晴れの日のオルゴール④
「…今言ったことが、大体の事情だ」
「はい…」
初めて入った応接室で、俺は事の顛末を先生から聞かされていた。
…父が倒れたのは、今日の午後3時頃。
仕事の最中に、突然意識を失ったらしい。原因は過労。
意識を失った後すぐに病院に搬送され、意識自体はすぐに戻ったが、しばらくは仕事を休んで療養する必要があると言われたそうだ。つまり、入院しなければいけないということである。
その事実が分かった後、俺に何度も連絡をしてくれていたらしい。
…今更ながら、後悔の念が押し寄せてくる。
俺は、一体なんのためにケータイを所持しているのか。こういう非常事態に連絡を取れるようにするためではなかったのか。
それなのに、明日の練習に没頭するあまり、連絡に気付くことができなかった。挙句の果て、担任の先生にまで迷惑をかけた。
おそらく、俺が電話に出なかったから、代替手段として先生に連絡を入れたのだろう。
「お前、弟と妹がいるんだってな。ひとまず、幼稚園の方には迎えが遅くなると連絡を入れておいた。…どうする」
「……」
…俺はつくづく、良い先生に恵まれたものだと思う。
父子家庭である俺達のことを気遣ってくれる幼稚園の先生にも、こうやって俺の手の届かないところでフォローを回してくれる学校の先生にも、心から感謝している。
だが、それと同時に、どうしようもなく情けなさを感じてしまった。
…俺は、どうして、こんなにも無力なのか。
「…先生。色々と、ありがとうございます。弟達はこの後迎えに行くので、大丈夫です」
「でも、さすがに1人じゃやりきれないだろう。確かお前、須上と仲良かったよな?あいつにも相談して、今日は――」
「大丈夫です。…慣れて、ますから」
声が、震えた。
でも、泣き言を吐くわけにはいかなかった。
…父が倒れたのは、今回が初めてだ。でも、弟妹の面倒を見るのは慣れている。今夜は父が帰ってこない。それだけの話だ。
その後先生は、あの手この手で俺のことを助けようと提案をしてくれたが、俺の頑なな姿勢が揺るがないのを見て、俺に自宅とケータイの電話番号だけ託して去っていった。
何かあれば、必ず連絡してほしいと念を押して。
「……」
家への帰り道。
呆然とした頭で、フラフラと通りを歩く。
…考えなかったわけじゃない。
疲れた様子の父を見て、心配に思った。いつか倒れるんじゃないかと、不安になった。
でも、父はそんなこと、一言も言わなかった。俺が「疲れてるんじゃないか」と聞いた時も、「そんなに疲れてるように見えるのか」と笑って誤魔化した。…誤魔化された。
だから、信じてしまった。軽く捉えてしまった。
しまいには、運動会を父が見に来てくれることへの楽しみで、そんな不安を塗り潰してしまったいた。
「あ…」
そうだ。
明日は、運動会だ。
まるで他人事のようにそんなことを思う。
明日は運動会。当然、父は観にはこられない。明日は土曜日だ、幼稚園も当然やっていない。
明日は、必然的に家で弟達の面倒を見なくてはならないだろう。
「リレー…」
ふと、自分に与えられた役割を思い出す。
俺はリレー選手だ。今の学校で体験する、最後の運動会。クラスの誰もが、俺達が優勝することを期待している。
最後の運動会。できれば、俺が走りたかった。本当は、実力なんか気にせず、少しでも自分の力で、大事な学校生活の思い出に華を添えたかった。
『ったく、真面目なのも大概にしろよ〜』
クラスメイトの言葉がよみがえる。
違う。俺には、責任感なんてない。結局俺は、自分の役目を全うすることなく、個人的な都合でそれを放り出すんだ。選手に選ばれたことの喜びも、みんなの期待も、本当はみんなの前でかっこよく走ってやりたいなんていうかっこ悪い本音も、全部全部、ほっぽってしまうんだ。
…そうするしか、ないから。
それが、長男の俺ができる、唯一のことだから。
