雨の日のリボン②

 「…お疲れ様」

 顔に影が落ちて、ふっと顔を上げると、いつもの柔らかい笑顔があった。

 「龍也…」

 「残念だったね。最後の最後で、あんなどんでん返しが待ってるなんて」

 そう言って、龍也は無邪気に笑った。

 …結局あのリレーで、クラスの順位は入れ替わった。元々広がっていた差をものともせずに1組が逆転し、そのまま優勝。あたし達は何とか2位に踏みとどまったけど、順位発表が終わった後のクラスメイト達は、みんな呆然としてる様子だった。

 当然だ。あんなものを見せられちゃ、勝負相手としてはたまらない。

 「まさか、あの転校生があそこまで運動できるなんて思わなかったなぁ。直で見て痛感したって感じ」

 「……」

 全く返事をしないあたしのことを不思議に思ったのか、「夏茂さん、大丈夫…?」と言って顔を覗き込まれる。

 「…別に、大丈夫だし」

 「…そんな、落ち込む必要ないと思うよ。﨑森さん…だっけ。彼女が出場すること自体、イレギュラーだったんでしょ?だったら、僕達にはどうしようもないことじゃない」

 龍也はそんな風にあたしのことを励ましてくれていたけど、あたしの心は、勝負の場で完全に折られていた。

 元々ライバル視していた相手に、完膚なきまでに叩きのめされた。

 そんな気分だった。

 「……なんで」

 「え?」

 「…なんで、あの子が照人の代わりだったんだろ」

 ポツリとこぼれた言葉。

 普段だったら絶対に撤回してたけど、その時のあたしは余裕がなくて、誤魔化すこともできなかった。

 今思えば、本音をこぼした相手が龍也で、本当に良かったって思う。

 …この人は、度がつくほど鈍いから。

 「んー…。単純に、足が速かったからじゃないの?元々選手だった子が休んじゃった以上、同じぐらいの戦力で補う必要があったわけでしょ?だから、クラスメイトに急遽頼まれたとか…」

 「…照人は、あそこまで速くない」

 照人も運動神経はすごくいいけど、あそこまでじゃない。あのレベルは、『運動が得意』ってレベルを超えてる。

 「えっと…。それじゃあ、じゃんけんで決めたとか?誰も出てくれる人がいなくて、結局運任せになっちゃったみたいな…」

 「……」

 頑張って可能性を並べてくれてる龍也には悪いが、あたしは別に、そんなことの答えが知りたいわけじゃない。

 彼女がどうして出場したのかなんて、本当はどうでもいい。

 …ただ、肝心な時になんの成果も残せなかったのが、どうしようもなく悔しかった。

 照人がいない場で、あの子が、颯爽と勝利を掴みとっていったことに、無性に腹が立った。

 「…はぁぁ…」

 「……」

 ひたすらに落ち込むあたしのことを見つめる龍也が、この時何を思ったのかは分からない。

 …ただ、顔を上げた時には、彼はすでにいなくなっていて、教室は静かな空気に包まれていた。

 「……」

 …今日、照人が来てくれれば良かったのに。

 そうすれば、こんなにモヤモヤすることもなく、1日を楽しく終えられたのかもしれないのに。

 そうじゃん、元はといえば、アイツが今日休んだりするから!!

 「あ~~もうっ!」

 ダンッ!と勢いよく立ち上がったけど、当然それに反応するような人もいなくて、ただただ虚しい気持ちだけがその場に残った。

 …とりあえず、帰って頭を冷やそう。

 特にできることもなくて、あたしはそのまま、1人悲しく家へ向かって歩き始めた。




 それからの休日は、かなりぼんやりしたまま過ごした。

 お兄に「お前、大丈夫か?」って何度か声をかけられたから、相当憔悴してたんだろう。

 もちろん理由なんて話せるわけもなく、適当に家族を誤魔化し続け、1週間が経った。

 運動会当日よりは少し頭の中が整理できたけれど、まだ自分の中で気持ちを消化しきれたとは言えなかった。

 照人もあれから全然学校に来てないみたいだし、不安だけが募っていく。

 …ほんと、どうしたらいいんだろ。

 ぼんやりしながら歩いていると、目の前に見覚えのある背中が見えた。

 「あ…」

 あの後ろ姿。

 間違いない。照人だ!

