちしてしまう。
「…で、あの…が…」
「……そ…んだ…」
んんん。
頑張って耳を澄ませるけど、距離があって全然聞こえない。
あたしが隣のクラスの前で悶々としていると、「な、何してるの…?」と、後ろから突然声をかけられた。
「っ!!??」
いきなりのことに、ズザザーッとものすごい勢いで後ずさりしてしまう。
「なッ、い、一体何っ…!?」
「ご、ごめん、そんなに驚くなんて思わなくて…!」
「て…。な、なぁんだ、あんたか…」
驚いて損した、という言葉を飲み込み、彼に向き直る。
そこに立っていたのは、ただいま教室で隣人のクラスメイトだった。ちなみに男子である。
去年までは全く話す機会に恵まれなかったけど、席が近くなったことでよく話すようになった、気のいい友人だ。
学年トップの成績を持つ天才少年だが、それを鼻にかけるようなことは一切なく、いつも優しい微笑みを浮かべている。
「1組に、何か用事でもあったの?」
「用事…ってわけじゃ、ないけど…」
まさか想い人が取られるんじゃないかと心配して偵察に来たなんて、絶対に言えない。
「そっか。でも、だったらどうしてここに?」
「えーっと、それは、そのー…」
うまい誤魔化し方が思いつかずに視線を彷徨わせていると、彼の方が、「あぁ、そういうことか!」と言って手を打った。
「え…」
「もしかして、あの転校生のことを見に来たの?」
「っ!?」
いきなり図星を突かれて、言葉が出てこなくなる。
「い、いやー、そういうわけじゃ…」
「彼女、すごいって噂だもんね。なんでも、1組ではダントツで足が速かったみたいだし」
「…へ?」
足?
思ってもみなかった言葉に聞き返すと、彼は「うん」と頷き、
「すごいよねー、男子より速いなんて。僕は足遅いから、ちょっと羨ましいよ」
と言って微笑んだ。
「え…。あ、あぁ…。そ、そうだね」
自分の気持ちが悟られたわけではないことに気付き、少しだけ安心してしまう。
よく考えれば、あたしはただ1組の前で立ち止まっていただけだ。彼女の方をガン見していたわけでもないし、普通は気付かれないはず…多分。
「あ、そろそろ授業始まるよ。教室、戻ろうよ」
「あ、う、うん」
言われて時計を見ると、確かにそろそろチャイムが鳴る時間だった。
去り際、チラッと教室の中を盗み見ると、転校生とアイツはもう会話を終えたみたいで、近くにはいなかった。
…一体、何話してたんだろ。
きっと大したことはないんだろうって、分かってはいたけど、微かな不安はいつまで経っても拭えなかった。
それから数日が経ち、うちのクラスでもリレー選手の選抜が行われた。
運動が得意なあたしは当然リレー選手に選ばれ、その日から校庭で自主練が行われることになった。
昼休み、体操着に着替えて校庭へ行こうとすると、後ろから声をかけられた。
「夏茂さん、リレーの練習?」
「ん、龍也」
いつも通りの笑顔を浮かべ、隣人が朗らかに話しかけてくる。
「毎年リレー出てるんだっけ。すごいよね」
「いや、別にそんなことないよ。あたしは勉強より運動の方が好きってだけで」
サラッとそんなことを言ったが、正直なところ、勉強は苦手だ。昔から、座って本を読むより、外で体を動かす方が好きだった。龍也に比べたら、それこそ成績は天と地…いや、最早それを通り越して、地下深くに埋もれてしまうかもしれない。
「龍也は圧倒的に勉強派だもんね。いいなぁ、あたしにもその頭脳分けてよ」
「あはは、全然大したことないんだけどなぁ…」
謙遜したように笑っているけれど、この人の頭がどれだけ良いかということは、隣人になってひしひしと感じているし、学年全体に知れ渡っていることだ。それでも素で自己評価が低いから、あまりしつこくは褒められないのだけど。
龍也に簡易な応援の声をもらい校庭に出ると、他クラスの人達も運動会に向けて色々と練習してるみたいだった。
その中に、アイツの姿を見つける。
体操服姿で、トラックの前で準備運動をしている。パッと見た感じ足の速い生徒が集まっているから、きっとリレーの選手なんだろう。
照人がいるってことは…もしかして、あの子もどこかに?