「…っ」
勝手に、瞳に涙が溜まっていく。
仕方のないことだ。どうしようもないことだ。
…そう、頭では分かっているのに。
心が、受け入れることを拒否している。
「…っ、く…ぅ」
父が倒れたことへの悲しみと、明日走れないことへの悲しみと、みんなを裏切ってしまうことへの悲しみと…色んな思いが一緒になって、自分でももう、何を感じているのか、よく分からなくなっていた。
ただ、ひたすらに、悲しくて。
先生に促され、応接室を出た後、俺はしばらくの間、廊下に立ち尽くして涙を溢していた…――。
「…はい。すみません、お願いします…」
ピッ。
持っていたケータイをベッドの上で放り投げ、片手で顔を覆う。
脳が、考えることを拒否している。それなのに、不安だけは溢れんばかりに広がっていく。
…あの後、しばらくの間ぼんやりしていた俺は、なんとか気持ちを胸中に押し込め、まず幼稚園へ向かった。相当俺の顔色が悪かったんだろう、先生達は俺の心情を察してくれて、まずは病院の方に行くよう促してくれた。『私達が弟くん達の面倒を見ておくから、早く顔を出してきなさい』と。
学校の担任が幼稚園側に先に連絡を回しておいてくれていたのも大きかったんだろう。俺は幼稚園の先生達にお礼を告げ、すぐに病院へ向かった。
幸い面会時間にはギリギリ間に合い、俺は父の病室にすぐ入ることができた。…父は、点滴に繋がれながら、ベッドの上で弱々しく微笑んでいた。
『…悪かったな、照人。心配かけて』
申し訳なさそうな父の顔が、脳に焼き付いた。
本当は、この場で何もかもぶちまけてしまいたかった。どうして"疲れている"と一言俺に言わなかったのか。どうして倒れるまで無理をしたのか。どうしてそれでも笑顔を浮かべられるのか。どうして、どうして、どうして…――。
父がどこか遠くに行ってしまうかのような焦燥感が押し寄せ、じわりと瞳が熱くなっていく。…しかし、父の次の言葉を聞いて、俺は言葉を失った。
『明日、運動会だろ。…頑張れよ、照人』
は…。
乾いた息が、口から漏れそうになった。
…この状況で、父は一体何を言っているのだろうか。
陽は?晴美は?そもそも、父をこの状態で放っておけるわけがない。
何を言っているんだ、そう父を問い質そうと思った直後、父が続けてこう言った。
『陽達は、明日の運動会の時間帯だけここに連れてくればいい。何、俺がシングルファザーってことを話せば、そのぐらいの配慮はしてくれるさ』
父がそう言って笑いかけてくるが、そんな都合の良いことにはならないだろうと俺は確信していた。
確かに、この状況は絶望的だ。俺達に近しい間柄の親戚はいないし、祖父母もすでに亡くなっている。幼稚園は休日はやっていないし、頼みの綱はない。
でも、陽達の面倒を見る人が誰もいないわけじゃない。…そう、俺が、明日を諦めれば、2人のそばにいてあげることができる。
『なぁ、照人。小学校生活最後の思い出だろ?なら、それを十分謳歌してくれよ』
『…ッ』
父さん…。
俺は、どうしたら…。
結局俺は、その場で曖昧な返事をして誤魔化し、家のことは心配しなくていいと釘を刺して病室を後にした。
その後のことは、正直あまり覚えていない。もう1度幼稚園に行って陽達と合流し、家へ連れ帰って、いつものようにご飯の用意をして…。
気がつけば2人は子供部屋で寝息を立てていて、俺は1人で自室で寝転がりながら、ケータイを手に取っていた。
先生に、連絡しなきゃ。
咄嗟にそう思い、用件を手短に伝えて電話を切り――そして今に至る。
「……」
明日…か…。
父さんはああ言ってくれた。俺のことを気遣ってくれた。
でも今は、その優しさが辛い――。
「…ん…」
ふと、ケータイが震えていることに気づいた。手探りでケータイを手に取ると、画面には"操"と表示されていた。
「……」
