第16話 夜明けの語らい

「気がついたようだね、アスタ――いや、ガロ殿」


 耳元で、穏やかなモーリッツの声が聞こえた。ハッと意識が覚醒する。目の前には、心配そうにこちらを覗き込むモーリッツの顔がある。周囲の空気は凍えるほど冷たいが、オーロラの光は依然として夜空を彩っている。

「あれ……? 僕は、一体……」

 不意に、ガロの声が口から漏れた。驚いたようにあたりを見回し、自分の手を見つめている。体が勝手に動き、口が俺の意思とは関係なく言葉を発したことで、俺は確信した。


 ガロが……戻ってきた……!


「あなたは……どちら様でしょうか?」

 ガロは、目の前の神父、モーリッツを見て困惑していた。

「白夜の牙との戦いの後……なんだか記憶がおぼろげで……」


 意識が覚醒したばかりで、まだ混乱があるのかもしれない。だが、それは大きな問題ではない。重要なのは、ガロが生きる意志を取り戻したことだ。ガロの魂から伝わってくる、以前よりも強い、俺と繋がる感覚がそれを証明している。あの深層世界での対話は、無意識のレベルで、俺たちの魂をより深く結びつけたのだ。


「はじめまして、と言うべきでしょうか、ガロ殿」

 モーリッツは穏やかに微笑み、ガロに向かって丁寧に挨拶した。

「私はモーリッツ。あなた方に救助された人間の一人です。漂着後、すぐに倉庫に……その、お世話になっていたもので、こうして直接お話しするのは初めてですね」


「あ、はい! はじめまして! ガロです! 大変な思いをされて、たどり着いた村で、あんな仕打ちをして、おまけに魔獣の襲撃もあって……本当に申し訳ありませんでした!」

 ガロは慌てて頭を下げた。

「いえいえ、あなたのおかげで村は救われたのですから」

 モーリッツは穏やかな笑みを浮かべた。


 ガロの記憶を完全に呼び覚ますため、俺は試してみることにした。

『ガロ、聞こえるか? 意識を集中させ、我の心の声に触れるのだ』

『こう……でしょうか?』

 俺は、先ほどの感情共鳴エンパシーの感覚を思い出し、意識的にガロの心にアクセスしようと試みた。すると、まるで霧が晴れるように、ガロの心の奥にある俺への扉が開くのを感じた。

『……アスタ様!? この感覚は!?』

『これで全てを思い出せるはずだ。我がお主に伝えた言葉も、お主が再び立ち上がった決意も』

 俺は、感情共有の力を最大限に高めた。深層世界での対話、俺の魂の叫び、そして心の動きが、鮮明な記憶としてガロの中に流れ込んでいく。


「……!」


 ガロは目を見開き、そして、はらはらと涙を流し始めた。だが、それは絶望の涙ではない。生きる意志を取り戻した、安堵と感謝の涙だった。

「……全部、思い出しました。アスタ様……ありがとうございます」

 ガロはモーリッツに向き直り、深く頭を下げた。

「モーリッツさんも……僕を、助けてくださって、本当にありがとうございます!」


「ふふ、どういたしまして」

 モーリッツは穏やかに微笑んだ。

「あなたたちには……私のように、なってほしくないと思っただけですから」

 その笑みは、先ほどまでのどこか寂しげな影はない。オーロラの不安定な揺らめきでもない。ただ純粋に、幻想的な美しさだけをたたえていた。


 ――だが、俺の中にはまだ疑問が残っていた。


『ガロ、すまないが、少しだけモーリッツに触れてくれ。彼と話したいことがある』

『え? はい、分かりました』

 ガロは不思議そうな顔をしながらも、モーリッツに近づき、そっと彼の腕に触れた。瞬間、俺とモーリッツの間に、再び魂の繋がりが生まれる。感情共有の力による、心の声での対話だ。

『モーリッツ、聞きたいことがある。なぜ、あんたの場合は、元のモーリッツが消えてしまったんだ? 俺とガロは、こうしてまだ繋がっている。この違いは何なんだ?』

 俺の問いに、モーリッツは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに思案するように空を仰いだ。月明かりに照らされた彼の横顔は、まるで精巧な彫刻のように美しかった。そして、彼は心の声で静かに答えた。

『……なぜでしょうね。私にも、完全には分からないところがあります。もしかすると、ガロ殿自身の魂の強さが、君の魂喰たまくいとしての本能的な侵食に耐えたのかもしれない。それとも……』