そう思ってサッと辺りを見回したけど、彼女の姿はどこにも見当たらない。
…もしかしたら、選手全員参加の練習じゃないのかも。
若干違和感を感じたけれど、あたしはそう自分の中で﨑森さんがいない理由を決定させて、すぐに自分の練習に取り掛かった。
1組とは離れたスペースを陣取り、他クラスを見習って準備運動をする。
その合間にも、あたしはチラチラとアイツに視線を送り続けた。
準備運動を終えたアイツは、その後クラスメイト達と一緒にトラックを走り始めた。
そこまで速くないペースだから、多分アップだろう。
他クラスを邪魔しないように、限られたスペースを上手く使って走り込みをしている。
「…かっこいいな…」
無意識に、そんな感想が口から漏れて、ハッとして周囲を見回す。
幸い、あたしの近くに人はいなかった。
「ふぅ…」
ほっと胸を撫でおろし空を見上げようとすると、視界に見覚えのあるシルエットが入った。
…あれ。
校舎の3階。窓際の席に、見覚えのある生徒が座っている。
間違いない。﨑森さんだ。
それと、隣にいるのは…確か、照人に”みさお”って呼ばれてる男子だ。
苗字は分からないけれど、照人とよく一緒にいるから覚えている。
2人で話しながら、校庭の方を眺めているみたいだ。
…てか、どうしてあの子は、練習に参加してないの?
1度引っ込めた疑問が、再び胸の中で膨れ上がってくる。
クラスを超えて噂になってるくらいなんだから、当然彼女も選手に選ばれてるはず。
それなのに、昼休みの練習はサボって、別の男子とのんびり見物?
「……」
…何それ。
めっちゃ腹たつ。
ただの八つ当たりだと分かってはいたけど、それでもあたしは、自分より実力があるのに練習に参加しようとしない彼女の態度に酷く苛立った。
そして、いやいや別にそれで照人の気が変わるわけじゃないとアイツの方を見れば、今度は﨑森さん達が視線を向けているのは照人なんじゃないかという気がしてきて、なおさらモヤモヤとしてしまった。
…結局、その日の練習はあまり集中できず、あたしはぼんやりしたまま昼休みを終えた。
それから、かなり時間が経った。
運動会が目前に迫り、校内はどこか浮足立った雰囲気に包まれている。
でも、あたしの心はちっとも浮足立ってなんかいなかった。
結局あれから、﨑森さんがトラックを走る姿を見ることはできなかった。それもそのはず、後から聞いたことだが、どうやら彼女はリレー選手を辞退したらしかった。
それだけ才能があるのになんで?と思ったけれど、さすがに他クラスの事情に首を突っ込むこともできないし、特に指摘はせず黙っている。
でも、一部の生徒からはやっぱり不満の声が上がっていたみたいだ。当然だ。だって、彼女が出場すれば、ほぼ間違いなく1組は優勝できる。
そのぐらいの力が、彼女にはあるのだから。
でも、あの子はなぜだかその栄誉を得ようとしない。一体何を考えているのやら。
「はぁ~あ…」
今日は運動会前日。あたしは家に帰った後、兄にちょっとしたお使いを頼まれて外に出ていた。
大学生の兄は、いつもパソコンの前で難しい顔をしながら課題と向き合っている。今も、なんだかよく分からないレポートの締め切りが迫っているとかで、寝不足が続いているみたいだった。
…まぁ、こういう時にお兄のことを支えられるのは、1番近くにいるあたしであるべきよね。
兄に頼られたことは少し誇らしいが、明日のことを思うと憂鬱になる。
…いやいや、別に運動会に対して恨み言を言っても仕方がないじゃんか。運動会が嫌なわけじゃないんだし。
ていうか、モヤモヤするのも明日で終わりって考えれば、清々してくるし!