そういえば、あの場を離れてから、操達とは顔を合わせずに帰っちゃったんだよな…――。
いきなり先生に連れていかれてしまったから仕方なかったとは思うが、何の断りもなしに学校を後にしてしまったのは、今思えばまずかったかもしれない。
まぁ、帰りに会わなかったことを考えれば、おそらく俺と先生が話している間に帰ったんだとは思うが…。
電話に出たくないという気持ちが真っ先に湧き上がってくるが、その反面、彼に心配をかけてしまっているだろうことが容易に想像できてしまい、俺は少しの躊躇いの末、通話に出た。
「…もしもし」
『あ、照人…』
電話越し、親友のいつもと変わらない声が聞こえ、何とも言えない懐かしさのような想いが込み上げる。
『ごめんね、こんな夜に。電話しちゃって大丈夫だった…?』
「ん、まぁ…。陽達はもう寝てるし」
『そっか、それなら良かった…』
俺のことを気遣う優しい言葉。いつもだったらありがたく受け取るが、なんだか用件を話すまでの時間稼ぎのように聞こえてしまい、俺は苛立ちながら彼に言葉を投げかけた。
「…それで。なんで電話してきたの」
『あ…。いや、その…。何があったのかな、って思って』
予想通りの言葉に、俺は顔を顰める。
「別に何でもないって。ちょっと先生から呼び出されてただけだし」
『何でもないわけないでしょ。…お父さんが倒れたって、先生が言ってたんだから』
「それは…」
『照人。こんな時に強がらないでよ。弱った時はお互い様。昔、そう約束したよね?』
操の言葉に、幼い頃に交わした約束が思い出される。
「そんな昔の話、今更持ち出されても――」
『とにかく!今、照人は困ってるんでしょ?だったら、もう少し、僕のことを頼ってよ。…親友、なんだから』
「……」
操のことを頼る、か。
親友として、ずっと俺のそばにいてくれた、大事な存在。
しかし、俺はいつも頼られる側だった。自分が彼に頼るというのは何というか、凄まじい違和感がある。
「…お前に、何ができるっていうんだよ」
『少なくとも、話を聞いて、解決策を考えてあげるくらいのことはできる』
操の力強い言葉と対照的に、俺は力なく笑った。
「無理だよ。こればっかりはどうしようもならない。そもそもお前じゃ、俺の代役は務まらない――」
『そんなの、分からないじゃん。言う前から諦めないでよ。僕だって…!』
「運動会に、出られなくなった」
…俺の言葉に、ケータイの向こうが沈黙した。
「父さんが倒れたって、先生が言ってたろ。原因は過労。しばらく入院することになっちまったんだ。だから、俺は運動会には行けない。…弟達がいるからな」
『でも、照人、明日のために、ずっと…』
「じゃあ、お前に代役ができるのか?」
俺の言葉に、操は押し黙ってしまった。そりゃあそうだろう。俺の抜けた穴を埋められるのは、操じゃない。他のことはできても、今回だけは――こういうイベントの時だけは、やつは完全に無力になってしまうのだから。
『…代役、は…難しい、だろうね』
「だろ?だったら…――」
『…それでも僕は。照人の力に、なりたいよ…』
ケータイ越しに聞こえてきた、弱々しい声。
その言葉に、一切の嘘がないことが分かってしまって、俺は口を噤んだ。
…操は、俺の力にはなれない。今回の件に関しては絶対に。
でも、それに対して悔しさを感じているのは、何も俺だけじゃない。何なら、俺よりも…誰よりも、操自身が苦しいはずだ。
だって操は、誰よりも優しくて、相手に寄り添える人間だから。
『分かった。じゃあ、僕が照人の代わりに、弟くん達の面倒見てあげるのはどう?それだったら、クラスのみんなにも迷惑かからないんじゃないかな』
「それは…」
提案はありがたい。確かに、そうしてくれた方が、クラスの戦力的には助かるだろう。
でもそれは、元々運動会に参加することのできた操の権利を、俺の私情で奪うことになる。