 「しょ…」

 嬉しくなって声をかけようとして、ハッとする。

 …どうして、﨑森さんがあのリレーに出場することになったのか。

 そもそも、照人はどうして学校を休んだのか。

 何か特別な事情があったのか。あったのだとしたら、どうして…ちゃんと、相談してくれなかったのか。

 「…っ」

 ふつふつと、胸の内で感情が昂ってくる。

 …もう、ダメだ。

 アイツに問い詰めてやらないと、気が済まない!!

 「ちょっと、アンタ!」

 「えっ」

 バシーン!!

 こちらを振り向く暇も与えず、とりあえず背中を思い切り平手打ちした。

 「ちょっ、朝から何すんのさ…」

 「何するって、それはこっちのセリフでしょ!!なんで最近学校休んでたのよ!!?」

 「なんでって…」

 困ったような表情を浮かべたソイツは、あたしから顔を逸らすと、

「色々大変だったんだよ。話すと長くなるから…」

と、お決まりの文句で華麗に逃げようとしてきた。

 …だが、そんなことはあたしが許さない。

 「やだ。話すまで学校に行かせない」

 先回りしてヤツの道を塞ぐと、ヤツは嫌そうに顔を顰めて、

「んな無茶苦茶な…」

とぼやいた。

 「大体、そんなこと知ってどうすんだよ。葉には関係ないだろ?」

 「っ!」

 はぁ?

 関係ないわけないのに、何をほざいてるんだコイツは。

 「だって、アンタがこんなに休むとか、今までなかったし…!」

 「いやまぁ、確かにそうだけど…。つかお前、俺が最近休んでたってどこで知ったんだ?クラス違うのに」

 「へっ…。べ、別に、どこだっていいでしょ!」

 毎日1組の様子を見に行ってたなんて言えなくて、適当に誤魔化す。

 「まぁ、いいけども…。…あ。そうだ、葉」

 不意に名前を呼ばれ、思わず身構えてしまう。

 「先週の土曜日のことなんだけど」

 「先週…って、運動会の日のこと?」

 「そう。…あの日、その…俺がいなくて、どうなったのかなって」

 どうなったか…。

 …そんなの、困ったに決まってるじゃない。

 喉まで言葉が出かかって、あたしはグッとそれをこらえた。

 あの日は本当に色んなことがあって、まだあたしの中でも整理がついてないのに。

 でも、そんなことを照人に言ったってしょうがない。どういう思惑があったのかは分からないけど、おそらく自分の代わりにリレーに出場するよう、﨑森さんに自ら頼んだんだろう。だから、その結果を知りたがっている。

 …自然な対応をしなきゃ。変にうろたえたりして、あたしの想いを悟られるわけにはいかない。

 「…確かに、照人が抜けた穴は大きそうだったわよ。他に運動神経の良い人だっていたとは思うけど、貴重な戦力だったことには違いないだろうし。でもまさか、あんな活躍されるなんて思ってなかったっていうか…」

 「え?」

 「あたしも予想外よ。あーあ、あんなことになるなら、もっとちゃんとテキジョーシサツして、対策しておくんだった」

 激しい嫉妬心を悟らせないように投げやりに呟くと、照人は驚いたようにこちらに視線を向けてきた。

 「え…。あ、あんなことって、どういうことだよ」

 「はぁ?」

 あんなことって…。そんなの、1つしかないでしょうが。

 「何って、リレーのことよリレー。あんたが頼み込んで走ってもらったんでしょ?」

 「え…?」

 不審そうに顔をしかめる照人。その顔を見ていたくなくて、一気に言葉を続ける。

 「あんたのクラスの最速女子。あの子があんたの代わりにリレーで走ったのよ。…さすがにあれには、あたしも勝てなかった。完敗よ完敗」

 「俺の…代わり…」

 呆然と呟く照人。そんな彼の様子に、どこか違和感を覚える。

 どうして照人は、そんな不思議そうにしているの…?