そうだ、明日は誰よりも速く走って、みんなをアッと驚かせてやろう…そうすれば、﨑森さんもきっと出場しなかったことを後悔するはず…そんな風によく分からない方向に想像を膨らませていると、最寄りの駅に到着した。
兄から頼まれたものを買うには、隣町まで繰り出さなきゃいけない。
若干時間はかかるけど、今日は下校も早かったし、隣町といっても電車で15分とかで行けちゃうから、大した負担にはならない。
買い物ついでに、洋服でも見ていこうかな。この時期なら、夏物がいっぱい並んでるかもしれない。
そう考えると、なんだか少し楽しみになってきて、我ながら単純だなーと呆れてしまった。
「えーっと…」
手元のリストと照らし合わせながら、1つ1つ商品を手に取って、合っているかを確かめる。
ここは隣町にある大型家電量販店。あたしが睨めっこしているのは、その中のパソコン用品の売り場だ。
「えっと、USBが2つに、変換アダプタ…。え、何これ、タイプC…?」
よく分からない単語の羅列に、頭が混乱してくる。
…ようやく買い物を終える頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
結局服を眺めることもできず、そのまま帰路につく。
あーあ、せっかく来たんだから、気晴らしでもしたかったんだけどなぁ。
そんなことを考えていると、「あのー…」という声が背後から聞こえてきた。
若い男性の声だ。誰かに話しかけようとしているらしい。
そんな弱々しい声じゃ、誰も振り向かないわよ…そう思って足早に通り過ぎようとしたら、「あの、すみません」と、今度ははっきりとした声で呼びかけられた。
…あれ、これもしかして、あたしが呼ばれてる?
おそるおそる振り返ると、そこには、スーツをピシッと着こなした小洒落た雰囲気の男性が立っていた。
「あっ、気付いていただけて良かったです。今、お時間少々よろしいですか?」
「は、はぁ…」
猛烈に面倒なことになりそうな予感がしたが、断ることもできず、その場に立ち止まる。
「…実は私、こういう者でして」
意外にも丁寧で流暢な口調で話すその男性は、スーツの内ポケットらしき部分から、1枚の紙――いわゆる”名刺”を、あたしの方に差し出してきた。
「り、りえん…?えぇっと…」
「”
「アイドル…」
あまり実感のわかない誘い文句に、ぼんやりと返事をする。
…今までも、こういった誘いは何度か受けたことがあった。
街を歩いていると、見知らぬ大人に声をかけられ、今みたいに言葉巧みにその人の仕事について紹介される。
読者モデルなんかにスカウトされたことはあったが、アイドルは初めてだ。
「実は今、大きなプロジェクトを企画しておりまして、新人アイドルを募集しているんです。もしご興味があれば、こちらに載っている番号にまでご連絡ください」
「えっ、あ、あの…」
「では、これで失礼いたします。お時間いただき、ありがとうございました」
何かを聞き返す間もなく、その男性はサッとその場を去ってしまった。
「……」
…アイドル、ねぇ。
こういう風にスカウトしてもらえるのは嬉しいけど、あんまりそうゆうの、興味ないんだよなあ。
まぁ、そんなに気にすることないか。
あたしはポケットにもらった名刺をねじ込むと、そのまま駅に向かって歩き始めた。
――翌日。
空はすっきりと晴れ渡り、絶好の運動会日和となった。
学校に着いたら、まず真っ先に体操着に着替え、準備をする。
「よっしゃ、絶対優勝するぞー!」
「最後だし、最高の思い出にしようね!」
どの生徒も、やる気は十分みたいだ。
熱のある空気に自然と気分が高まっていく。
…そういえば、アイツはどうしてるんだろ。
運動会なんてアイツは大好きに決まってるし、きっとクラスの中心で円陣でも組んでるんだろうな。
そう思って、1組の様子を窺ってみたけど、生憎アイツの姿はそこにはなかった。
…もう校庭に出ちゃったのかな。
そう思い、校庭を一通り見回してみたけど、やっぱりアイツの姿は見当たらない。
おかしいな。
不思議に思っていると、視界に見覚えのある男子が映った。
「あ」
あの人は確か、照人と仲良い人!