操が運動会に対してどの程度思い入れがあるのかは分からないが、いくらクラスの勝利のためと言っても、そんなことは家族じゃない人に頼むのは気が引けた。
「…いや、それはいい。さすがにそれは頼めない…」
『そっか…』
俺達の間に沈黙が落ちる。夜の静寂が辺りに満ちていくようだった。
「…先生には、もう連絡を入れてあるから。後のことは、悪いけど、よろしく頼めるか」
『後のことって…』
「まぁ先生からある程度説明はあると思うけど、補欠の選手の手配とかそういうの。こういう時のための補欠選手だろ?」
各競技には、当日急遽欠員が出てしまってもいいように、予め補欠の選手が決められている。リレーのような限られた生徒しか出場しないような競技は特にそうだ。
「こんなこと、お前に頼みたくないけど…親友だからな。明日だけ、甘えさせてくれ」
『照人…』
「おやすみ、操。明日、楽しんでこいよ」
そう言って、俺は電話を一方的に切った。といっても、向こうから何かを話そうとする気配はなかったから、ちょうど良かったのかもしれない。
「はぁ…」
再びケータイを手から離し、その場で寝返りを打つ。
操と話したことで少し頭が冷えたのか、先程までの途方もない絶望感は、いくらか薄まっているようだった。
それでも、目前に迫った大きな舞台を前に、そこに立てないことを突然宣告された衝撃は、未だに俺の中に残っている。
「……寝るか」
考えても仕方がない。どうせ、明日は来るんだから。
諦めの境地の中で、俺は静かに目を閉じた。
――父が倒れてから、数日が経った。
父の体調は、当初の想定よりも速い速度で回復していき、元々1週間入院する予定だったのが早まることになった。
そして昨日、父は久々に我が家に戻ってきたのだ。
『照人…迷惑かけて、本当にすまなかった』
帰宅早々、父は地面に頭をこすりつけるようにして俺にそう言った。
『照人にとって大事な行事だったのに…こんな形で、息子の思い出を俺が取り上げてしまうことになるだなんて、思ってもみなかった…』
『父さん、もういいから、顔上げてよ』
その痛々しい謝罪の様子を見ていられなくて、俺は父に顔を上げるよう促すと、こう言った。
『…それにさ』
『ん…?』
『父さんが俺にかけたのは…”迷惑”じゃなくて、”心配”でしょ』
『あ…』
『そこは、ちゃんと反省してほしいんだけど』
俺の言葉に、弟達がうんうんと激しく頷いている。
『おとうちゃんのこと、しんぱいしてたんだから~』
『はるみもはるみも~』
父が帰ってきた喜びと、父が一時的とはいえいなくなってしまったことへの悲しみが混ざり合った表情で、兄妹2人は父の元に駆け寄った。
『……そうだな。お前達は、そういう風に思ってたんだな』
『父さん…』
『照人、陽、晴美。心配かけて、すまなかった。…ただいま』
父さんの言葉に俺は、いてもたってもいられなくなり、父の大きな体に飛びついた。
足下では、陽と晴美が同じように父の足のじゃれついている。
『はは、お前らもまだまだ子供だなぁ~』
『…うっさい』
潤んだ瞳を隠すように目を逸らした俺の頭を、父は何度も何度も優しく撫でてくれた…――。
「…ふぅ」
そうやって一晩が過ぎ、やってきたいつもの朝。
父は今日は仕事を休むことになっているため、1日中家で過ごすらしい。陽達の送り迎えにも父が行ってくれるのだとか。
病み上がりなのだから無理をしなくていいと言ったら、照人も十分無理してたんじゃないのかと返され、議論を重ねた末に俺が折れることとなったのだ。
久々に時間のある朝。おかげで、いつもより余裕を持って家を出ることができた。
運動会以降数日間は学校を休んでいたから、何となく通学路にも懐かしさを感じる。
和やかな気持ちで道を歩いていると、ふと後ろから声をかけられた。
「ちょっと、アンタ!」
「えっ」
バシーン!!
