8/29 23:58

≫≫仮名昏町かなぐれまち扇崎せんざき宅、陸上鑑くがうえかがみ

 田舎町の夜は静かだ。逆に静かすぎて眠れないという日があっても良い。

「……酒飲みたい。」

 遡る事夕方17時頃。うたいちゃんが湧かしてくれた暖かくて広めの風呂に足を伸ばして入って、上がったらカウンターに雅空がくが不機嫌そうに座っていた。無事に予備の弾と、追加資料を手に入れることができた。雅空の話によると。

『この町、ほんとになんかやばいっすよ。』

 らしい。そんなことは私だってよく分かっている。逆に――謡ちゃんの様な存在がいるのにやばくない訳がないと思うのだ。適当に水でも飲もうと起き上がって、開け放たれた窓にぼんやりと目を向けた。風が外から入って来る。この部屋にはエアコンが無い。

 私が通された部屋は、6畳の和室だった。――謡ちゃんが言っていた、母親の療養部屋だろう。まいさんから借りた黒いTシャツとグレーのホットパンツは涼しかった。まぁシャツが胸元のサイズだけやけに寂しかったのが複雑だが。キシキシ音を鳴らす扇風機を手で止めて、眼鏡を手に取って立ち上がる。髪が重たい。いっそばっさり切ってしまおうかとも思いながらそれを指でなぞる。

――『鑑はこの長さが似合うな。』

「……いつまで伸ばしていればいいのよ、兄貴。」

 昼間、舞さんとあんな話をしたせいで兄貴の顔が良くちらつく。それと同時に足元からずぶりと溶ける様な感覚に襲われかける。体中に歪の様な見た目の黒い液体が這う夢。……私はやはり弱い。


 兄貴は昔から体は弱いが頭が良い、私と正反対な感じの人だった。ついでに言えば、私の髪が黒っぽいのに対して兄貴の髪は灰色の様な色をしていた。何となく謡ちゃんに重なってしまうのかもしれない。

 兄貴は、一度体を歪の人型個体として乗っ取られた。嫌な記憶だ。

「いだ……。……たすけ……、かがみ……。」

 私がそれを見た時、兄貴は顔の上半分が歪で覆われ始めていた。その当時兄貴は会社で酷い目にあっていたらしい。床におびただしい量の歪が蠢いていて、大きな歪の水たまりの様なものの中に必死で兄貴を引きずり込もうとしている様に見えた。特異対策室で働き始めて直ぐの事だった。与えられた眼鏡越しに、兄貴が死にかけている様子が見えた。私は夢中で水たまりに向かってリボルバーガンを撃ち続けた。

  どごん どごんどごん

 やめろ、こいつはこちらがわにくるべきだ。じゃまをするな。低くとも高くとも聞こえる嫌な声がずっと水たまりからしていた。我に返った時に、水たまりの様になっていた歪はもう灰になりかけていたが、結局最後まで兄貴の顔を覆った歪は取れなかった。今も取れていない。それから兄貴はずっと病院暮らしで、ろくに見舞いにも行っていなかったのだが最近死んだらしい。

 もともと兄貴と2人暮らしだったあの家で1人になった私は、よく夢を見るようになった。黒い、歪の様に見える真っ黒い液体に、背中からじわじわ飲み込まれる夢だ。溶ける様な、体の中に歪が入り込んでくる様な、そんなイメージと感覚がどうにも気持ち悪い夢。兄貴のあの優しい声で歪が喋る夢。

「――こちらは気分がいいぞ。」

 兄貴は何として死んだんだろう。夢を見ながらぼんやり思う。あの優しげな眼が歪に覆われていた兄貴は、確実に人型個体に成ろうとしていたのに。もしかして邪魔しちゃったのかなぁ、なんて思う。もう悲しくもなんともないらしい。なのに。

 私はずっと、あの人が褒めてくれた長いこの髪を切れないでいる。


「……はぁっ。」

 和室を出て廊下を進んだ突き当りに台所がある。基本的に炊事は全部店の方でやるらしく、ガスコンロに薄く埃がかかっていた。勝手に食器棚からコップを拝借して水を汲んで喉を潤した。やけに静かで、あの姉妹が寝ている部屋からは何の音もしない。扇崎姉妹は夜が速いらしく、もうぐっすり眠っているのだろう。

「……しかし変だよな。」

 謡ちゃんの話では、3人暮らしだった頃この家の中は光も射さないほど大量の歪が居たらしい。その歪は最終的に両親という人型個体に形を変えたと謡ちゃんは言っていたが、それにしても――舞さんから吐かれてる歪しか見当たらない。両親から出ていた歪が残滓も残っていない。一抹も残さずに全て吸収されたのだろうか。そこまで勢いのある人型個体。……もしそれがまだ消えておらず、この町のどこかに居たとしたら悲惨な事だ。早く祓わないとまずい。ただまぁ爆ぜて消えたのが本当なら、謡ちゃんの両親は骨も残っていないだろう。

