バーチャル・ラストラブ
須藤淳
お別れのやり直し
初めて付き合った彼女と別れて、一年が経った。
正確に言えば、「別れた」のかどうかも曖昧だった。お互いに仕事が忙しくなって、連絡の頻度が減って、デートも気まずくて、最後に会った日も笑い合えなかった。
「じゃあ、元気で」
「うん、またね」
それが最後だった。
それから連絡も取れず、自然に消えていった関係。初めての恋人だったのに、ちゃんと終われなかったことがずっと心にひっかかっている。
ふと、スマホのアルバムを眺めていたとき、隣の席の智樹が声をかけてきた。
「それ、VRで整理してみる?」
智樹は同期で、VRマニア……というか、もはや狂信者だ。
お昼にカップ焼きそばを片手でかきこみながら、もう片方の手で謎のヘッドセットを調整していたり、「ついに“記憶の海”に手を伸ばすときが来た」とか言い出す、完全に危ないやつである。
「俺が作った“元恋人との疑似お別れプログラム”、試してみない? 写真とか映像があれば再現できるよ」
「いやお前さ、そっち系の倫理ライン、毎回ギリギリなんだよ……」
「ギリギリがいちばん面白いんじゃん? 俺のVR世界、だいぶ“深い”ぜ。ほぼ現実。いやむしろ、現実以上」
目が本気だった。やばい方向に。
「失恋処理をVRに任せるって、どう考えても悪手じゃねえの?」
「人の心を整理するには、“記憶”と“感情”の再構築が必要なの! その手段がVR! これは治療! 心のセラピー! 名づけて、バーチャル・ラストラブ・プロジェクト(仮)!」
「……最後の“仮”が怖いんだよ」
なんとなく、心は揺れた。
ちゃんと終われてなかったからこそ、やり直せるなら――と思ってしまった。
「ここまで勧めておいてなんだけど、趣味で作ったやつだから、バグるかもだけど責任は取らん」
「やっぱやめようかな……」
「まーまー。試してみようぜ!」
やっぱやめといた方がいいんじゃないかと、10回くらい思ったけど。
それでも、俺は頷いた。
──VRの世界。
そこは、彼女と初めて行った水族館に、最後の記念にと二人で立ち寄るシーンだった。
透き通る水槽のトンネルに、光が差し込んでいる。ブルーの海の中に、魚たちが踊るように泳いでいる。
彼女が、隣で足を止めて笑った。
「ねぇ……覚えてる? 最初に来たとき、ずーっと緊張してて、魚どころじゃなかったでしょ」
そう言いながら、肩をくすぐるように軽く小突いてくる。
「だって……お互い敬語だったし……“こんにちは”で始まったデートなんて、あれが人生で最初で最後だよ」
彼女がくすくすと笑い、こちらを見上げる。
現実よりも少し優しく、少しだけ綺麗に見える笑顔。でも、間違いなく、彼女だった。
初々しかったあの日の再現。だけど今回は違う。
手をつないでも自然だった。彼女の方から、からかうように指を絡めてくる。
「今日は、ちゃんとリードしてよ?」
「……努力します」
そう言って、ふたりで顔を見合わせて笑った。
その後は、彼女が好きな洋食屋へ。
ハンバーグを食べる彼女は、ケチャップをほっぺにつけたまま、気づかず喋り続けていた。
「ほら、ついてるよ」
そっと拭ってやると、少し照れた顔をして笑う。
買い物に付き合い、雑貨屋でお揃いのストラップを選ぶ。
音楽カフェで、あの頃聴いていた曲が流れてくる。
何もかもが、理想のように、うまくいった。こんな時間が現実にあったら、きっと別れてなかったと思えるくらいに。
そして、夕暮れ。
小高い丘の上に並んで腰を下ろす。オレンジ色に染まる空。風が髪を撫で、少し肌寒さが混じる春の終わり。
「……楽しかったね」
「うん。ありがとう」
彼女の声が、少し震えている。目に涙を溜めながら、でも笑っていた。
「バカだなぁ、ちゃんと話せばよかったのにね」
「うん……」
「でも、これで良かったのかも。やっと言える」
彼女がこちらを向き、そっと目を閉じた。自然に、キスを交わす。
温かくて、懐かしくて、胸がきゅっと締めつけられるような感覚。
そして、彼女が最後に言った。
「またね、大好き」
その瞬間だった。
彼女の顔がぴたりと止まり、笑顔のまま硬直する。
「だいすき、だいすき、だいすき……」
声が、ノイズ混じりの音声で反復される。目がチカチカと点滅し、顔が歪み、身体がみしり、と膨らんでいく。
「スキスキスキスキスキスキスキスキ……」
顔が割れ、関節が逆方向に折れ、まるで別の生き物のように、異形の怪物がこちらに迫ってくる。
「うわああああああっ!!」
ヘッドセットを叩き落として、現実に戻る。
全身が汗でびしょ濡れだ。荒い息をつく俺に、智樹がにこりと笑った。
「おー、大丈夫か? 吹っ切れたー?」
その顔が――笑顔のまま、ゆっくりと歪み始める。
輪郭が膨れ、皮膚が波打ち、瞳が揺れる。
「だいすき、だいすき、だいすき……」
その声が、彼の口から漏れた。
逃げ出そうと立ち上がった足元。
床が、ざらりと揺れる。――否、“視界”がノイズで震えた。
(まさか、これも……)
部屋の壁が赤く染まり、耳元で警告音が鳴り響く。
《ログアウトできません。ログアウトできません。ログアウトできません》
――じゃあ、ここもまだ、プログラムの中?
背後から、あの声が囁いた。
「またね、大好き」
その音が、皮膚の内側にまで染み込んでくる。
足元から力が抜け、膝が折れた。
崩れた視界が波打ち、床と壁の境目がとろけていく。天井がぐにゃりとひしゃげ、光がチカチカと明滅する。
息が苦しい。
寒いのか、熱いのかもわからない。
身体が、自分のものじゃないみたいだった。
繰り返される、あの言葉。
「またね、大好き」
「またね、大好き」
「またね、大好き」……
ノイズ混じりの声が、脳の中に直接流れ込む。
重なり合った言葉は、意味を失い、ただの“音”になる。
音が、やがて空白になる。
境界が曖昧になる。現実も、記憶も、自分も。
思考がほどけていく。
(これは夢だ。違う、これは記憶……でも、記憶って……なんだ……)
意識が、ゆっくりと沈んでいった――。
バーチャル・ラストラブ 須藤淳 @nyotyutyotye
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