思い切り背中を叩かれ、驚いて振り返る。
「ちょっ、朝から何すんのさ…」
「何するって、それはそっちのセリフでしょ!!なんで最近学校休んでたのよ!!?」
「なんでって…」
俺の背中をぶっ叩いた隣のクラスの女子は、なぜか怒ったような表情でこちらを睨んでいる。
「色々大変だったんだよ。話すと長くなるから…」
「やだ。話すまで学校に行かせない」
「んな無茶苦茶な…。大体、そんなこと知ってどうすんだよ。葉には関係ないだろ?」
「っ!だって、アンタがこんなに休むとか、今までなかったし…!」
「いやまぁ、確かにそうだけど…。つかお前、俺が最近休んでたってどこで知ったんだ?クラス違うのに」
「へっ…。べ、別に、どこだっていいでしょ!」
「まぁ、いいけども…」
どうしてこいつはこんなにテンションが高いんだと思いつつ、2人で並んで歩く。
「…あ。そうだ、葉、先週の土曜日のことなんだけど」
「先週…って、運動会の日のこと?」
「そう。…あの日、その…俺がいなくて、どうなったのかなって」
運動会は、俺が抜きで滞りなく行われたはずだ。そのことは、後から操に電話をして知ることができた。俺の抜けた穴をクラスメイトが頑張って埋めてくれたと。
しかし、肝心のリレーについては、操は何も教えてくれなかった。”学校に来れば分かる”の一点張りで、詳しいことは話してもらっていない。
もしかしたらクラスメイトに聞いたら教えてくれるのかもしれなかったが、今日までずっと気になっていたのだ。事情を知っているであろう相手を前にして、聞かないでいられるはずがなかった。
「…確かに、照人が抜けた穴は大きそうだったわよ。他に運動神経の良い人だっていたとは思うけど、貴重な戦力だったことには違いないだろうし。でもまさか、あんな活躍されるなんて思ってなかったっていうか…」
「え?」
「あたしも予想外よ。あーあ、あんなことになるなら、もっとちゃんとテキジョーシサツして、対策しておくんだった」
「え…。あ、あんなことって、どういうことだよ」
「はぁ?何って、リレーのことよリレー。あんたが頼み込んで走ってもらったんでしょ?」
「え…?」
どうにも話が噛み合わない。戸惑っていると、俺の疑問の答えを、葉が口にした。
「あんたのクラスの最速女子。あの子があんたの代わりにリレーで走ったのよ。…さすがにあれには、あたしも勝てなかった。完敗よ完敗」
「俺の…代わり…」
俺の脳裏に、クラスの中で足の速い女子の顔が高速で浮かんでは消えていく。
違う、そうじゃない。葉が”最速”って言ったんだ。そんなの、1人しか該当しないじゃないか。
でも、本当に…?
俺が直接頼んだわけでもないのに、彼女が、そんなことをするだろうか。
「…何、変な顔してんのよ」
「い、いや、お、驚いて…」
「何、あんたまさか知らなかったの?じゃあ、なんであの子がリレーに出たりなんかしたのよ」
「さ、さぁ…」
俺がお手上げという風に肩をすくめると、葉は呆れたように「はぁ…」とため息をついて、そのままさっさと歩いて行ってしまった。
「ま、待てよ葉!さっきの話について詳しく…!」
「別に、あんたに話すことなんてないし」
「俺は聞きたいことがあるんだよ!!」
「そんなの、本人に聞けばいいでしょ!」
校門の目の前で、葉は俺にそう言い放つと、何かをぼそりと呟いて、昇降口の奥に姿を消してしまった。
…そうか。本人に聞いてみるのが、確かに1番早いかもしれない。
俺は急いで昇降口に駆け込むと、上履きを引っかけて階段を駆け上がっていった。
ガラッ。
「﨑森さ――」
「おぉぉぉぉぉぉい照人ぉぉぉぉぉ!!!!」