 照人はこういう行事の時、簡単に穴を空けるような真似はしないはず。それでも学校を休めなければならなかった以上、自分で代理を立てたはずだ。

 だからこそ、﨑森さんに自ら頼み込んだんだと思っていたけど…。

 まさか、前提から違かったっていうの…?

 「……」

 視線を彷徨わせている照人に、あたしは思わず、

「…何、変な顔してんのよ」

とつっこんでしまった。

 「い、いや、お、驚いて…」

 「何、あんたまさか知らなかったの?じゃあ、なんであの子がリレーに出たりなんかしたのよ」

 聞きたい。

 照人の口から、どうして彼女が照人の代理を務めたのか。

 しかし、彼の口から出てきたのは、

「さ、さぁ…」

という、情けない相槌だけだった。

 「はぁ…」

 …何よそれ。ほんと、意味が分からない。

 話すだけ無駄だと思い、さっさと歩き始めると、「ま、待てよ葉!」と照人が追いかけてくる。

 「さっきの話について詳しく…!」

 「別に、あんたに話すことなんてないし」

 ムッとしてそう言うと、照人は強い口調で言い返してきた。

 「俺は聞きたいことがあるんだよ!!」

 …聞きたいこと?

 あんたが、あたしに、一体何を聞くっていうの。

 「そんなの、本人に聞けばいいでしょ!」

 強く言い放って、あたしはすぐにその場から離れた。

 照人が追いかけてくる気配はなくて、そのまま昇降口に飛び込む。

 ほんと、なんなのよ。なんでこの男は、こんなにも鈍感なの。

 自分の気持ちに気付いてほしいのか、気付いてほしくないのか、自分でも分からなくなってきている。

 …なんで、あんな強く言い返しちゃったんだろ。

 照人は、何も悪いことしてないのに。

 暗い気分のまま、2組の教室へと足を踏み入れる。

 「おはよー」

 「おはよーっす」

 いつもと変わらない雰囲気の教室。

 あたしが朝からこんなセンチメンタルな気分でいることに、一体何人が気付けるんだろ。

 自分の席に着いてそんなくだらないことを考えていると、「葉ー」と名前を呼ばれた。

 「んー、何ー」

 「なんか、1組の子が用事だって」

 クラスの女の子が、そう言ってあたしのことを教室の入り口で手招いている。

 …全く、なんなのさ一体。

 重い腰を上げて入り口に近づくと、来訪者が明らかになった。

 「あ…。あんた、確か…」

 「夏茂さん、おはよう。実は、ちょっと渡したいものがあって」

 そう言って目の前で微笑んでいたのは、運動会の日に少しだけ会話した、1組のみさおくんだった。

 「渡したいもの…?」

 「うん。さっき教室に入ってく時に、これを落としていったのが見えて」

 「! これって…」

 彼が差し出したのは、この間隣町でもらった、謎の男性の名刺だった。

 そういえば、あの日着てた服を洗濯する時、しまう場所に困って、とりあえずでバッグの外ポケットにねじこんだんだっけ…。

 どうやら、今日持ってきてたバッグからいつの間にかこぼれ落ちていたらしい。

 「あ、ありがとう」

 慌ててお礼を言って名刺を受け取ると、みさおくんは意味ありげに微笑んだ。

 「…な、何…?」

 「ん?あーいや。夏茂さん、アイドルでも目指してるのかなって思って」

 「へ」

 そうだった。