 謎が少しずつ解け始めている。

扇崎謡という存在は危険だ。彼女には感情が無い。恐らく、常人が彼女の傍に居たら例外なく吐く歪は増え、最終的に人型個体になるだろう。舞さんはまだ来て日が浅いから問題はなさそうなのと、謡ちゃんの核心にほとんど気づいているからまだ平気だろう。

 本人が感情の欠如に気づいている可能性は低い。あの子多分、自分の意思とは関係なく、ちゃんと声や表情を取り繕えるようになっているのだ。それがまた厄介な話である。私はどう手を打つのが最適なのか。

 謡ちゃんが忌み子と呼ばれながら生まれ、自我を持ったときには既にその異質さがあった。恐らくあの欠如は何かの障害なのかもしれない。それか本当に呪いだろうか。まぁ幼いながらもそこに漠然と存在していた異質さに両親は気づき、謡ちゃんという存在の禍々しさを隠すため、もしくは己の精神を守るため。――はたまた、実の娘である謡ちゃんを愛そうと思ったためだろうか。その手段として、姉である舞さんを家の中で除け者扱いした。ここまでは説明が付く。

 そして、舞さんが高校進学のためにこの町を出て、謡ちゃんから目を背けるための別の問題が無くなってしまい、両親はなすすべなく謡ちゃんの異質さに当てられた。そこからどんどん歪を吐く量が増え……、なぜ謡ちゃんの容姿は変化したんだろうか。薄茶色だったという髪はほとんど白髪と呼んでいいぐらいの色だし、栗色だったらしい目は琥珀色である。やはり、生きる上で歪に触れる量が急激に増えたことによるストレスなのだろうか。他に理由があったとしても、歪の量の増加には関係しているだろう。

『母さん、私に向かって言ったんです。娘を返せ、この化け物が、って。』

 化け物。その言葉に意味はあるんだろうか。……実際問題、謡ちゃんは見た目が変化した事により父親から性的被害を受けているらしかったし、もとより謡ちゃんが嫌いな母親がそういう結論に至るのも無理はないのかもしれない。

「はぁ……。何なんだよこの家族……。」

 思わず声に出してしまって焦って口を抑える。ただまぁ考えれば考えるほど娘2人が可哀想だ。流し台にコップを置いてから、私はふと思いついて家の中を散策することにする。

 この家は2階建てで、1階はほとんどリピディアのスペースになっている。カウンター奥の扉の向こうは店の備品庫になっているが、扉を開けて直ぐ正面に2階への階段がある。上り切った先にはまた扉があり、2階に入ることができる。一応外からも2階へと上がる事ができ、その場合は私が与えられた6畳の和室に面したベランダから入る感じになる。2階に入って直ぐ玄関があり、正面は廊下になっている。奥の左右の2部屋が謡ちゃんと舞さんのそれぞれの部屋。右側の舞さんの部屋の隣は風呂場と脱衣所で、謡ちゃんの部屋の隣は両親の寝る部屋になっていたらしい。玄関から入って1番手前の左側の部屋はキッチンとダイニング、リビングが一体化した広めのスペースになっていて、その奥の方に襖で隔てて6畳の和室がある。右側はトイレとか洗面所らしい。不思議な間取りの家だ。

 両親の部屋の扉は常時開け放たれていて、所々物が段ボールに詰められていた。荷造りの途中の様な感じである。にしても服ぐらいしか物がないため、めぼしいものは無い。部屋の電気が付かない上に、姉妹が起きてきそうな気がしたためこの部屋を見るのはまた今度にする。

 仕方ないから和室に戻って来た。母親が療養し、両親が人型個体として最後に視認された部屋だ。和室には不釣り合いな量の本が壁際の棚にぎっちり収まっており、収まり切れていないので床にも20冊ぐらい積まれている。どれも有名な日本文学ばかりで、そのどれも年季が入っていた。表紙が褪せていたり、破れかけていたり、シミが付いていたり。何度も何度も繰り返し、狂気的なぐらい読み込まれているのが分かる本の群れだった。電気を付けないまま窓際で風にあたりつつそれを眺める。本棚に入っている分の本は丁寧に50音順に並べられていた。1つの段に入っている本の冊数もおおよそ決められている。なんというか、どれだけ活字中毒だったのだろうか。

「……ん。」

 あ行の段から下へと目線をやっていくと、1冊、やけにボロボロの本が目に入った。大体さ行ぐらいだろうか。棚の1番右端にビニルで包まれた本がねじ込む様に置かれていた。私はゆっくり窓際から離れて、その本に近づいていった。正面に来て、その本に指で触れる。ビニルの滑らかな感触だけが伝わって来る。そのまま指先に力を入れてその本を取り出した。無理にねじ込まれていたらしく、意外に取るのに力が必要だったが無事に取り出せた。透明なハリのあるビニルの中には、文庫本ぐらいの大きさの少し厚いノートが入っている。ページは破れかけ、色はくすんだボロボロと形容するのがぴったりのノートだった。