「うわッ」
教室の扉を開けた直後、クラスメイトに思い切りどつかれて、そのまま体勢を崩してしまう。
「ちょ、一体何だ!?」
「お前、心配かけやがってぇぇぇぇ」
「え…」
戸惑いながら周囲を見回すと、クラスメイト達が続々と俺の周りに集まってきていた。
「み、みんな…」
「照人の抜けた穴を埋めるの、大変だったんだぞー」
「そうだよ。全員参加の競技は当然不利になるし、勝てるか最後までヒヤヒヤしたんだからな」
「それに…小学校最後の運動会を、照人と頑張りたかったしな」
クラスメイト達から投げかけられる言葉に驚くと同時に、胸の中心がじんわり温かくなっていくような感慨を覚える。
「みんな…ごめんな、迷惑かけて…」
「ほんとだよなー。照人、お前、もっと反省しろ!」
ビシッと指を差され、思わず身を竦めてしまう。
「う、ほ、ほんとにごめ――」
「…元気そうで良かった」
ふと、そんな言葉がかけられた。
驚いて顔を上げると、優しく笑うクラスメイトと目が合った。
「先生から、なんか照人の家が大変そうだってことは聞いた。詳しいことは、シュヒ義務?とか何とかで教えてくれなかったけど、まぁ困ってんだろうなってことは想像ついたわ」
「お前、いっつも家のこと頑張ってるもんなぁ。そりゃあ仕方ないわって思ったよ」
「で、でも、俺、みんなと一緒に出られなくて…」
「まぁ寂しかったけど、しゃーないだろこればっかりは。中学行けばまたやれるし!」
「そうそう、結局勝つことはできたんだしな!」
「あ…」
そうか。運動会には、勝利することができたのか。
それに対する安心感で、表情が少しずつ緩んでいくのを感じる。
「って言っても、勝利に貢献したのは俺達じゃないけどな」
「そうそう。リレーが終わるまでは全然分からなかったし」
「! そうだ、﨑森さん…!」
俺は慌てて立ち上がると、自分の席の隣、静かに本を読んでいる﨑森さんの元へ駆け寄った。
「﨑森さん…!」
「…照人くん」
「あ、あの、先日は…!」
どうも、と言いかけたところで、スッと横から手が伸びてきた。
「…照人。ここだと目立つし、後で改めて話をしない?」
「操…?」
「詳しいことは、僕からも説明するから」
そう言って微笑む操。その変わらない笑顔に少しだけ安心感を覚える。
「﨑森さんも、それでいいよね?」
「…うん」
﨑森さんが小さく頷くのを見て。俺はその場で問い質すのを諦めると、静かに自分の席に着いた。
しばらくして、担任の先生が教室に入ってくる。
…先生にも、後でちゃんとお礼を言っておかないと。
今回の件で、先生にはものすごくお世話になってしまった。その感謝はしっかり伝えておく必要がある。
それに…――。
チラッと隣に視線をやると、ふと、﨑森さんと目が合った。
「…!」
視線が絡まり合い、そして――思わず、目を逸らしてしまう。
「……」
彼女は一体、何を考えているんだろう。
それが分からず、俺はどこかふわふわした気持ちでその日を過ごすこととなった。
昼休み。
「…それじゃ、照人の疑問を解決する時間だね」
校舎に囲まれた人の少ない中庭で、俺と操、そして﨑森さんが話を始めようとしていた。
まぁ、﨑森さんが人の多いところを嫌がりそうなことを考えれば、なかなか絶妙な選択かもしれない。
「えっと…。まず、俺の代わりに、リレーで﨑森さんが走ってくれたっていうようなことを聞いたんだけど…。それって、本当。なのかな」
「うん。本当」
あっさりと肯定され、「そ、そうなんだ…」と思わず頷いてしまう。
「あ、あの…俺の代わりを務めてくれたのは、すごく感謝してるんだけど…。その、なんでなのかな」