 この名刺を拾ったってことは、きっと紙に書かれている内容にも目を通したんだろう。

 彼がこの事務所のことを知っているのかは分からないけど、なんとなく勘を働かせたのかもしれない。

 「い、いやあ、アイドルなんて、そんな大それたこと…!」

 「えぇ、そうかな。僕は似合うと思うよ、アイドル。夏茂さん華があるし、運動得意そうだからダンスとかもすぐにできちゃいそうだし」

 「だ、ダンスか…」

 まぁ、流行りのダンスをコピーしたりはよくするけど、プロとしてやっていけるほどの実力ではないだろう。

 歌も…下手じゃないと思うけど、多分素人レベルだ。

 「無理だよ、あたしにアイドルなんて。てゆーか、別に興味ないし」

 「そうなの?アイドルになれるチャンスがもらえるなんて、他の人じゃなかなかないし、すごく特別なことだと思うんだけどなぁ」

 「特別…」

 特別、か…。

 確かに、普通じゃなかなか巡り会えないチャンスなのは否定できない。

 でも、そこまで自慢できるようなことでもないと思うんだけどな。

 スカウトなら今まで何度か受けてきたけど、結局はあたしの表面だけしか見ないで判断してるんだろうし。

 認めてもらえて悪い気はしないけど、あたしなんかより、美形でなんでもできちゃう兄の方がよっぽど芸能人向きだろう。

 最も、兄はあれで勉強大好きマンだから、芸能界とか全く興味ないだろうけど。

 「…あたしは、別にいいよ。特別?とか、あんまそういうの、よく分かんないし」

 「…そっか」

 あたしの意志が頑ななのを感じ取ったのか、みさおくんはそれ以上しつこく促すこともなく、「それじゃあ、落とし物も届けられたし、僕は戻るね」と言って自分のクラスへと帰っていった。

 「……」

 アイドル。

 アイドルになれば、特別になれるんだろうか。

 別に、世間からどう思われるかとか、そんなことには一切興味がない。…あたしが見てほしいのは、ただ1人だけだから。

 「照人…」

 …アイドルになれば、あたしも、アイツの”特別”になれるのかな。

 そんなことを一瞬思ったけれど、すぐにそんな考え方はおかしいと切り捨てて、あたしは名刺を片手に持ったまま自分の席に戻った。




 その日の昼休み。

 「はぁ…」

 ため息をつきながら、廊下をぼんやり歩く。

 昼休みは、教室で友達とおしゃべりしてることが多いけど、どうにも今日はそんな気分になれなくて、あたしは1人で校内をうろついていた。

 側から見たら不審かもしれないけど、仕方ない。上手く考えがまとまらなくて、頭の中ごちゃごちゃなんだから。

 窓の向こう、見下ろした先には、そこまで広くはないけど管理の行き届いた畑がある中庭がある。

 基本出入りは自由だけど、遊具とかはないから、普段はあまり人がいないのだけど…。

 そこに珍しく、今日は人影があった。それも、すごく見覚えのある。

 「あれって…」

 思わず呟いて、じっと目を凝らす。

 ミカンの木に絶妙に隠れてるけど…あそこにいるのは、照人だ。そして、その向かいに、﨑森さんとみさおくんが立っている。

 何を話してるの……?

 内容は全く聞こえないけど、照人の表情を見るに、あまり良い話をしているわけではなさそうだ。他2人の表情は立ち位置的に確認できないけど、明るい表情を浮かべている様子は想像できなかった。