クラスメイトと談笑してる彼に狙いをつけ、そっと近づく。すると、
「…あれ、君は確か…」
…一瞬で気づかれた。
「君、よく照人と話してる子だよね。夏茂さん…だっけ?」
「えっ、あ、う、うん、そうだけど…」
よ、よくあたしの苗字知ってるな。
「僕は、須上操。なんか、こっちの方に目線送ってたみたいだけど…。もしかして、照人に用事でもあった?」
「えっ」
な、なんなのこの人。
あまりにも的確にあたしの考えてることを当ててくるから、少し怖くなる。
「ま、まあ、そんなとこ」
「そっか。…でもごめん、照人は来てないんだよね」
「えっ」
アイツが、まだ来てない…?
「いつも、結構早く来てるのに…」
「へぇ、よく知ってるね」
「! や、登校時間がほぼ一緒で、たまーに会うっていうか…!」
まぁ、通学時に見かけることはざらにあるので、嘘は言ってない…はず。
「そうなんだ。…そっか」
「…?」
ふと、みさおくんが暗い顔をした気がして、思わず彼の目を覗き込むと、「あ…ごめん」と言って、彼が顔を上げた。
「どうしたの?」
「いや…今日、照人は学校に来ないと思うから…」
「え?」
照人が?
「いやいや、今日運動会当日だよ?アイツだったら風邪引いてても来るって」
「うん。…普段だったら、そうなんだけどね」
そう言って、彼は不安そうな瞳でこちらを見つめてきた。
「…何か、あったの?」
「僕も、詳しいことは分かんないんだけど…まぁ、きっと後から教えてもらえるんじゃないかな」
「はぁ…」
なんだか会話内容がぼんやりしていて、イマイチ伝わってこない。
「…まぁとにかく、照人はまだ来てないのね?」
「うん。それは確かだよ」
「そう…分かった」
来てないのなら、探しても仕方がない。
あたしはみさおくんにお礼を言うと、その場を後にした。
その後、運動会は滞りなく進行した。
みさおくんの言っていた通り、照人は学校に姿を見せることはなかった。
そして、あたしだけに限らず、他の生徒達も、彼が姿を見せないことを不安に思ってるみたいだった。
「おいおい、アイツリレーの選手だろ?どうすんだよ」
「どうするも何も、来てないんだから補欠に走ってもらうしかないだろ」
「いやあでも、それで追いつけるか…」
最後の運動会に対する思い入れは、みんな同様に強いらしい。照人という戦力を失い、1組にはどこか諦めたような重い雰囲気が漂っていた。
「なんか1組、元気ないね?」
「あ、龍也」
即席で校庭に作られた観客席の、自分のクラスのエリアで水分補給をしていると、龍也が隣にやってきた。
「あんた、自分の競技は?」
「もう出番は終わったんだ。後はのんびり観るだけ」
そう言って、手に持った水筒の蓋を開け、ゴクリと水を飲む龍也。
「夏茂さんは?競技、まだあるんだっけ」
「あたしも、大体終わったけど…最後に、リレーがある」
「あ…。そういえば、そうだったね」
今のところ、クラスごとの点差はそこまで開いていない。現在1位は我らが2組で、2位が1組、そして3位が3組という結果になっている。
競技数も残り少ないし、おそらくリレーの結果で順位が大きく変動することになるだろう。
「今日、1組のリレー選手が休みみたいだね。だからあんなに暗い雰囲気なのかな」
「…多分、そうだろうね」
向こうのクラスの選手事情はよく知らないが、﨑森さんがリレーを辞退した以上、即戦力になるような選手はいなかったのかもしれない。
そうなると、戦力が単純に2人削がれたことになり、1組としては大ダメージだ。
…照人、今、何してんのかな。
この場にアイツがいないことが気がかりで、そんなことばかり考えてしまう。
みさおくんは、今日アイツが学校に来ないと思うと言っていた。
”思う”という言い方はしていたけど、妙に確証を持ってそうな雰囲気だったし、仲の良い彼なら、何か事情を知っていたのかもしれない。
もっと詳しい話を聞いておくんだったと思うのと同時に、いや余計なことに首を突っ込むのは良くないと自制を促す自分がいる。