 モーリッツはそこで言葉を切り、何かを言いかけたが、やめるように首を振った。

『……いえ、確証のないことです。今は話すのをやめておきましょう。憶測は、かえって君たちを惑わせるだけかもしれない』

 そう言うと、モーリッツは一方的に心の対話を閉じた。


 モーリッツはガロに向き直り、穏やかな笑みを浮かべた。

「さて、もう夜も遅いですから、私はこれで失礼しますよ。ガロ殿も、ゆっくりお休みください」

 そう言うと、モーリッツは軽く一礼し、静かに闇の中へと去っていった。

「じゃあ、僕たちも帰りましょうか、アスタ様」

 ガロが俺に語りかける。彼の声には、もう迷いはない。

『ああ……そうだな』


 俺は答えながらも、心の中では先ほどのモーリッツの言葉を反芻していた。彼は、何を言いかけたのだろう? ガロの魂の強度、それとも……?

 そして、モーリッツ自身と俺との違い。彼は自分が何者であったのか、明確な記憶を持っているようだった。だが、俺にはそれがない。日本という国の知識はあるのに、俺自身の過去は完全に抜け落ちている。この違いは何だ? そもそも、なぜ俺は、最初に出会ったガロに対して、あんな超越的な存在であるかのように振舞おうと思いついたのだろう? まるで、俺自身が最初から存在しない……誰かによって創られた存在であるかのような……。

 俺は心の中でかぶりを振った。今は考える時ではない。過去がどうであれ、俺が何者であれ、関係ない。今は……ただ、ガロが戻ってきたこと。その温かい魂の繋がりを、再び感じられることだけを喜ぶことにしよう。


 ◇


 夜が明け、コータイの村に再び朝――と言っても、極夜の時期が終わらない限り薄暗いままなのだが――が訪れた。俺も、少しずつこの独特の明るさに慣れてきた気がする。

 村の中央広場の方が、何やら朝から騒がしい。人だかりができているようだ。

『あの騒ぎは、なんであろうか?』

『行ってみましょう、アスタ様』

 ガロと共に広場へ向かうと、意外な光景が目に飛び込んできた。広場の中心で、ルーカス・ワレンシュタイン辺境伯と、村一番の戦士である傷だらけスカーフェイスのトーマンが、それぞれ訓練用の木製の武器を持って向かい合っていた。その周りを、海獣の子供たちが興奮した様子で取り囲み、少し離れた場所には、物珍しそうに見守る大人たちの姿もある。

「あ、ガロ!」

 輪の外にいた海豹族の兄貴分、バルカだ。氷精族のシエラ、そしてルーカスの娘であるリリアーナも一緒にいて、こちらに気づいて手を振っていた。ガロは三人の元へ近づく。

「これは一体、どういう状況なの?」

 ガロが尋ねると、バルカが少し呆れたように答えた。

「それがな、昨日の宴でこの二人が意気投合しちまってな。ルーカスさんが『どちらの剣が上か、一度手合わせ願いたい!』とか言い出したんだと。そしたら、トーマンさんもその気になって『一個の武人として、その挑戦、受けて立とう!』ってな」

「ルーカスさんもトーマンさんも、昨日はあんなに飲んでたのに、元気なのよね」

 シエラも呆れたように言う。


 周りでは、海獣の子供たちが口々に勝敗予想を繰り広げている。

「絶対トーマンおじちゃんが勝つって! あの戟は魔獣だって真っ二つだぞ!」

「いや、ルーカスさんだってすごかった! 光る剣で白夜の牙を追い詰めたんだ!」

「でも、ルーカスさんは人間だろ? 訓練用の武器同士なら、トーマンおじちゃんの力には敵わないって!」

 そんな子供たちの純粋な議論が微笑ましい。


「リリアーナさんは、どちらが勝つと思いますか?」

 ガロが隣のリリアーナに尋ねた。

「ふふ、それはもちろん、お父様ですわ」

 リリアーナは悪戯っぽく微笑んだ。昨日までの不安げな表情は消え、少し元気を取り戻したようだ。極夜の薄明かりの下でも、彼女の金髪と青い瞳、そして雪のように白い肌は輝いて見えた。その朗らかな笑顔の美しさに、ガロの心臓がドキリと高鳴ったのが、俺にも伝わってきた。

『……ガロ? まさか、リリアーナ嬢に懸想しておるのか?』

 俺は心の中で、少しからかうように声をかけた。

『な、なんですかアスタ様!? そ、そんなんじゃありません!』

 ガロが慌てて否定する心の声と共に、動揺と照れの感情が強く伝わってくる。ふむ、分かりやすい奴め。まあ、これ以上からかうのはやめておくか。

 今は、この平和な日常を、もう少しだけ味わうことにしよう。俺はガロを微笑ましく思いながら、目の前の異種族間の交流を見守った。

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