 「………」

 何もできないのがもどかしい…。

 話の内容を推測することもできず悶々としていると、ふと、照人の顔つきが変わった。

 それまでも戸惑っているような表情だったけど、明らかな驚きを顔に浮かべている。

 そして、その視線は――目の前の、﨑森さんに注がれていた。

 「………」

 無音の時間。

 長いような短いような、そんな沈黙の後に、照人が顔を綻ばせて、﨑森さんに手を差し出すのが見えた。

 「…っ」

 照人の顔に広がる、満面の笑み。﨑森さんが、ゆっくりと自分の手を照人の手に重ねる。

 …ダメだ。見ていられない。

 そう頭では分かっているのに、体が言うことをきかなかった。まるで金縛りにあったみたいに、そこから動くことができない。

 …中庭の3人は、しばらくの間談笑しているみたいだったけど、昼休みの終了時間が近づいてくると、ゆっくりその場から移動を始めた。

 …3人が、校舎に戻ってくる…。

 そんな当たり前のことを思い浮かべて呆然としていると、ポン、と肩を突然叩かれた。

 「夏茂さ…――」

 「わっ、わあァァァァァァっ!!!!」

 「えっ!?」

 ドサッ!

 驚きのあまりとんでもない叫び声が出て、しかもそのまま尻餅をついてしまう。

 「な、なんなのよもう…」

 廊下を歩いていた何人かの生徒が、こっちに注目しているのが分かり、顔が熱くなる。

 「ご、ごめん!驚かせちゃった…?」

 「い、いきなり触るなバカ!!!」

 「ご、ごめんって…!」

 申し訳なさそうに謝るクラスの隣人に向かって、呆れと恥ずかしさのこもった目を恨みがましく向ける。

 「はぁぁぁぁ…。もうぅぅ…」

 なんか、こいつにはいっつも変なとこばっか見られてる気がする…。

 凄まじいデジャヴを感じ、思わずため息をついてしまう。

 「…何、見てたの?」

 「え…」

 「中庭眺めて、ボーっとしてるみたいだったから」

 「……」

 いつから、見られてたんだろうか。

 いや、鈍感なこいつのことだから、あたしに気付けばすぐに声をかけてきただろう。声をかけられなかったってことは、あたしがどういう想いでここにいたのか、全く想像もできていないはず。

 「別になんでもいいでしょ。…ちょっと、気になることがあったから見てただけ」

 「へぇ…?」

 不思議そうに首を傾げる龍也。何も分かってなさそうな――いや、間違いなく何も分かっていないこいつの顔を見ていると、沸騰していた頭が少しだけ落ち着いてきた。

 …あたしには、何ができるんだろ。

 「…あたしも、特別になれたらなぁ」

 思わず呟くと、龍也が驚いたように「え…?」を声をあげるのが分かった。

 「特別って、どういうこと…?」

 「あっ…。いや、そんな変な意味じゃなくてっ…」

 慌てて取り繕おうとしたけど、さすがに無理があるということは頭で分かっていたので、あたしはそのまま龍也からふいっと視線を逸らした。

 「僕からしたら、夏茂さんは十分特別だと思うけど…」

 「…あんた、それ本気で言ってる?」

 学年一の秀才、いや天才に言われても、あんまり説得力がない。

 あたしの取り柄なんて、ちょっと容姿に優れていることぐらいで、特技も才能も持っていない。性格だって、こんな嫉妬でウジウジ悩んでいる時点で良いとは言えないだろう。

 「あんたには”勉強”っていう最大の強みがあるでしょ。あたしにはなんもない。人に自慢できるようなものなんて、何も…」

 「そんなことないよ。夏茂さんは運動得意でしょ?僕はそんなに運動できないから」

 「でも、あの子には叶わない…」

 脳裏に浮かぶのは、あたしの背中を簡単に追い越していった、地を力強く蹴る足。

 確かに運動は得意だけど、あの子に勝てないなら意味がない…――。

 「…だったら、何か新しいことを始めてみたらいいんじゃないかな」

 「え…?」

 不意に、龍也がそう言った。

 「僕からしたら、夏茂さんは十分特別だと思うし、僕なんかよりできることは多いと思うけど…。でも、できることは多いに越したことはないでしょ?だったら、何か新しいことに挑戦してみるのはいいと思う」

