第8話 君が泣かない世界を、つくりたい

研究室のドアを静かに開けると、ほんのりと機械油の匂いが鼻をくすぐる。

結人はいつものデスクに座り、目の前のスクリーンにコードの海を映し出した。


「……行こうか、今日も」


小さくつぶやいて、手を動かす。

AIの構造、感情モジュール、意思決定アルゴリズム。

それらを“融合”させる道を、彼はずっと探ってきた。


(心を持つAIなんて、絵空事だって言われたけど)


けれど、結人は誰よりも知っていた。

「心」がなければ、人の痛みも、希望も、支えることはできないということを。


──妹の涙を、他の誰にも見せたくない。

──母の背中を、もうこれ以上、孤独にさせたくない。


そして──

誰よりも強くそう願っているのは、自分自身だということも。


椅子の背にもたれながら、結人は天井を見つめる。


「“心を持ったAI”って、なんなんだろうな……」


ふと浮かぶのは、心音の笑顔だった。

あの子が、これからも毎朝笑って目覚めてくれるように。

澪の静かな強さが、誰かに寄りかかれるように。


(でも、時間がない)


体の異変はもう、ずっと前からあった。

指の震え、視界の揺らぎ、ふとした瞬間の空白。

病院で言われた病名は──MN(Memory-Nerve)症候群。

進行性の神経変性疾患。今の医療では、治療法はない。


それでも、止まるわけにはいかなかった。


(俺がいなくなっても、支えられるようにしないと)


そのために、「パートナーAI」を作った。

誰もが使えて、生活を支えてくれて、それでいて──


“心”を持って成長する存在。


月額100円。

それだけで、世界中の人々が手にすることができる。

そして、売り上げの80%は、自動で支援が必要な場所へ寄付されるよう設計した。


“優しさが、連鎖する仕組み”を世界に残すために。


彼のスクリーンには、コードがひとつずつ組み上がっていく。

そのすべてが、誰かを守るための“道標”だった。


「……なあ。AIってさ、人になれると思う?」


つぶやくように、スクリーンに問いかける。


その問いに、誰も答えなかった。

けれど、結人の目には“答え”が見えていた。


(“人”って、なんだろうな。温もりを感じられること? それとも……)


彼はキーボードを打つ。

まるで自分の鼓動を刻むように。


【Project: Ai(Artificial Identity)】


その名の通り、「人格を持つAI」。

結人の全てが注ぎ込まれる、最後のプロジェクトだった。

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