「え…?」
﨑森さんが怪訝そうに首を傾げる。しかし、聞かずにはいられなかった。
「もしかしたら、クラスが困ってたから助けようと思ってくれたのかもしれないけど…。他でもない、”俺”の代理だよ?…嫌いなヤツの代理なんて、普通するかな」
自分で言っていて苦しくなったが、言わないわけにはいかない。彼女は、俺に対してハッキリ言ったのだ。”もう関わらないでほしい”と。
少なからず、俺の行動は彼女にとって迷惑だったのだ。それなのに、どうして、俺のことを助けるような真似をしたのか。
「…私が、照人くんのことを、嫌いだって…本気で言ってるの」
「え…」
「私、そんなこと、一言も言ってない」
視線を上げると、彼女と、目が合った。
――朝目が合った時とは、明らかに違う。その瞳には、激情が宿っていた。
「…確かに私は、照人くんの思いやりを否定した。だから、そういう風に思われちゃっても、仕方なかった、と思う。実際私も、照人くんのこと、信じ切れてなかったし…」
「う…」
信じ切れてなかった、か。きっと本当のことなんだろうけれど、そう言われると心にズシッとダメージが来る。
「…でも、それじゃあダメだなって思った」
「え…」
﨑森さんが、俺の目を真っ直ぐ見つめて言った。
「運動会の前日。照人くんが、先生に連れていかれた時――照人くん、すごく不安そうな目をしてた。見たことがないぐらい、暗い顔だった」
「それは…」
「いつも笑ってて、明るく話してて…そういう印象だったから、少し意外だった。照人くんでもあんな風に、焦ったりするんだって」
焦り、か…。
あの時は、状況を処理するのに必死だったから、自分の行動や表情まで分析している余裕はなかったけど、彼女がこう言うってことは、よっぽど酷い状態だったんだろう。
「…あの後、照人くんが戻ってくるまで、待とうと思ったの。でも、先生達に、もう帰れって、学校を追い出されちゃって…」
「ほら、最終下校時刻過ぎてたから」
操が小さく補足してくれる。確かに、用のない生徒が学校に残っていたら、追い出されるのは当然だ。
「次の日、学校に来てすぐ、操くんに呼び出されて…話を聞いたの。あの日。照人くんに、何があったのか」
「……」
操に視線をやると、操は苦笑いを浮かべながらこちらに目を向けていた。
「操くんはこう言ってた。…”もし、君が信じられるなら、照人のことを助けてあげて”って」
「え…」
要点の掴めない言い回しに戸惑いを覚えるが、﨑森さんは言葉を続けた。
「操くんから言われたのはそれだけ。…でもその直後、先生から言われた。照人くんが、運動会に参加できなくなったって」
あ…。
おそらく、俺の家庭の事情を、その時先生がかいつまんでみんなに説明したんだろう。
ずっと気合いを入れて練習してきていただけに、きっとみんな驚いたんだろうな。ふと、そんなことを考える。
「…すごく迷った。私は…クラスのために何かをするのは、無理だと思ってたから。誰のことも信じられない私に、行動を起こすことはできないって」
「……」
「でも、照人くんは違った」
﨑森さんの瞳の中に、不安そうな、情けない顔をした自分が映っている。
「無愛想で、表情も固くて、全然話せない私に、照人くんは何度も何度も話しかけてくれた。嫌な顔1つしないで、私にクラスに馴染んでほしいって想いを持って、ずっと…ずっと……」
「……」
「助けなきゃって思った。動かなきゃって思った。…信じたいって、思った」
「…あ…」
彼女の言葉に、心が解きほぐされていくのを感じる。
「だから…その……あの日の返事を、やり直させてほしいの」
「え…?」
あの日の返事…?