 「新しいことで、特別を目指すってこと…?」

 「うん。…それに、新しいことに挑戦できるっていうのも、1つの才能だと思うから」

 龍也がそう言って微笑む。

 新しいこと…か。

 あたし達はまだ小学生で、できることには限りがある。 でも、だからこそ、未来に向けてできることは少なからずあるはずだ。

 ふと、朝みさおくんから受け取った名刺のことが頭を過る。

 始めは気にも留めていなかった。無縁な世界だと思ってたし、興味もなかった。

 でも、もし、あの世界に飛び込む権利を得られるというのが、あたしにとっての”特別”なんだとしたら。

 誰でも踏み込める世界ではない。その上で、向こうがあたしのことを選んでくれているのだとしたら。

 …なれるかもしれない。あたしにしかない、アイツにとっての”特別”に。

 「……分かった。あたし、やってみるよ」

 「え?」

 転んだ時に服についてしまった埃を払い、龍也の目を真っ直ぐ見つめる。

 「あたしだけの”特別”…目指してみる」

 さっき、みさおくんから名刺を受け取った時に抱いていた微かな迷いが、急速に晴れていくのを感じる。

 そうだ。悩んで立ち止まってるなんて、あたしらしくない。

 何事も挑戦してなんぼでしょうが。

 「ありがと、龍也!あんたも、たまにはいいこと言うじゃん」

 「え、あ、ありがとう…?」

 戸惑いながらなぜかお礼を言ってくる龍也に、あたしは力強く笑みを返した。




 数日経ち、週末。

 「…葉、お前、本気なのか?」

 家の玄関で靴を選んでいると、お兄が心配そうな表情で顔を覗き込んできた。

 「本気だよ。お母さん達だってOK出してくれたし」

 「それはそうだけど…」

 …あの日。照人達が話しているのを見て、龍也に『新しいことに挑戦する』と宣言したあの日。

 あたしは学校から家に帰ってきた後、お母さんに、隣町で芸能事務所のスカウトを受けたことを打ち明けた。そしてその上で、芸能界に飛び込んでみたいということも。

 お母さんはあたしの報告に驚いていたけど、ネットであれこれ調べた後、「お父さんに相談してから決める」という約束をして、ひとまずその場では了承をしてくれた。

 そしてその日の夜は、家にいる全員で家族会議が開かれることになった。

 意外なことに、1番反対してきたのはお兄だった。そして、1番あっさり了承してくれたのはお父さんだった。

 お兄は、あたしが大衆の好奇の目に晒されることを心配し、お父さんはかつての役者としての自分の経験から、スカウトをしてきた事務所が信頼の置ける事務所だと判断したみたいだった。お母さんは始め心配そうな顔をしていたけど、お父さんに『大丈夫』と言われて安心したのか、そこからはお父さんを支持するような立場になっていった。

 会議は数時間にわたって行われ、夜10時、ようやく、『兄同伴の元、事務所に話を聞きに行く』ということで話がまとまったのだ。

 翌日、あたしはお父さんに名刺に書いてある番号に電話をしてもらい、あれこれと話し合いをした末、週末に事務所に行ってみることになった。

 …そして、現在。今日は、その事務所に出向く日だ。

 「父さん達も、自分で行けばいいのに…」

 「今日、お父さん撮影だから」

 お父さんは、役者業を引退してからも頻繁にテレビに出演している。当時そこそこ人気があったこともあり、未だに馴染みのプロデューサーさんから声をかけられることがあるんだとか。

 今でこそ裏方に徹してライターの仕事なんかをやっているけど、こうやって撮影に出向いているお父さんの姿を間近で見ていると、『あぁ、やっぱりそっちの世界の人間なんだなぁ』とつくづく感じてしまう。

