第10話 今日が、ずっと続きますように

「……いってらっしゃい、気をつけてね」


玄関先で母・遥香がそう言うと、心音は小さく手を振って高校へ向かう。


「お兄ちゃん、今夜はカレーがいいな〜。甘口でね!」


そう言いながら、彼女は軽やかに階段を駆け下りた。

春の陽射しに包まれる心音の背中を、結人はゆっくりと見送る。


「……甘口か。はいはい、了解っと」


母・遥香は朝からパートに出ていた。

仕事を掛け持ちしながら、家族の生活を支え続けてきた人。


自分のことはいつも後回しで、

それでも弱音ひとつ吐かずに、ただ「お母さん」として笑っている。


そんな姿を、結人はずっと見てきた。


(俺は……この人を守れるだろうか)


研究に打ち込む理由も、AIを作ろうと思った理由も、

そのほとんどは、この家族の“未来”のためだった。


夕方。

仕事から帰ってきた遥香と、制服のままソファに転がる心音と。

リビングには、穏やかな空気が流れていた。


「ただいま〜……あっ、いい匂い! やったー、カレーだ!」


「お兄ちゃん、ちゃんと辛くしてないよね?」


「まさか。心音のために甘口ルーだけ使ったんだぞ、特別製だ」


「えへへ、さすがー!」


そのやり取りを、遥香がそっと笑って見つめていた。


「……結人、本当にありがとうね。毎日こんなふうにしてくれて」


「……別に、俺がやりたいだけだし。心音もいるし」


「そうね。あなたがいるから、私たち、頑張れてる」


その言葉に、思わず視線をそらす。

照れ隠しじゃない。ただ、胸が少し痛くなる。


夜。

食器を洗い終えて、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。


(朝は“お兄ちゃん”の声で起きたいって言ってたから、再生するね)


──その言葉を、まだ使う時じゃない。


けれど結人は、少しずつ準備していた。

この日々が、ある日突然終わってしまうことを知っているから。


未来の心音のために、

母のために──残せるものを少しでも多く。


カップから立ちのぼるコーヒーの香りに包まれながら、

結人はそっと目を閉じた。


この時間が、ずっと続いてくれたらいいのに。


──それは、誰よりも願った、優しい願いだった。

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