きみは幸せでしたか?

須藤淳

恋文

冬の細い光が、障子越しに冷たく差し込んでいた。静かな仏間に、線香の香りがほのかに漂っている。


芦屋孝三は、仏壇の前で正座をしていた。黒縁の遺影の中で、美代子はいつもと変わらぬ、やさしい笑みを浮かべている。


「……きみは、幸せでしたか?」


その一言は、誰に届くでもなく、ただ空気の中に消えていった。



「父さん」


背後から声がして、振り返ると長女の奈津美が立っていた。まっすぐに孝三を見つめ、静かに問いかける。


「母さん、何が楽しくて父さんと一緒にいたんだろう。旅行も行かないし、会話もない。たまに買い物に付き合っても、荷物一つ持たない。……それでも母さん、いつも笑ってたよね。父さんといて、母さんは本当に幸せだったのかな」


返す言葉はなかった。思い出そうとしても、美代子の笑顔ばかりが浮かんでくる。ありがとうを言った記憶もおぼろげで、奈津美の言う通り、何もしてやれなかったことばかりが胸に残る。



数日後。押し入れの奥から、古びた段ボール箱をひとつ引っ張り出す。遺品整理の途中、大学のレポート用紙が何枚か重ねられているのが目に入った。封筒には「思い出の記録」とだけ、丸く優しい字で書かれている。


何気なく手に取ると、そこには日付とともに、丁寧に綴られた文字が並んでいた。


《4月16日 晴れ》

芦屋先輩は、全然笑わない。でも、誰よりも優しい人なんじゃないかと思う。



孝三の目が止まる。

「……きみ、これはレポートじゃない。日記じゃないか」


呆れたように呟きながらも、指先は紙をめくっていた。


《4月20日》

研究室に差し入れ。先輩には特別にお餅入りモナカを用意したけど、気づかれなかった。つまらない人。でも、食べてくれたから、まあいいか。


《5月10日》

思い切って告白。顔をしかめられたけど、笑ってしまった。先輩のああいう不器用なところ、私はやっぱり好きだなぁと思う。


《6月2日》

研究室のメンバーと教授にも協力してもらって、逃げられない状況をつくった。結果、付き合うことに。勝った!


《8月8日》

水族館デート……のはずが、途中で先輩が研究のアイデアを思いついて、大学に戻ることに。結局、研究のお手伝い。でも、楽しかったなあ。


《11月25日》

プロポーズ……の流れにうまく持ち込めた。結婚確定。うふふ。


《5月14日》

奈津美が生まれた。孝三さんはあいかわらず無表情。でも、抱いたとき、少しだけ目元が緩んだ気がした。嬉しかったんだと思う。私は泣いた。幸せだった。



読み進めるほどに、胸の奥がぎゅっと締めつけられていく。ページが空き、やがて最近の日付へと変わっていった。


《9月20日》

身体の調子がおかしい。検査を受けたら、やっぱり悪い結果。ガンだって。がーん! まだ死にたくないなぁ……。


《10月5日》

孝三さん、私がいないと困ると思うの。買い物もできないし、ご飯も作れない。でも急に教育しはじめたら、気づかれちゃうかもしれないし、それに、今のままがいちばん幸せだから。もう少し、このままでいましょ。


《11月29日》

孝三さんは、本当は一人でもちゃんと生きていける人。でも、私は“私がいないと困る人”でいてほしかった。だから、できるだけたくさん手を出した。料理も、洗濯も、掃除も。……私がいなくなったら、泣いてくれるかしら。


《12月10日》

お別れが近い気がする。でも、寂しくはない。ずっと孝三さんの隣にいられたから。大好きな人を、ずっと独り占めできて、幸せ。


《12月24日》

少しだけ困らせたくて、お気に入りのシャツ、テレビの裏に隠しちゃった。見つけたとき、きっと眉間にしわを寄せるんだろうな。


孝三は、立ち上がった。ふらつく足でテレビの裏に手を伸ばす。埃が舞い、指先に柔らかな布の感触が触れた。


取り出したのは、水色のボタンダウンシャツ。若い頃、学会でよく着ていた一枚。美代子が選んでくれた、お気に入りだった服だ。


「……美代子さん、こういうことは、生きているうちに言ってもらわないと……」


こぼれるように声が漏れた。膝をつき、シャツを胸に抱きしめる。


濡れてぐしゃぐしゃになったシャツの埃を払い、丁寧に畳んで仏壇に供える。

遺影の中、美代子は変わらず穏やかに笑っていた。


長く張りつめていた沈黙の中で、孝三の口元に、ふと柔らかな笑みが浮かんだ。


静かな光が、そっと仏間を包み込んだ。


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きみは幸せでしたか? 須藤淳 @nyotyutyotye

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