アイツの問題はアイツの問題だし、あたしが何かするのは筋違いだろう。
でも…やっぱり、心配なものは心配なのだから、仕方がない。
「夏茂さん…」
龍也が心配そうにあたしの名前を呼ぶ。その時、
「最終競技に出る人は、入場口に集まってくださーい!」
係の生徒が、そう大声を上げるのが聞こえた。
「やっば、行かなきゃ」
「…いよいよだね」
急に意識が現実に引き戻され、途端にプレッシャーがあたしを襲ってくる。
今のところあたし達のクラスは1位だけど、このリレーで負ければ順位を引っくり返される可能性は十分にある。…みんなの期待に応えるためにも、ここでしくじるわけにはいかない。
「…っよし!」
パンッ、と頬を叩き、あたしは一旦思考を放棄することにした。
とりあえず今は、難しいことを考えるのはやめる。
最後の運動会なんだから、みんなに、優勝をちゃんと持って帰ってこなきゃ!
「…行ってくる!」
「…行ってらっしゃい」
優しい笑顔で送り出され、気合のこもった表情で入場口に向かう。
入場口に着くと、係の人がゼッケンを配っていた。
名前を言ってゼッケンを受け取り、パッとそれを身に着けその場に待機する。
「…なぁ、あれって…」
「え、なんで?」
ふと、周りがざわめいているのに気づく。
ちょっと、本番前の引き締めるべき時間に、一体何話してんのよ…。
気になって振り向くと、同じクラスの選手達が、みんな同じ方向に視線を向けていた。
前方の、ゼッケンを配っている係の人に目を向けている。
一体何が…。
他の人に倣ってそっちを見て…あたしは一瞬、目を疑った。
「……え?」
…なんで。
なんであんたが、ゼッケンを受け取ってるの?
そこには、係の人からゼッケンを受け取る﨑森さんが立っていた。
…わけが分からない。
呆然としたまま、あたしはトラックに立っていた。
生徒達から熱い視線が注がれる中、あたしの隣に、﨑森さん本人が立っている。
なんで?あんたは、リレーを辞退したんじゃなかったの?
もしかして、その話自体がデマだった?
様々な憶測が頭の中を過る。
﨑森さんがリレーに出るということはつまり、1組の他の選手が彼女に代わったということだ。
本番に突然選手が変わるなんてことは普通ありえないけれど、その特別なパターンが成り立つケースが1つだけ存在する。
リレー選手の欠席。
「あ…」
それに気づいた瞬間、あたしの頭の中で、点と点が線で繋がった。
1組には今日、照人がいない。そして、照人はリレーの選手に選ばれていたはずだ。
原則選手が欠席した場合は補欠の生徒が走るはずだが、彼女の場合学年の誰よりも足が速いはずだから、自分が走ると宣言すれば、他の人は反対したりはしないだろう。
ということは、おそらく…彼女は、照人の代理。
「……」
…まさか、こんな形で対決することになるなんて。
予想もしていなかった状況に、内心動揺してしまう。
どういう経緯で彼女が代理を務めることになったのかは分からないけど…とにかく、こういう状況になってしまった以上、彼女と戦わなきゃいけないのは明白だ。
「これより、運動会最後の種目になります、学年合同リレーを始めさせていただきます!」
放送委員の高らかな声が響き渡り、生徒達の話し声が止む。
「このリレーで、この運動会の優勝クラスが決定します。みなさん、最後の力を振り絞って、選手のみなさんを全力で応援しましょう!!」
「うおー、2組いっけー!!」
「1組ファイトー!!」
「3組、負けんなー!!」
熱烈なコールが始まり、選手の緊張感が一気に高まる。
「第1走者の方は、スタート位置に付いてください」
放送委員の人が呼びかけ、第1走者がスタートラインに立った。
リレーで走るのは、1クラスにつき合計8人。あたし達が走るのは8番目――つまり、アンカー。
しばらくは、他の人達が走る様子を見ることになる。
「位置に付いて…よーい…ドン!!」
パンッ!!
