第9話 この距離を、名前にできたら

「……結人くん、今日も自分で作ったの?」


昼休み。

大学のベンチでお弁当を広げる結人に、澪がそっと声をかけた。


「うん。っていっても、昨夜の残りを詰めただけ」


結人が照れくさそうに笑うと、澪も小さく微笑んだ。


「心音ちゃん、嬉しいだろうね。朝も起こしてもらって、朝食まで……」


「甘え上手なんだよ、あいつは。たまに俺も甘えたくなるくらい」


そんな冗談のような言葉に、澪の胸がふっと温かくなる。


──ずるいな。

──どうして、そんなふうに笑うの。


(それなのに、全部を背負ってる顔をしてるのは、どうして?)


高校の頃から、澪はずっと見てきた。

心音の「大好きなお兄ちゃん」の話を聞きながら、

その名前に、何度も心が動いた。


けれど、実際に出会った結人は──

その想像よりずっと静かで、どこか哀しげだった。


(この人は、誰よりも優しい。だから、自分のことを後回しにする)


言いたいことはたくさんあるのに、言葉にすると壊れてしまいそうで。

この距離を、名前にできないまま、時間だけが過ぎていく。


「ねぇ、結人くん」


「ん?」


「……困ったときは、頼ってね。私にも」


結人は少し驚いたような顔をして、それから目を細めて笑った。


「ありがとな。澪は優しいな」


その言葉に、心の奥が静かに痛んだ。


──違うよ。

──私は、優しいんじゃない。


「結人くんのことが、好きなんだよ」


その言葉は、今日も声にならなかった。


結人が研究室へ戻る背中を、澪は黙って見送った。

彼の肩越しに、春の風が通り抜ける。


(私がこの手で守りたいと思ったのは、たぶん──)


──最初から、あなたひとりだけだった。


遠くで鳴るチャイムが、静かな日常を区切っていく。

けれど、澪の中では、何かが少しだけ変わり始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る