「……日記?」

どこにでもよく売っているそのノートの表紙には達筆な文字で文言が書かれていた。

〈日記 ××年~○○年 扇崎かなで

「……へぇえ。」

 舞、謡、ときて母親は――奏というらしい。思わず笑ってしまいそうになる。父親の名前も気になるところだなと思いながら、ビニルの中からその日記を取り出した。ぱらぱらと捲って、目に付く内容だけ読んでいく。そして思わず手が止まる。

『12月3日 雨  かあさまが家に来た。ずっと泣いてた。次生まれて来る子のことで後悔してるみたい。もうしかたないって言ってるのにずっと謝ってた。』

 不穏だ。もう既におかしさが溢れている。表紙の文字とは異なる、震えを我慢しながら書きつけた様な文字。かあさま、というのは謡ちゃんの祖母にあたる人だろうか。謡ちゃんを忌み子と呼んだという。次生まれて来る子、というのはやはり謡ちゃんの事だろうか。ページを戻る。夏ごろまで戻ってまた目が吸い寄せられる。

『8月31日 雨  今日は本番。一日神社で着物着て疲れた。終わった後から体調が悪い。舞がずっと不安そうな顔してた。笑って、君に妹ができるよ。』

 どうやらこの日記は、ちょうど謡ちゃんが生まれるぐらいの年に書かれたものらしい。そのページにはポラロイドの写真が挟まれていた。巫女の様な服装の、艶やかな黒髪をきっちり括った、酷く落ち着いて見える、舞さんによく似た女性が映っていた。その隣には見覚えのある黒子が目元にある少女が泣きそうな顔で立っている。これが、姉妹の母親である扇崎奏らしい。……驚いた、舞さんと母親は顔がそっくりだ。ページをほんの少しまた戻ってみる。

『8月18日 晴  嫌な話を聞いた。ずっと前にかあさまがやった儀式、今年またしなくちゃいけないらしい。前の人柱の子はすぐ死んだって言ってたから、私が作ってもそうなるのかな。私の妹、そうやって死んだんだな。』

 日記を落としそうになった。声を押し殺す。ものすごい嫌悪感が指先から全身へと広がっていく。この断片的な情報で、私の頭の中は嫌な妄想が飛び交っていた。もしそれが妄想じゃなかった場合を考えると吐きそうになる。私は震える手で携帯を掴んで、細心の注意を払いながらその日記の写真を撮った。それをそのまま雅空に送って、電話を掛ける。意外にも直ぐに、私の後輩は電話に出た。

――『あもしもし?鑑先輩?なんかありました?』

「特には無いんだけど、大至急雅空に見てもら居たものがあって。さっきそっちに転送したから見てくれるか。」

――『いいですけど、その見るっていうのは視ろってことですか?』

「うん、そう。それ。あと怖いから夜明けまで電話しよ。」

――『何、何でですか。どうしたのほんとに。』

「い、いいからほら、まず見てよ。」

 雅空はサイコメトラーである。しかも結構使い勝手がいい。その能力の強さ故に、持ち主の毛髪1本から概ねを読み取ることが出来たり、今の様に写真だけで記憶や持ち物の特徴をうっすら読み取れたりするらしい。勿論現物であればより詳しく鮮明に情報を知ることが出来る。それだけ能力が強いため、物との結びつきを深く持てるということだ。逆に言えば、繋がりが強いあまりに反動も強いらしいが。そういや新人歓迎会の時なんか、新人から持ち物を巻き上げて、そいつの生年月日から最近の悩み、人生最大の失敗なんかまでべらべら喋って見せた。多分雅空は新人に嫌われたと思う。

――『……いやぁ、ちょっと先輩。なんつぅもん送って来てるんですか。視るとかいう以前に禍々し過ぎますよこれ。』

「は。」

――『視たら僕まで体調崩しそうだし……。ねぇ先輩、そこ手引いた方が良いんじゃないですか?ほんとに拙いと思いますよ。』

「それは思うんだけどさぁ……。」

――『ま、日が昇ってから考えてみてくださいよ。あそうだ、むらっちが鑑先輩に連絡取りたいって言ってましたよ。携帯ちゃんと見て下さいねまじで。』

「え、叢雲が?……そうなんだ、分かった。」

――『じゃ僕は寝まーす。頑張れ先輩。』

「まってやめてきらないでよこわいんだってばがくねぇやめ……。」

 薄情な後輩だ。……絶対寝れねぇじゃねぇか今日。

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