ピストルの音が鳴り響き、3人の走者が一斉に飛び出した。
瞬間、観客の熱量が一気に上がる。
「いっけーーーー!!!」
「引き離せーーーー!!!」
大きく上げられる歓声の中、1人目の選手から2人目の選手へバトンが渡った。
今のところ、3クラスの間に大した差はない。3組が1位、1組が2位、2組が3位。
ビリか…。
まだ分からないとはいえ、すでに若干不利な状況に置かれていることに不安を感じる。
…いや、弱気になっていちゃダメだ。
まだ走者はたくさんいる。勝負はこれから…!
しかしその後、順位は一切揺らぐことなく、固定されたまま次々に走者が入れ替わっていく。
走者ごとの差もじわじわと開いてきて、徐々に焦りが強くなっていく。
ヤバい…。
じわりと額に汗が滲んできて、拳をギュッと握っていると、突然、ズサァッ!という音と共に砂埃が上がった。
「!」
…トラックのカーブのところで、1人の生徒が蹲っている。
どうやら、インコースで追い上げようとした際に転んでしまったらしい。
右手から離されたバトンは赤色――1組だ。
思わぬハプニングに他の選手も動揺したみたいだったが、転倒ぐらい毎年起きている。これも勝負だと早々に割り切ったのか、大してペースを落とすことなく走り続けている。
転んだ選手も大したケガではなかったのか、すぐに立ち上がってバトンを拾うと、こちらに向かって走り始めた。
今走っているのは6人目だ。つまり…この次に走るのは、あたし達になる。
先ほどのハプニングで順位が入れ替わり、1組は他のクラスから大幅に離されていた。2組が3組との距離をじわじわと詰めていて、そのかなり後ろを1組の転んだ生徒が走っている。
「っ、お願い!」
「りょうかいッ!」
選手の友達から勢いよくバトンを渡され、あたしはすぐにトラックを走り始めた。
大きく腕を振り、足を上げ、食らいつくように目の前の背中を追いかける。
――第7走者と第8走者は、他の選手より長い距離を走ることになっている。この猶予を逃すわけにはいかない。
校庭を半周したところで、3組の選手を追い越すことに成功した。
「おぉーっとここで2組、3組を抜かしたーー!!現在1位は2組、2組です!!」
放送委員の興奮したような実況が、すごく遠くに聞こえる。
…よし、とりあえず抜かせた。
これで、このままゴールまで走りきれば…!
その場で勝利を確信し、1人ほくそ笑む。
…その瞬間。
不意に、空気が変わったような気がした。
「っ…?」
よく分からない違和感。
それが、観客が静まり返ったことによるものだと気づく頃には、もう、全てを引っくり返されていた。
「……」
吹き抜ける風。
あたしよりはるかに速く、彼女の背中が遠ざかっていく。
『彼女、すごいって噂だもんね。なんでも、1組ではダントツで足が速かったみたいだし』
龍也の言葉が、脳裏によみがえる。
…ヤバい。
これは、負ける。
…その後、何がどうなったのか、その時のあたしにはよく分からなかった。
気がつけばリレーは終わっていて、涼しい顔をした﨑森さんが、興奮した様子の放送委員に問い詰められていた。
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