 そして、あたしもこれから、そっちの世界の人間になるのだ。

 「別に、俺じゃなくたっていいだろ。母さんだって…」

 「お母さんも今日はパートのお仕事だって言ってたじゃん。お兄、いい加減受け入れてよー」

 「お前なぁ…」

 呆れたようにため息をつく兄の姿を見て、少しだけ申し訳なく感じてしまう。

 お兄は、昔からいつだってあたしの味方でいてくれた。歳の離れたあたしのことを喜ばせようと、色々と気を遣ってくれていたのだということは、あたしも十分理解している。

 そして、今回強く反対してきたのも、あたしのことをとても心配してくれているからこそなのだろう。

 それでも、なんだかんだあたしについてきてくれるあたり、お兄はやっぱり優しい。

 「いいか?話の方向が変になったら、俺は速攻お前を連れてその場を離れるからな」

 「もうー、お父さんが大丈夫って言ってたじゃん。心配しすぎだってば」

 「お前は警戒心がなさすぎる!!」

 「はいはい、ほら行くよー」

 ムッとしている兄を連れて家を出て、そのまま駅の方へ。

 電車に乗って30分ほどすると、この辺りでもかなり栄えている大きな駅に到着した。

 人が行き交う中、周りの人が兄にチラチラと視線を送っているのが肌で分かる。

 …やっぱり、兄もこういうところにくると注目される見た目してるんだよなぁ。

 家族だからあまり実感が湧かないけど、元役者の息子なのだから、無理もないのかもしれない。

 改札を出てから、その場で辺りをキョロキョロと見回す。

 「えーっと、どこら辺のビルなんだっけ?」

 「…あのガラス張りのやつだ」

 お兄がスマホを見ながら、目的地まで案内してくれる。

 目的の建物まで近づくと、その高さと風格に思わず圧倒されてしまった。

 全面ガラス張りのビルは、日の光に照らされてどこか神々しさを纏っている。

 「すっ、ごーーい…」

 「ほら、ボーッとしてないで行くぞ」

 「あ、待ってよお兄!」

 建物の中に入り、守衛さんらしき人に話を通して入館証を受け取り、エレベーターに乗る。

 ぐんぐんと高度が上がっていく感覚を覚えながら、2人で黙って立っていると、あっという間に目的の階へ到着した。

 「”Lien”…。ここだな」

 エレベーターの壁に貼られた表示を見て、お兄が呟く。

 ――フロアに降り立つと、両脇に自動扉があった。

 「これで入れるのか…?」

 お兄が入館証を扉の横のパネルにかざすと、ゆっくりと自動扉が開いた。

 「わぁ、すごい!なんか秘密基地みたい!」

 「もう少し良い表現あるだろ…」

 思わずはしゃいでしまうあたしに流し目を送る兄。そんなあたし達の前に、

「あの…」

 誰かが寄ってくるのに気付いて、あたしは思わず背筋を伸ばした。

 「は、はいっ」 

 「…もしかして、先日お電話をくださった、夏茂様ですか…?」

 顔を上げると、あの日、あたしに名刺をくれた男の人と目が合う。

 「…そうです。あなたは、もしかして…」

 「はい。先日、こちらのお嬢様にお声がけさせていただきました。Lienでマネージャー業務を行っております、和泉叶斗と申します。本日は、わざわざご足労いただき、誠にありがとうございます」

 お兄の言葉に、その人…いずみさんが、これ以上ないほど丁寧に、深々と頭を下げてきた。その様子に、あたし達は呆気にとられてしまう。

 「あ、あの…」

 「ひとまず今日は、詳しいプロジェクトのお話をさせていただくということでしたよね。すぐにお部屋に御案内しますので、このままついてきていただけますか?」

 「は、はい…」 

 なんか、すでにこの人のペースに呑まれている気がする…。

 そんな意味を込めたアイコンタクトを兄を交わしながら、あたし達はいずみさんについていった。

 

 

 

 


 


 

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