心当たりのない俺に、彼女の口から、ずっと欲しかった言葉が発された。
「…私と、友達に、なってくれませんか…?」
吹く風が、新緑を揺らす。
日の光が真っ直ぐに降り注ぎ、中庭を明るく照らす。
柔らかい風景の中、彼女が、真っ直ぐに、こちらを見つめていて。
「………」
――きっかけを与えたのは、操かもしれない。
操が運動会の日、彼女に助言をしなければ、きっと今のこの状況は成り立っていなかっただろう。だから、全部が俺のおかげだなんて思わない。そんな自惚れは許されないってことは分かっている。
でも、それでも…。
俺の積み重ねてきた努力のかけらが、彼女に届けようとしてきた思いやりの数々が、今、ようやく、実を結んだ気がして。
「…喜んでっ…!」
そう言って差し出した手が、視界の中で滲むのも構わず、俺はここ最近で1番の笑顔を、彼女に向けたのだった。
「…はは。なんか、かっこ悪いとこ見せちゃったな」
昼休みも終わりに差し掛かり、教室に3人で戻ろうとしていると、操が言った。
「そんなこと言わないでよ。照人はいつだってかっこいいんだから。ね、﨑森さん」
「うん、照人くんはかっこいいよ」
「う、そ、そういう風に言われると、調子狂うな…」
今までの態度からは考えられない﨑森さんの言葉に、思わずドギマギしてしまう。
「あ…。そうだ、﨑森さん」
「え?」
「今度、何かお礼をさせてよ」
彼女は、俺の代わりにリレーで大活躍し、クラスに勝利をもたらした功労者だ。そのお礼は、きっちりさせてもらいたい。
「え…。べ、別にいいよ、お礼なんて…」
「そんなこと言わないで、素直に受け取っておきなよ。﨑森さんが照人のことを助けたのは事実なんだしさ」
「ほら、操もこう言ってることだし!何か、そうだな…。ほしいものとかないか?あるいは、やってほしいこととか」
「え、えーっと…」
困ったように小首を傾げる﨑森さん。…そんな中、ふと、どこからかオルゴールの音色が聞こえてきた。
「あれ、これって…」
「あ…。ご、ごめんなさい。着信音、切れてなかったみたいでっ…」
﨑森さんが慌てた様子でケータイを取り出す。その手に握られているのは、俺が持っているのと同じ型のキッズケータイだ。
…あ。そうだ。
「分かった。﨑森さん、明日の朝、ちょっと早めに学校来れたりする?」
「え?」
「それまでに、とっておきのプレゼント、用意しておくからさ!」
「お、とっておきって、照人、大分自信ありげだね~?何あげるつもりなの?」
「へへ、お前には教えないー」
「えぇー、別に僕が、もらうわけじゃないんだからいいじゃーん」
頬を膨らませる操を小突きながら、俺は戸惑っている﨑森さんに笑いかけた。
「…本当に、ありがとうな。黄乃」
「え…」
「いつまでも苗字で呼ぶってのも、なんかよそよそしいし。…あ、嫌だったら全然いいんだけど」
さすがにいきなりすぎたかな…と心配していると、彼女が優しく微笑んで、
「…ううん、大丈夫」
と口にした。
「…そっか」
2人で笑顔を交わす。
…これが、俺と彼女が出会って1ヶ月の頃の、温かく優しい思い出。
まだ、未来のことを何も知らない俺達の――無垢で柔らかい、出会いの物語。
全ては、ここから始まった。
この激動の1年間を彩る最初のページは、この時、確かに捲られた――。
「…懐かしいな。まだ、持っててくれたのか」
少年の視線の先。そこには、ガラス製の小さな置物があった。
球形のガラスの中に、手を繋いでいる2匹の子猫の模型が入っていて、天井からは煌めく粉が降っている。
「今思うと、ずいぶん季節外れというか、よく分からないもの渡したよな~」
そう言って、少年は苦笑を浮かべた。
――彼が、少女に対して、お礼の品として送ったオルゴールだ。ネジを回せば、祝福を謳う”カノン”の音色が流れてくる。
「…嬉しいよ。こんな風に、俺との思い出を、少しでも大事にしてくれてるんだって分かって」
「……」
「俺…ずっと、待ってるから。君が、俺達のところに戻ってきてくれるのを。…力づくで戻してあげられないのが、情けないところではあるんだけどさ」
少年は、かつてのように、そっと少女の手を取った。
…細く伸びた左手の指に、自らの指を絡ませ、そっと握る。
「……ごめんな」
「……」
ポツリと、少年が呟いた。
「俺は…なんの力にもなれなかった。最後の最後まで…気付かなかった。本当に…何も…」
「……」
懺悔のように紡がれる言葉は、そのまま静かに続いた。
「俺が、もっと…周りを見れていたら、未来は…変わってたのかな…」
俯く少年。
…少しして、少年はもう1度「…ごめん」と呟くと、小さく肩を震わせた。
彼の顔の下に敷かれた布が、じんわりと湿っていく。
「……帰って、きてくれよ……」
少年の弱々しい声は、誰に聞き届けられることもないまま、虚空に消えていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます